111.【か】 『渇(かっ)すれども盗泉(とうせん)の水を飲まず』 (2002/01/15)
『渇すれども盗泉の水を飲まず』[=食(くら)わず]
いくら苦しく困っていても、不正、不義に汚れることを嫌い、身を慎むこと。
故事:中国の孔子が「盗泉」という所を通った時、喉(のど)が渇いていたが、その地名の悪さを嫌ってそこの水を飲まなかった。
類:●鷹は死すとも穂を摘まず悪木盗泉
出典:「淮南子−説山訓」「曾子立廉、不飲盗泉、所謂養志者也」
人物:孔子(こうし) 中国、春秋時代の学者、思想家。前551〜前479。名は丘(きゅう)。字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。儒教の開祖。魯の昌平郷陬邑(すうゆう=山東省曲阜県)の生まれ。最初司寇(しこう)として魯国に仕えたが、容れられず、辞して祖国を去り、多くの門人を引き連れて、約14年間、70余国を歴訪、遊説。聖王の道を総合大成し、「仁」を理想とする道徳主義を説いて、徳治政治を強調した。晩年は教育と著述に専念し、六経(、楽、春秋)を選択編定したとされる。後世、文宣王と諡(おくりな)され、至聖として孔子廟(文廟ともいう)に祀られた。
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熊五郎は、旧友である猪ノ吉(いのきち)と再会の喜びに浸(ひた)る暇もなく、道場の上座(かみざ)近くに座らされた。
猪ノ吉は「なんで熊五郎がこんな場面で?」というように訝(いぶか)しい表情をしたが、師範(しはん)に場を取り仕切られてしまって、切り出すこともできなかった。

>千:市毛大路郎殿、ご無沙汰(ぶさた)を致しました。千場功次郎で御座います。いつぞやは名乗りもせず、手合わせ中に逃走してしまい、失礼をば仕(つかまつ)り申した。
>市:千場功次郎殿と申されるのか? お探し申しましたぞ。漸(ようや)く会え申したな。
>千:お腹立ちのことでしょう。許してくだされ。
>市:腹立ちなど、疾(と)うの昔に忘れ申した。近頃では、間を裂かれた同志を恋うるような気持ちでいたくらいです。
>千:そう言って頂けると、こちらとしても気が楽になります。・・・そこな熊五郎殿は、当道場の師範代であるわたしの義子(ぎし)の旧友であられる。今回の話が持ち込まれたのも、何かの縁、改めまして、お付き合い願えればと考えております。
>市:縁とは異なものですな。できれば、野暮(やぼ)用など忘れて、一献(いっこん)酌(く)み交わしたいところです。
>千:それは良い。早速用意させましょう。

>熊:ちょっと待ってくださいまし、大(おお)先生。
>千:何かね? 熊五郎殿。
>熊:縁結びの件が落着(らくちゃく)しねえと、鬼瓦みてえな親方にどやされちまいます。後生(ごしょう)ですから、市毛様のご息女(そくじょ)の件を、早いとこ纏(まと)めちまってください。
>千:そうか。そうであったな。熊五郎殿を困らせる訳にもいかぬな。・・・市毛殿、ご息女の件は、如何(いかが)なさるかな?
>市:そうですな。まあ、この道場で決まるかどうかは分からぬが、試してみるのも一興(いっきょう)ですかな?
>千:はは。腕前の方は、衰えてはいませんかな?
>市:なんの。退任させられたからといって、そう易々と鈍(なま)ってしまうほど生半可(なまはんか)な鍛(きた)え方はしておりませぬよ。
>千:それは頼もしい。当道場には、少し荒削りではあるが、中々の使い手が居りましてな、お眼鏡にさえ適(かな)えば、お好きなように引き回されても一向に構いませぬが?
>市:ほう。腕が鳴りますな。

>千:一応、念のため確認させていただきたいのですが、ご息女はご同席なさらずとも良いのですかな?
>市:構いませぬ。予(あらかじ)め申し付けてありますから。
>千:しかし、市毛殿が見事(みごと)ご妻女殿を勝ち取ったあの会場でも、ご本人が立ち会っておられたではありませぬか?
>市:うむ。そう言われてしまうとそうするのが筋というものなのであろうが、この度(たび)は、人を募(つの)って大々的に催(もよお)すという訳ではありませぬからな。
>千:形がどうの、体面(たいめん)がどうのということで言っているのではないのです。ご息女本人のお気持ちのことです。
>市:ですから、それは了解させてあると・・・
>千:市毛殿、25年前とは時勢というものが違っております。今時は、女子(おなご)の気持ちも察してあげないといけないような世の中なのです。連れていらっしゃいませ。
>市:そうですか。ご指摘、忝(かたじけな)く受け申そう。

大路郎が娘宛ての書簡を認(したた)め、家を知っている八兵衛が遣いに指名された。「お付き」は、庭掃き係の2人である。
到着を待つ間、熊五郎はやっと猪ノ吉と話す機会に恵まれた。

