222.【し】 『四面楚歌(しめんそか)』 (2004/03/08)
『四面楚歌』
敵の中に孤立して、味方がいないこと。周囲が敵(または、反対者)ばかりで味方がいないこと。
類:●楚歌●孤立無援
故事:史記−項羽本紀」 中国秦代末、楚の項羽が漢の高祖に垓下で包囲されたとき、高祖は深夜、四面の漢軍に楚国の歌を歌わせた。項羽はそれを聞いて、楚の民がもはや多く漢軍に降(くだ)ったのかと驚き嘆いた。
人物:項羽(こうう)・項籍 中国、秦末の武将。下相の人。名は籍。字は羽。前232〜前202。叔父項梁と共に挙兵し、漢王劉邦と呼応して秦を滅ぼし、西楚の覇王となる。後、劉邦と天下の覇権を争ったが、垓下(がいか)の戦いで大敗し、四面楚歌の中を脱したが、故郷の呉の直前の烏江で自殺した。
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お咲が向かった先は、太助の働き先「野崎屋」である。
役者絵を商(あきな)っているのだから、絵師の1人や2人なら斡旋(あっせん)して呉れるだろうと思ってのことである。

>咲:ねえ太助さん。・・・太助さんってば。
>太助:ん? ああ、お咲ちゃんじゃないか。どうかしたの?
>咲:どうかしたじゃないわよ。急いでるのよ。慌(あわ)ててるの。
>太:どうして? お昼を食べ忘れたのかい?
>咲:違うってば。・・・太助さんといい八つぁんといい、なんであたしの周りには食い意地ばっかり張った人しかいないのかしらね、もう。
>太:だって、食いもんってのは大事だぜ。「腹が減っては軍(いくさ)ができぬ」って言うじゃないか。
>咲:分かった分かったって。・・・ねえ、助けてよ。人の顔を描(か)くのが巧(うま)い絵師に会わせて欲しいの。
>太:連れてけってことかい? おいら、そんなに暇じゃないんだけどな。
>咲:なによ、なんにもしてないじゃないの。
>太:読売りってのは、力仕事じゃなくって、お頭(つむ)の仕事だからね。
>咲:それは逃げ口上(こうじょう)。
>太:そりゃあ、近頃の、野崎屋の売り上げが良くないのは本当だよ。でも・・・
>咲:分かったわよ。・・・じゃあ、どこに住んでるか教えて。あたしが直(じか)に会いに行くから。

のんびり屋の太助の調子に
付き合ていたら、日が暮れてしまう。
できることなら、説得して、今日の内にでも並助のところへ連れて行きたいほどなのだ。

>太:いないよ。
>咲:え? どういうこと?
>太:顔を描ける絵師なんかいないってこと。
>咲:どうしてよ。だって、役者絵を商ってるんでしょう? お抱(かか)えの絵師くらいいるでしょうよ。
>太:前はいたんだけどね、今は事情があってね。
雲隠れしちゃってるのさ。
>咲:不景気で売れなくなったからなの?
>太:そのくらいじゃ隠れたりはしないよ。お上(かみ)の取り締まりのせいさ。
>咲:そんなに厳しくなっちゃってるの? ・・・困っちゃったな。どうしよう。
>太:何をさせようっていうの? 真逆(まさか)お咲ちゃんの似せ絵を描かせて堺屋の若旦那にでも・・・
>咲:冗談じゃないわよ。

しかし、太助の線が駄目になると、お咲は行き詰まってしまう。お咲はほとほと困ってしまった。
お咲の慌てようなどお構いなしで、ねちねちと愚痴(ぐち)を零(こぼ)し始めた。

>太:絵師も大変だけど、文士だっておんなじさ。版元だって目を付けられたら縮こまっているしかない。そんなご時勢だから、絵師は闇で絵を描かなきゃならないんだ。
>咲:それじゃあ、内緒で描いてる人を知ってるのね?
>太:知らない訳じゃないんだけど、教えられないよ。
>咲:どうしてよ。
>太:お咲きちゃんは聞いたことがないかい? 名の通った絵師なんかは、どこかで見掛けたって役人に届けると、礼金まで出るっていうんだ。「落ち落ち表(おもて)も歩けねえ」って嘆(なげ)いてるよ。
>咲:あたしがそんなことすると思う?
>太:そうは言ってないさ。でもな、1人が出入りしてると4人が知ることになるだろ。4人が知ってりゃ、16人が知りたがる。16人もいりゃ、その中の1人くらい悪い考えを起こす奴もいるってこと。
>咲:そんなこと言ってたら、切りがないじゃない。
>太:まあ、疑(うたぐ)り始めたら、誰も信じられなくなっちゃうよね。・・・でも、追い回されてる当人たちにとったらそうも言っていられないんだ。何しろ、捕(つか)まったら手鎖(てぐさり)50日くらいじゃ済まないんだからね。
>咲:50日が100日でも良いじゃない。命まで取ろうってんじゃないんだから。
>太:筆で食ってるもんにとっちゃ、筆を使えねえってのは命を取られるのとおんなじなんだってさ。
>咲:成る程ね。絵師から絵筆を取り上げるのって、大工から鑿(のみ)を取り上げちゃうのと同じだもんね。
>太:だからみんな戦々兢々としてるんだ。四方八方に役人がいるんじゃかいかってくらい震え上がっちゃってる。
>咲:・・・そう。大変なのね。

