第12章「珍妙竜之介の腕前(仮題)」

107.【か】 『獲麟(かくりん)』 
(2001/12/10)
『獲麟』 (「麟」は麒麟(きりん))
1.春秋」が「西狩獲麟」の句で終わっているところから、絶筆。また、ものごとの終わりを意味する。
2.「春秋」に筆を加えたという孔子の死から転じて、一般的に、臨終や辞世を意味する。 用例:
玉葉−治承3年正月12日「煩赤痢病、及獲麟云々」
参考:麟を獲たり
出典:春秋(しゅんじゅう) 中国の古典。周代、魯国の隠公元年(前722)から哀公14年(前481)までの、魯を中心とする歴史書。魯の史官の遺した記録に、孔子が筆削を加え、その表現の中に彼の歴史批判を含めたものとされるところから、五経の一つとして重んじられるようになった。のち、「左氏伝」「公羊伝」「穀梁伝」などの注釈書ができた。
用例の出典:
玉葉(ぎょくよう) 平安後期〜鎌倉初期の日記。66巻。九条(藤原)兼実。長寛2年(1164)から建仁3年(1203)に至る間の朝儀(ちょうぎ)や政界の実情などを詳細に記し、論評を加えたもの。また、有職・風俗・天文その他の資料も豊富に含む。後に二条良基が書写し、『玉海』と題された。
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空梅雨だったり立て続けの台風だったりと、異常な気象だったが、漸(ようや)く冬になって落ち着きを見せてきていた。
数年振りの「寒さの厳しい冬」である。
どんな理由からなのか良くは分からないが、青魚(あおざかな)が不漁で、軒(のき)に飾る鰯(いわし)の頭どころか、日々のおかずになる筈の目刺(めざし)すら、高くて手が出せないという体たらくだった。

>八:なんとかならねえもんかねえ、こう寒くちゃ、玄翁(げんのう)を振る手の方が痛いようだぜ。
>熊:そりゃあ、壺(つぼ)に当たってねえせいだろ。ちゃあんと当たりゃあ、痛くなんかねえの。
>八:物の喩えだろうが。おいらが壺を外す筈なんかねえじゃねえか。見てろ、この華麗な玄翁捌(さば)きを。・・・あいてっ。
>熊:手じゃなくって釘の頭を打てよ。
>八:分かってるっての。寒くて手に力が入(へえ)らねえんだよ。・・・しっかし、じんじん響きやがるぜ。
>熊:そのうち火傷(やけど)したみてえに熱くなってくるから、丁度良いんじゃねえのか?
>八:笑い事じゃねえぞ。ほんとに痛えんだから。
>熊:分かったよ。後(あと)はおいらがやっとくから、手と体を温めてこい。
>八:良いのか? こりゃあ助かるぜ。
>熊:熱燗1本の貸しだからな。
>八:なんだと? まったくよ、それさえなきゃあ良い奴なんだけどな。
>熊:何を抜かしやがる。貸しの分を払って貰った例(ためし)なんかねえじゃねえか。いつもぴったり割り勘だからな。
>八:そうだっけ? おいら、酔っ払っちまうと、銭勘定は人任せだからな。その辺のことになると、確かに、定かじゃねえな。
>熊:まあ、飲んだ勢いで悪さする訳じゃねえから良いが、そのうち、何かに巻き込まれるぞ。
>八:へ、そんなの大丈夫に決まってんじゃねえか。なんてったって、お前ぇが二六時中(にろくじちゅう)ぴたっと張り付いてるんだからよ。

夕刻近くともなると木っ端(こっぱ)も尽きており、申し訳程度にちろちろ燃え残っている火に肩を寄せ合うようにして、五六蔵たちが世間話をしていた。

>八:おうおう、親方がいないのを良いことに、狡(ずる)けて呉れちまってるな?
>五六:もう日が暮れちまいますぜ。寒いったらありゃしねえですよ。早いとこ終(しま)いにして熱いのをきゅーっといきやしょうよ。
>八:それもそうだがよ、熊の野郎が決めたとこまでやるって頑張っちまってるもんでな。
>三:そう言う八兄いはなんでここに下りて来ちまったんです?
>八:ちょいと手元が狂っちまってな。良く言うだろ? 「弘法大師も字を間違う」って。
>四:「筆の誤まり」なんですけど。
>八:そんなのどっちだって似たようなもんだろ? ・・・それより、何を話してやがったんだ?
>五六:へい。急に冷え込んだりすると、弔(とむら)いが増えるなって。親方もそれでやしょう?
>八:ああ。随分と頑張ってはいたんだけどな。
>五六:本居(もとおり)なんとかっていう先生も、先だって亡くなったってことですしね。
>八:なんとかって、誰だそりゃ?
>四:国学者です。「古事記」を研究した人ですよ。
>八:乞食(こじき)なんか研究して何が面白いってんだ? 集(たか)られるのが落ちじゃねえか。
>四:そうじゃありませんよ。「古事記」ってのは、昔々の書物の題名です。
>八:なんだ、詰まらねえ
>四:面白いとか詰まらないとかの問題じゃないんですけど・・・

