248.【せ】 『清談(せいだん)』 (2004.09.06)
『清談』
1.中国の魏晋南北朝時代の知識人の間に流行した、老荘および易に関する虚無的・超世俗的論議。不安定な政情の下(もと)で、権力者から身を守るため、抽象的な形而上学(けいじじょうがく)の議論に逃避したもの。代表的なものとして「竹林の七賢」がある。 ★後漢の党錮(とうこ)の禁(166年〜)に、高節の士が多く横死して以来、達識の士が山林に隠遁し、礼節の束縛を棄て、琴を弾じ酒に耽り、老荘の空理を談じ、放逸を事としたことを指す。
2.俗世間を離れた趣味、芸術などの風流な話や学問についての高尚な話。また、それを談ずること。
参考:竹林の七賢(ちくりんのしちけん) 中国の晋の時代に、俗世間を避けて竹林に集まり、酒を飲み琴を弾き、清談に耽(ふけ)ったとされる七人の隠者。阮籍(げんせき)・Aケイ康(けいこう)・山濤(さんとう)・向秀(しょうしゅう)・劉伶(りゅうれい)・阮咸(げんかん)・王戎(おうじゅう)のこと。
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「一黒屋」に養子として入っている数次(かずじ)は、まだ嫁を決めていなかった。
義父(ぎふ)の与志兵衛(よしべえ)は「いつでも"然(しか)るべき娘"を宛がう用意がある」と言って呉れていたのだが、暫(しばら)く待って欲しいと頼んでいた。

一黒屋では、季節を先取りして、秋から冬の着物を商(あきな)い始めている。
しかし、暦(こよみ)ではもう疾(と)っくに秋だというのに残暑が厳し過ぎて、客足(きゃくあし)は疎(まば)らである。
そんなところへお咲が訪ねてきたのである。

>咲:今日(こんにち)は、ご隠居様。
>与志:おや、お咲ちゃんではありませんか。これは・・・。珍しいこともあるものです。お着物ですか?
>咲:そんな。しがない傘貼り生活じゃ、新しいのなんて買えないわよ。古着(ふるぎ)で十分。
>与志:おや、そうですか? お咲ちゃんのような見目麗(うるわ)しいお嬢さんなら、うちのもののような安売り物でも、豪華な絹(きぬ)か何かと見紛(みまご)うほど引き立てて呉れるんでしょうけどねえ。
>咲:嫌だ、ご隠居様。お口が上手なんだから。いくら持ち上げたって懐(ふところ)は空っぽよ。
>与志:お世話になってるお咲ちゃんに商い口上(こうじょう)なんか並べる訳ないじゃありませんか。本心から言ってることですよ。
>咲:ありがと、ご隠居様。ちょっとばかし、ぽうっとなっちゃったわ。ちょと好い気分。
>与志:はっは。あたしがもう少し若かったら、着物でも帯でも贈り続けて口説(くど)いているところですよ。
>咲:まあ。それは幾らなんでもお追従(ついしょう)でしょう?
>与志:とんでもない。年寄りが若返りたいというのは、本当に真剣な願いなんですからね。口説こうという力が昔ほど湧いてこないのが口惜(くちお)しいようですよ。
>咲:はいはい、十分に分かりましたよ。そのお気持ちだけ頂戴しておきますね。

それはそうと、数次が見当たらないがどうしているのかと、尋ねてみた。
ここ1月ばかり、染め物の工程を学びに出掛けているということだった。

>咲:丁度良かったわ。数次さんのお嫁さんのことで、ご隠居様とお話をしにきたの。
>与志:数次の嫁のことですと?
>咲:ちょっとこれを見て貰えます? 源五郎親方が、元締めから押し付けられちゃった話なの。
>与志:なんですか? おお、女子(おなご)の名前がひい・ふう・み・・・十(とお)もあるではありませんか。
>咲:この中の3人くらいを纏(まと)めなさい、だって。
>与志:そうですか。それは、親方もお大変ですね。・・・それで?
>咲:もし、もしもよ、数次さんに似合いそうな人がいたら、考えてみて貰えないかしら?
>与志:それがですねえ、なんだかどうも、そっちの方のことにはあまり本気になって呉れんのです。
>咲:誰か目当てでもあるんですかねえ?
>与志:そうかと思って聞いてみても、「そんなものは居りません」の一点張りです。
>咲:今は商いのことで手一杯ってことかしら?

