196.【こ】 『壺中(こちゅう)の天地』 (2003/09/01)
『壺中の天地』[=天(てん)・仙(せん)]
1.俗世界とは掛け離れた別天地。2.酒を飲んで俗世間のことを忘れる楽しみ。
類:●壺中の天●一壺(いっこ)の天●壺天●桃源郷武陵桃源●仙境
故事:後漢書−方術伝下・費長房」 後漢の費長房が市の役人をしていたとき、店先に壺を掛けて商売をしていた薬売りの老人が、売り終わると壺の中に入ったのを見て、頼んで自分も入れて貰ったところ、立派な建物があり、美酒、嘉肴(かこう)が並んでいたので、一緒に飲んで出てきた。
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>八:あれ? 五六蔵はどうしたんだ?
>三:おいらは知りませんや。腹でも下したんじゃねえですか?
>八:あの五六蔵が腹なんか下すもんか。寝坊に決まってんだろ、寝坊によ。
>熊:「鬼の霍乱(かくらん)」ってやつか?
>八:なんだいそりゃ? 鬼の枕かなんかのことか? あんまり寝心地が良いもんで朝寝坊してるってのか?
>熊:そうじゃねえって。頑丈な五六蔵だって、時には具合いが悪くなることもあるってことだ。
>八:ご冗談。・・・毒茸(どくきのこ)を山ほど食ったって、平気な顔をしてるに決まってる。
>三:もしかして、お三っちゃんに何かあったんじゃねえですか?
>熊:成る程、それなら頷(うなず)けるな。
>八:五六蔵に向かって小言を言うような嫁だぞ。頑丈にできてるに決まってる。
>熊:口が達者だからって、身体も頑丈だって訳じゃねえだろ。
>三:様子を見に行ってきやしょうか?
>八:そうだな。そんでもし、まだ寝てるってんなら、鬼の枕を引っこ抜いて叩き起こしちまえよ。
>熊:だからよ、そんな枕はねえってんだ。
>三:親方に断(ことわ)ってから、行ってきやすね。・・・親方ぁ、厠(かわや)ですかい? あのー、ちょっとお話があるんでやすがー。

三吉が呼ばわると、暫くの間があって、奥の部屋から返事があった。
のろのろとした足音の後で、漸(ようや)く不機嫌そうな鬼瓦が現れた。
八兵衛の「なんだ、やっぱり厠かよ」という呟(つぶや)きは、はっきりと聞き取っていた。

>源:俺は、ちょっとした用ができた。今日はお前ぇたち4人に任せた。
>熊:「任せた」って、親方。今日は家主が検分に来るって言ってたのは親方なんですぜ。
>源:熊、お前ぇが済ましといて呉れ。頼む。
>熊:頼むって・・・。そりゃあ、親方がそれで良いってんなら従いやすが、ほんとに良いんでやすかい?
>源:良いって言ってんだろ。とっとと出掛けやがれ。
>四:あの、親方? 「4人」ってどういうことですか? どうして・・・
>三:親方ぁ、五六蔵兄貴がまだ来てねえんでやすよ。呼びに行ってきやすんで。
>八:今ごろ気持ち良さそうに夢の中なんでやすぜ、きっと。まったく、とんでもねえ野郎だな。
>源:五六蔵か? あいつはな、もう半時(約1時間)も前に来たさ。今ちょいと使いに出て貰ってる。現場に行かせるかどうかは、五六蔵が帰ってきてから、俺が決める。
>八:どういうことなんでやすか?
>源:だから、野暮用(やぼよう)だ。細かいことまで聞くな。
>八:そうまで言うんなら仕方がねえ。聞きゃあしませんが、なるべく五六蔵を寄越(よこ)してくださいよ。
>源:ああ。なるべくそうするよ。
>八:使いの駄賃はちょっと多めに渡してくださいやしねえ。
>熊:お前ぇが待ってるのは、駄賃の方かよ?
>八:なんだよ。人聞きが悪(わり)いな。それじゃあまるで、おいらが強請(ゆす)りか集(たか)りみてえじゃねえかよ。
>熊:違うって言えるのか?
>八:いや、なんだ。だははは。

しかしそれにしても、源五郎らしからぬ、
有耶無耶な言い様である。
五六蔵がなぜ早朝に出掛けてきたのか? その五六蔵にどんな用を言い付けたのか? そして、急にできた用事とは一体なんなのか? ・・・さっぱり分からない。
熊五郎は首を捻(ひね)りながら、八兵衛たち3人の後ろから歩いていた。

>三:何か揉(も)め事でやしょうか?
>八:待ってました。そうとなりゃ、うかうかしてられねえな。なあ熊?
>熊:ん? なんか言ったか?
>八:これだもんな。お前ぇ、検分の役がそんなに重荷か? なんならおいらが、ちょちょいのちょいで済ましてやるぞ。
>熊:何を言ってやがるんだか。お前ぇじゃ心許(もと)ねえからこそ、おいらに任せたんじゃねえか。お前ぇがやったら家主が心配しちまうだろ。
>八:何をー?
>三:まあまあ。今話してたのはそのことじゃないでしょう? 五六蔵兄貴のことですよ。兄いたちは心配じゃねえんですか?
>八:心配に決まってんじゃねえか。うん、心配だ。・・・そうだよな。もし揉め事ってことになりゃよ、おいらが出張らなきゃ話にならねえやな。
>三:八兄い、なんだか楽しそうな顔なんでやすけど。
>八:お? そうか? 目一杯心配してるんだけどな。
>熊:そのどこが心配してる顔だってんだ? なんの悩みも寝えような面(つら)しやがって。