>三:総元締めの役は、誰がやることになるんですか?
>八:さあな。頑丈な年寄りはごろごろ居るからな。相馬屋の爺さん辺りなら、あと10年は持ちそうだろ。
>四:確かに。ただ、相馬屋さんはちょいとばかり耳が遠くなってきてるって話ですからねえ。
>八:へえ。お前ぇ、そんなこと良く知ってるな。
>四:耳が早いってのが、数少ない取り柄(とりえ)の1つですから。
>八:成る程な。誰にでも取り柄はあるもんだよな。

やがて熊五郎も適当なところで切り上げてきた。
田原の父つぁんとは言葉さえ交(か)わしたこともなかったが、元締めとして長年職人たちを束(たば)ねて呉れていたということでもあり、「清めの酒」という名目で、さっさと飲みに行こうということになった。
尤(もっと)も、名目などなくても、行くことに変わりはなかったのだが。

>熊:なんにつけ、人1人が居なくなる訳だからな、気分の良いもんじゃねえな。
>八:飲みに来てまで辛気(しんき)臭いことを言ってるんじゃねえよ。人間なんてものは、いつか必ず死ぬもんなんだからよ。
>熊:それで片付けちまっちゃ身も蓋もねえじゃねえか。それぞれに、生きた証(あかし)みてえなものがあるんだよ。
>八:あ、おいら、それなら知ってるぞ。「虎は死んだら皮を残して、人は死んだら墓を残す」ってんだろ?
>熊:「名を残す」だ。まったく、何一つ分かっちゃいねえ。

そんなとき、源五郎が浪人風体(ふうてい)の男を連れて、入ってきた。

>熊:おや、こりゃ親方、お珍しい。どうなすったんですか?
>源:ま、お清めの二次会だな。
>八:お弔(とむら)いの方は盛況でやしたか?
>熊:不謹慎(ふきんしん)な物言いをするんじゃねえっての。
>源:なにしろ顔役だからな。弔問客は引っきりなしってとこだ。そんなことより、この方と2人混ぜて貰っても構わねえか?
>熊:勿論ですとも。
>八:お足の方も、幾らか面倒を見てくださるんでしたら。
>熊:こら。意地汚ねえぞ。
>源:はは。良かろう。・・・こちらは、市毛殿といって、この先の飯田町の辺りに住んでいらっしゃるお方だ。
>市:市毛大路郎でござる。不景気の煽(あお)りで、今でこそ職を失っては居(お)るが、つい最近までは然(さ)る藩の剣術指南をして居った。
>八:その指南役様がなんでこんな小汚ねえ縄暖簾なんかに来なすったんでやすか? 職探しだったら、面倒見の良さそうなお武家様のところでしょう?
>市:職のことではない。暫(しばら)くは食うに困らぬだけの退職金は貰って居る。相談事というのはだな・・・
>八:相談事は?
>市:娘の貰い手をなんとかしたいと思ってな。

>八:また縁結びですかい? 親方。
>源:「また」なんて言うな。こういうことはそれぞれにとっては、一大事なんだからな。
>熊:それで? 真逆(まさか)、おいらたちの内の誰かをってことじゃ、ねえですよね。
>源:そりゃあそうだ。お前ぇたちにお武家の妻女じゃあ釣り合いが取れねえだろ。
>八:はっきり言って呉れちゃいますね。鹿の字の例だってあるでしょうに。
>源:あれは、飽くまでも特殊な例だ。そうそう在っちゃ、世の中、可笑しくなっちまう。
>熊:それじゃあ一体・・・

>八:あ、分かりましたぜ、親方。お夏ちゃんに鹿の字への橋渡しを頼もうって訳でやしょう?
>源:いや、そういうことでもねえ。
>八:これも違うんですか? そうすると?
>源:熊。お前ぇ、知り合いに、道場で師範代をやってる人が居るって言ってたよな。
>熊:猪ノ吉のことですかい? ですが、あいつはもう疾(と)っくに嫁を貰って、子供も2人居るってことですぜ。
>源:なにもそのご当人ということじゃなくても、腕の立ちそうな門下生とかが居るだろう?
>熊:そりゃあ、道場ですから。腐るほど居るでしょうけど。
>市:条件というのはだな、「拙者より強い者」、だ。
>熊:そいつは、無理ってもんですよ。だって、ご指南役だったんでしょう? 門下ごときが勝てる訳がねえですよ。
>市:もし、その道場に居なかったら、次の道場を紹介して貰う。
>熊:そりゃあ、見方に因(よ)っちゃ「道場破り」ですぜ。
>市:そう受け取られても仕方がない。

まるで無理難題である。その皮切りを猪ノ吉の道場でという話なのだ。
下手(へた)をすると、江戸中の道場を潰(つぶ)して回ることになるかも知れないのだ。

>熊:木刀とか竹刀(しない)でやるとしても、打ち所が悪かったら、死んじまいやしませんか?
>市:まあ、そうならないようには心掛けるが、可能性が無いとは言い切れんな。
>熊:そんなんじゃ、易々(やすやす)とはお引き受けできませんよ。ねえ親方。
>市:それでは話が違う
>熊:親方、そいつは一体どういうことです?
>源:それがな、田原の父つぁんがな、亡くなるちょっと前に、「市毛大路郎殿のご息女の縁談を纏(まと)めてやる」って約束なさったそうなんだ。
>熊:それで、その
お鉢が回ってきたってことですかい?
>八:とんだ遺言になっちまいやしたね。・・・田原の父つぁんも、相馬屋の爺さんみてえに、早いうちから耳が遠くなってりゃあ良かったのにねえ。

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