>与志:それがですねえ、なんだか近頃、俳諧(はいかい)などに凝り始めたとか言いまして・・・
>咲:俳諧ですか? 5・7・5・7・7の?
>与志:はい、三十一文字(みそひともじ)です。
>咲:へえ。お若いのにねえ。
>与志:年寄りだってそんな風流のものなど、好き好んでやりはしませんよ。況(ま)して、小さな呉服屋ごときが嗜(たしな)むものではありません。
>咲:でも、商いの手を抜いてるって訳じゃないんでしょう?
>与志:それは勿論(もちろん)です。ですが、「あそこの藍(あい)染めの青は、日が昇る半時(はんとき)前くらいの涼しさを感じませんか?」などと来られたら、こちらもなんと答えて良いものやら・・・
>咲:へえ。変わってるのね。昔からそういうところでもあったんでしょうかねえ?
>与志:今度、友助さんのところへでも相談に出向こうかと思っていたところなのですよ。
>咲:そうね。友助さんのとこももう随分落ち着いてきているし、相談に乗って呉れるわよ。
>与志:それはそれこれはこれとして、本当に嫁を貰おうという気になって呉れるといいんですが。
>咲:そういう高尚なもの、「ものの哀(あわ)れ」っていうのを解する娘さんじゃないと嫌だなんて言うのかしら?
>与志:確かに、そんなことを言い出し兼ねない様子ですねえ。
>咲:あたし、友助さんに聞いてみるわ。・・・本当にそういうことだったら、この10人の中から、そういう人を探し出さなきゃならないもの。
>与志:ご苦労をお掛けしますな、毎度のことながら。
>咲:ううん。困っているのはこっちも同じだもの。相身互いって言うじゃない。こういうときは助け合いましょう。ご隠居様なら、強い味方になって呉れそうだし。
>与志:強いかどうかは別として、助力は惜しみませんよ。身動きが遅い分は、顔の広さなり、先立つものなりで、お役に立てるようにしましょう。

商人(あきんど)が和歌とはねえ・・・と思案しながら、お咲は一先(ひとま)ず、あやのところへ報告に向かった。
友助たちが今日はどこにいるのかということも聞かなければならない。

>あや:そう。そんな風なの。
>咲:あたし、友助さんと話してみる。
>あや:ちょっと待って。
>咲:どうして?
>あや:ちょっとね、そういうのが好きそうな人を1人知ってるの。
>咲:この10人の中に?
>あや:違うわよ。教えてる人。
>咲:どうせ武家のご隠居様かなんかでしょう? そんなじゃ役に立たないじゃない。
>あや:違うのよ、それが。安い月謝で教えている方がいるのよ。それほど遠くないところに。
>咲:へえ、初耳。あたしの知ってる人かしら? 誰?
>あや:小豆(しょうど)様の奥様。久恵(ひさえ)様。
>咲:ええ? 磯次郎のお母さん? ほんとなの?

>あや:あら、結構評判よ。月謝も取らないのに丁寧に教えてくださるんですって。初めは、お嫁入り道具程度の読み書きを教えてあげてたんだけど、評判が評判を呼んでね。
>咲:確かに、読み書きなんかは詳しそうな人だったわね。あたしなんかとはちょっと違う世界を生きてきたって感じだもんね。
>あや:そんなことないわよ。お咲ちゃんだって、父上からしっかり読み書きを習ったでしょう?
>咲:あたしが習ったのは「風流」とか「いとをかし」からは程遠いものばっかりよ。『実語経(じつごきょう)』と、それに毛の生えたようなもんだけ。
>あや:それでも、わたしや親方と比べたら月と鼈(すっぽん)。
>咲:そんなこと・・・
>あや:数次さんとお見合いする訳でもなし、お咲ちゃんは今のままで大丈夫。あとは、もうちょっとだけ家のことができるようになれば完璧よ。いつでもお嫁に行けるわ。

お咲は、褒(ほ)められた気恥ずかしさから、話題を久恵の方に戻した。
実際に自分が誰かの嫁になることなど、まだ考えられないことなのである。

>咲:・・・磯次郎のお母さんってさあ、怒ると怖そうな人じゃなかった?
>あや:磯次郎さんが真面目(まじめ)になってからは、菩薩(ぼさつ)様のようになられたって。良かったわね。お咲ちゃんのお陰よ、きっと。
>咲:ふうん。そうなの。・・・そういうことなら、もしかすると大当たりかも知れないわね。
>あや:そう巧(うま)く行くと良いんだけど。誰か1人くらいお弟子さんになっている人がいると良いのにね。
>咲:いなくたって平気よ。少なくとも、大店(おおだな)の一黒屋に嫁入りしようっていうんだったら、俳諧の1つや2つ捻(ひね)れないとね。「これからだって遅くないかも」なんて言ったら、10人が10人とも通(かよ)い始めるんじゃない?
>あや:お花さんは行かないわよ。
>咲:あ、そうか。お花さんは外(はず)しとかないとね。八つぁんのために。
>あや:それもあるけど、そういうことばかりじゃないわ。お花さんは教える側の人だもの、今更(いまさら)他のものを習うことはないの。
>咲:でも、相手が数次さんだったら、考え直すかもよ。
>あや:どうかしら? 中途半端に相手に合わせようとするくらいなら、本当の自分を分かって呉れる人の方が良いって考えるかも知れないわよ。
>咲:それはそういうのが、理想的なんでしょうけど。でも、女心ってものは揺れ易いものだから。
>あや:そう? 揺れ易いように見えるけど、本当のところはちっとも揺れてないってのも女心なんだけど。
>咲:あちゃあ。それって親方とのこと? ・・・参ったな。唯(ただ)でさえ暑いんだから、そういうのはあたしのいないとこで言ってよね。
>あや:お咲ちゃんだって、揺れてないところあるでしょ?
>咲:あたし? 真逆(まさか)、あたしなんか揺れ揺れよ。
>あや:そう?

あやは、少し首を傾(かし)げてにっこりと笑った。
(この顔には敵(かな)わないわね) お咲は、「久恵小母(おば)さんのとこに行ってくる」と、半(なか)ば逃げるように走り出した。
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