>四:五六蔵兄貴が来れば分かることです。今は、家主さんのことを考えるべきなんじゃないですか?
>八:勿論そうだとも。そっちをきちんと済ましゃあ、五六蔵が貰った駄賃でどんちゃんとやれるって寸法だな。
>熊:だからよ、そんなもん期待するなってんだ。
>八:でもよ、何があったのか、五六蔵の説明を聞きてえだろ?
>熊:そりゃあ聞きてえさ。
>八:だから、丼飯屋でも上等な小料理屋でも良いから、贅沢(ぜいたく)なもんを突付きながら美味(うま)い酒をくいっと・・・
>熊:お前ぇの頭には飲み食いのことしかねえのか?
>八:おう、そうとも。そのどこが悪いってんだ?
>熊:そう居直られちゃ立つ瀬もねえわな。

家主は、相当ねちっこい質(たち)らしく、検分は昼の刻限を過ぎても続けられた。
残暑の中で辛くないのだろうかと、熊五郎がちらちら顔を窺(うかが)うのだが、涼しい顔である。
傍(はた)で見ている八兵衛の方が、空腹で音(ね)を上げそうだった。
8つ(14時ころ)時分までべったり張り付かれ、挙げ句の果てに「源蔵さんのところの若い衆はあまり元気がないようですな」という捨て台詞(ぜりふ)を吐かれては、然(さ)しもの熊五郎もうんざりである。
今日は早々に引き上げようかということになり、片付けに取り掛かった。・・・五六蔵は、結局現れなかった。

>八:五六蔵の駄賃も来なかったことだし、このまま「だるま」を開けさせて飲んじまうか?
>熊:ああ。鬱憤晴らしでもしねえと気が変になりそうだぜ。
>三:案外、親方はこうなるのが目に見えてたから、熊兄いにやらせたんじゃねえですかね?
>熊:そうは思いたくねえが、満更(まんざら)出任せでもねえような気がするのはどうしたことだかね。
>八:親方の付けにしちまおうか?
>熊:付けになんかするかよ、あそこの親爺が。
>八:五六蔵の駄賃は来ねえ、昼飯は抜かなきゃならねえ、その上、付けにもできねえのか? 踏んだり蹴ったりじゃねえか。
>熊:駄賃のことは別として、やり切れねえ気分だな。この際、銭のことなんか考えねえで、とことん飲みてえ。
>八:おいらも賛成ーっと。・・・そうと決まりゃ、善は急げだ。ぱあーっとやろうぜ。
>熊:まったく、幸せそうな顔しやがって。一番嫌な思いをしたのはこっちだってんだ。
>八:それじゃあよ、元々の原因を作った五六蔵を呼び出して、肩でも揉ませるとするか。・・・おいらはお夏ちゃんの優しい言葉があればそれで十分だ。
>三:おいらもそっちの方が有り難えな。むしゃくしゃしたときは、綺麗な花が一番でさあ。
>熊:お前ぇらはお得で良いよな。知らねえやつが聞いてたら、あの小汚(こぎたね)え縄暖簾(なわのれん)のことを、龍宮城かなんかみてえなんだと信じ込みそうだぜ。

源五郎は、どこかへ出掛けているということで、まだ家には帰っていなかった。
あやの話では、五六蔵はお三千の元へ戻ったという。
早いけれど帰る旨を告げて、「だるま」へ歩きかけた一行の背中に向かって、あやが呼び止めた。「四郎さん、ちょっと」

>四:は、はい。おいらで御座いますか?
>あや:何かと物要りでしょう? 一先ずの小遣いですけれど、ちょっとこれをおよねさんに渡してくださいな。
>四:そ、そんな
滅相もありません。そんなことされちゃあ・・・
>あや:良いんですよ、順番ですからね。行く行くは皆さんにも同じようにお渡しするものですから、
気にしないでくださいね。
>四:そうですか? ・・・本音を言えば、とっても助かります。済いません。
>八:姐(あね)さん、どうして四郎だけなんでやすか? おいらにはいついただけるものなんです?
>あや:そうですね、来年でしょうか? それとも、再来年かしら?
>八:そんなに先なんでやすか? 言っときますが、四郎よりおいらや熊の方が先輩なんでやすぜ。
>あや:それとこれとはちょっと話が違うんですよ。・・・まあ、「だるま」にでも行くんでしょうから、そこで説明してあげたらどうかしら、四郎さん。
>四:は、はい。それでは、そういうことにします。
>あや:五六蔵さんのところへも同じものを渡してあるのよ。
>四:へ? 五六蔵兄貴のとこもなんですか? こりゃまた・・・

>あや:それと、こっちの包みは、皆さんに。飲み代(しろ)の足しにしてくださいな。親方が面倒がって逃げちゃいましたからね。お詫びの代わりです。はい、八兵衛さん。
>八:い、良いんですかい? ・・・これだから、姐さんのこと大好きなんでやすよ。
>あや:まあ。
>八:これで今夜は心置きなく飲めるってもんだぜ、なあ、熊。嫌なことなんか全部吹っ飛んじまうよな。
>あや:精々楽しくやってくださいね。前祝いということですからね、八兵衛さんにとってもね。
>八:おいらにも、ですかい? なんだか分からねえけど、姐さんが言うんだから間違いはねえや。・・・よし。ぱあっといこうぜ、みんな。今夜は楽しくなりそうだぜ。
>熊:一体何がどうなってんだ? さっぱり分からねえ。うーむ。
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