>猪:熊ちゃん、なんであんたがここに来るようなことになったんだい?
>熊:元を糺(ただ)せば、総元締めが亡くなる前に引き受けなすったことだったんだ。「遺言(ゆごん)」みてえなもんだよ。
>猪:その遺言がどうして熊ちゃんのとこに回ってくるんだ? そんなに偉(えら)くなっちまってるのかい?
>熊:真逆(まさか)。おいらたちの親方の源五郎ってお人が、お偉いさんたちの間で、結びの神みてえに思われちまってるせいなんだ。見たら魂消(たまげ)るぜ、鬼瓦みてえな顔してるんだからよ。
>猪:その親方の名代(みょうだい)ってことかい?
>熊:そんな御大層なもんじゃねえさ。只(ただ)の使いっ走りよ。そもそも、今日は下打ち合わせだけの筈だったんだぜ。それをどこがどうした訳か、揃いも揃ってせっかちだらけでよ。あっという間に「さあお立ち会い」ってなもんよ。
>猪:そうかい。そりゃあご苦労なこったな。
>熊:「ご苦労な」って、それだけか? 止(や)めようとか、止めさせようとかって言い出さねえのか?
>猪:なんでだ? 面白そうじゃねえか。こちとら太平過ぎて、くさくさしてたところだ。丁度良いじゃねえか。
>熊:お前ねえ、事は人1人の婿取りの話なんだぞ。そんな調子で進めちまって良いのか?
>猪:良いのかってったって、先方さんの望みなんだろ? 良いに決まってんじゃねえか。熊ちゃんだって、さっさと片付いちまった方が清々するだろ?
>熊:そりゃあそうだが、なんだか、今一つ釈然(しゃくぜん)としねえんだよな。

>猪:それならこうしちゃあどうだ? 婚儀が纏(まと)まるかどうかはご当人同士の話し合いに任(まか)せるってことにしとく。義父(おやじ)殿もそう言ってることだし。・・・まあ、熊ちゃんには悪いんだがな。
>熊:その方がおいらも納得(なっとく)がいくぜ。けど、あの市毛様ってのは相当な堅物(かたぶつ)だぜ。
>猪:そこは義父殿に丸め込んで貰うさ。あののらりくらり天下一品だ。
>熊:ああ。そいつはさっき見せて貰った。そりゃあ上手に銚子様を丸め込みなすった。
>猪:はは。そうか。いっそのこと、商人にでもなっていたら、大儲けできていたかも知れねえって冗談話をするんだ。
>熊:如何様師(いかさまし)だってできるぜ。
>猪:幾らなんでも、そこまで零落(おちぶ)れやしねえがな。
>熊:ご尤(もっと)も。そうなってたら、夜盗の小頭(こがしら)だもんな。
>猪:止せやい。仮令(たとえ)道場が潰(つぶ)れたって、悪事になんか手を染めやしねえよ。

同じ頃、功次郎と大次郎も似たような話をしていた。

>千:市毛殿。差し出がましいことを聞くようですが、職を求めようという気は御座らんのですか?
>市:この年じゃ、仕官(しかん)先など見付かろう筈もない。早々に隠居して、倹(つま)しく生きようかと思って居ります。
>千:しかし、その腕前を只遊ばせておくのも勿体ない話です。
>市:用心棒の口くらいならあろうが、兎角(とかく)用心棒を欲しがるところは、黒い影が付き纏うものですからな。
>千:清廉な腕を汚すのは、如何かと思いますな。
>市:零落れたとはいえ、指南役までした誇(ほこ)りというものがあります。木の根を毟(むし)って食おうとも、悪事になど荷担する積もりはあり申さん。
>千:流石(さすが)は市毛殿。この千場、感服(かんぷく)仕(つかまつ)り申した。

そこへ、1人の門弟が息急き切って走り込んできた。

>男:た、大変です。門のところに人相の悪い男が来ています。一見武士ではないようなんですが、道場荒らしの類(たぐい)ではないかと思うんですが。
>千:何? またか?
>猪:私が見てきましょう。
>熊:ちょ、ちょいと、待っとくんなさい。
>猪:どうしたんだい、熊ちゃん?
>熊:あの、もしかして、鬼瓦みてえな顔じゃぁありやせんでしたか?
>男:正(まさ)しく。
>熊:それから、おいらのと同じような半纏(はんてん)を着てませんでしたか?
>男:そう言われると、そうかも知れぬ。・・・あ、それから、女人(にょにん)を2人連れていたような。
>熊:赤ん坊を抱いてませんでしたか?
>男:そのようでもあったな。
>熊:間違いねえ。うちの親方だ。
>猪:心配になって見にきたってことかい?
>熊:そうみてえだ。あーあ、変なときに来て呉れたな。・・・いや、待てよ。良いところに来て呉れたのかな?
>猪:益々面白くなってきたじゃねえか。役者が揃(そろ)ってきたぞ。・・・おい、丁重(ていちょう)にお迎え致せ。

門弟は、現れたときと同様、ばたばたと慌(あわ)てて走っていった。

>熊:ん? 待てよ。女の人を2人?
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