お咲もついつい同情してしまっていた。
しかし、同情したところで始まらない。人相書きをどうにかして作りたいのだ。

>太:あ、そうだ。引き受けて呉れそうなのが1人いるな、うん。
>咲:ほんと?
>太:安孫子(あびこ)先生の挿(さ)し絵とかに時々描いて呉れる人なんだけどね。
>咲:あの三文文士の? 大丈夫なの?
>太:結構偉い師匠に付いて修行したそうだよ。専(もっぱ)ら滑稽(こっけい)ものを描いてるんだけど、人の顔だって描けると思うよ。
>咲:その人は役人に追い回されたりしてないの?
>太:今のところ大丈夫みたいだよ。本人は至(いた)って平然としてる。
>咲:唯(ただ)の暢気者(のんきもの)なんじゃないの?
>太:そうかも知れないなあ。なにしろ変わりもんだから。
>咲:この際、変わりもんだろうと暢気もんだろうと構(かま)やしないわ。どこに住んでるか教えて。
>太:良いけど。念のため、あんまりあちこち連れ回さないでお呉れよ。
>咲:委細承知之助

>太:そう。そんなら教えたげる。ええと・・・。ときに、何をさせるんだっけ?
>咲:人相書きを描いて貰うの。今世間を騒がせている騙(かた)りの一味(いちみ)の。
>太:倅(せがれ)が誰かを怪我(けが)させちゃったっていう、あれのかい?
>咲:そうよ。・・・必ずふん縛(じば)ってやるんだから。
>太:なんだ、初めからそれを言って呉れてれば良かったのに。・・・おいらたち読売りの間じゃ、その話が一番のねたなんだ。一番早く分かったことをばら撒(ま)けば、売れること請(う)け合いだな。
>咲:協力して呉れるの?
>太:うーん。そうさな。「だるま」でおからを食わして呉れるっていうんなら悪くないな。
>咲:随分と足下を見るわね。太助さんにとっても人任(まか)せにできることじゃないんでしょう?
>太:そう言われちゃうとそうなんだけどさ・・・
>咲:分かったわよ。八つぁんたちに頼んでみるわよ。
>太:そう来なくっちゃ。

太助から教えて貰ったのは、安孫子たちが住んでいる長屋の近くだった。
安孫子たちの長屋に負けず劣らず日当たりの悪い襤褸(ぼろ)長屋だった。
名前は、「伝蔵」という。

>咲:伝蔵先生、いらっしゃいますか?
>伝蔵:・・・なんだい、あんたは?
>咲:お咲っていいます。野崎屋の太助さんと同じ長屋に住んでる者です。
>伝:ああ、あののっぽの。・・・また、瓦版(かわらばん)の挿絵かい?
>咲:人相書きを描いて欲しいの。ろはでよ。
>伝:なんだって? 人相書きだと? そんなもの番所のもんが拵(こさ)えれば良いじゃねえか。
>咲:そんな悠長(ゆうちょう)なことをやってたら、騙(だま)される人が増えちゃうじゃないの。
>伝:それって、あんた、倅を助けるために1両出せっていう、あれかい?
>咲:そうよ。今日の昼過ぎに騙された倅の並助って人に会ってきたのよ。去年の夏過ぎのことだけど、見掛けたのが一味の1人かも知れないってことなの。
>伝:本当か?
>咲:それに、多分、目明かしを辞(や)めさせられた多作って人が手引きをしてるんじゃないかって。
>伝:ほんとか? そりゃあ凄(すげ)え話だぜ。
>咲:だから手伝って。
>伝:面白(おもしれ)え。・・・どうせ暇だし、やってみるとすっか。
>咲:有難う。お願いします。

>伝:しかし、お前ぇさんが1人でそんなことをやってるのかい?
>咲:そんな訳ないじゃない。・・・えーと、大工が6人と飾り職に建具職、それに小娘が2人よ。10人ね。・・・あ、それと、太助さんも。
>伝:なんだよ。職人とずぶの素人ばっかりじゃねえか。そんなんで悪人をふん縛ろうってのか? そりゃあまるで、田んぼの蛙(かえる)が牛に向かって腹を膨(ふく)らますようなもんじゃねえか。そんなのが寄って集(たか)って何かをしたところで、所詮(しょせん)烏合の衆だぜ。誰も助けちゃ呉れねえどころか、役人から睨(にら)まれちまうんじゃねえか?
>咲:大丈夫よ。これまでにいくつも片付けてきてるんだから。
>伝:ふうん。・・・その話も聞かして呉れるってんなら引き受けるぜ。
>咲:助かるわ。
>伝:でも、ろはってのは余(あんま)りじゃねえか? せめて銚子の2本くらいは付けて呉んねえとな。
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※時代考証を誤っています。
「ロハ」は、明治期から使い初められた言葉ですので、この時期(1804年)にはまだ使われていません。