18.【あ】  『網(あみ)呑舟(どんしゅう)の魚(うお)を漏(も)らす』 (2000/03/13)
『網呑舟の魚を漏らす』
呑舟の魚とは、船を呑むほど大きな魚のことで、善悪ともに、大人物・大物の喩え。網の目が粗いために舟を呑むほどの大魚までも逃がすということ。法の規定が大まかなため、大罪人を逃がしてしまうということ。
類:●天に目なし大魚網を破る
反:●天網恢恢疎にして漏らさず
出典:「史記−酷吏伝・序」「網漏於呑舟之魚、而吏治蒸蒸、不至於姦、黎民艾安」
出典:
史記(しき) 中国の正史。前漢の司馬遷撰。同少孫補。130巻。24史の第1。黄帝から前漢の武帝に至る歴史書で、12本紀(帝紀)・10表・8書・30世家・70列伝に分けて記述。計52万6千5百字。著者自身が名付けた書名『太史公書』(たいしこうしょ)は、「漢書」を初め後世の正史や、日本の「日本書紀」などの模範となった。この注釈書としては、南朝劉宋の裴忱の「史記集解」、唐の司馬貞の「史記索隠」、唐の張守節の「史記正義」、明の凌稚隆の「史記評林」などがある。
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源五郎があやの姿を求めて町中を彷徨(さまよ)っている頃、そのご当人は神楽坂の毘沙門天(びしゃもんてん)へ向かっていた。初詣(はつもうで)である。
福徳とか富貴とかの願を懸けるつもりなど更々ない。単純に近いからここに来ただけのことだ。
早目に出てきたつもりだったが、境内(けいだい)は芋洗いのようで、参道にはずらりと出店が並んでいた。
毘沙門様の前まで行くのには相当時間が掛かりそうだったが、折角(せっかく)来たのだから賽銭(さいせん)くらい投げていこうかと、列の後尾に並んだ。

>お咲:あら、あやさんも初詣?
>あや:お咲ちゃん。独(ひと)り? お父上は?
>咲:父上の仕事にはお休みなんてないですから。
>あや:お正月くらい手を休めればいいのにね。
>咲:「今取り掛かっているやつに一段落付いたら行くかも知れない」ですって。父上のかも知れないは、そうなった例(ためし)がないから。
>あや:あらまあ。それで? お咲ちゃんは父上の仕官(しかん)の願懸け?
>咲:ええ。難しいのは分かってるんだけどね。・・・あやさんは?
>あや:別にこれといってないんだけど、強(し)いて言えば、このままの生活ができますようにってことかな?
>咲:へえ、欲張らないのね。
>あや:案外、一番欲深なお願いかも知れないわよ。
>咲:ふーん。あたしにはまだその辺の機微(きび)が分からないけどね。

と、境内近くの沿道で、騒ぎが起こる。お決まりの展開である。
粥(かゆ)の中に虫が入っていたとかいないとか、喧嘩の始まりはそんなたわいのないものなのだ。
血の気(け)の多い町人とちんぴらの口喧嘩が、掴(つか)み合いになり、殴り合いになり、やがて片方が刃物を持ち出し、周りから黄色い悲鳴が湧き起こる段になると頃合い良く出てくるのが、捕方(とりかた)か親分さんのどちらかである。

>太郎兵衛:お前ぇたち、もう大概にしねえか。子供が泣いてんじゃねえか。この喧嘩、この淡路屋太郎兵衛に預(あず)からしちゃあ貰えねえか?
>ちんぴら:これはこれは親分さん。お恥ずかしいところをお見せしやして。
>町人:どこぞの大親分さんだか知らねえが、邪魔しねえで呉んな。
>太郎:まあ、そう言わずに。・・・ときに、お前さんなんてえ名だい?
>町人:左官の二助だ。
>太郎:さっきうちの若いもんから聞いたら、事の起こりはなんでも粥一杯のことだそうじゃないか。精々2、3文(約50円)のことだろう。お互いその何倍も痛い思いをしたんじゃないのかい? その上、罷(まか)り間違って人様を傷付けでもしたら、その何十倍も痛い思いをすることになるんだよ。世の中なんでもかんでも銭に換算するものじゃないが、頭を冷やして損得を考えたらすぐに分かるんじゃないのかい?
>二助:なるほど。親分さんの言う通りで。
>太郎:分かって呉れたか、左官の二助さん。それじゃあ俺は退散するよ。

>あや:ああやって好々爺(こうこうや)ぶって帰ってったけどね、あの親分、明日辺り左官さんのところに現われるのよ。仲裁料を寄越(よこ)せってね。
>咲:どうして分かるの?
>あや:脅(おど)されたことがあるのよ、あの親分に。禿鷹(はげたか)みたいな奴なんだから。
>咲:脅された? 大変じゃない。それで? 今も脅されてるの?
>あや:ううん。もう大丈夫よ。落着(らくちゃく)したから。でも変ねえ・・・
>咲:何が?
>あや:あの親分の島(しま)はこの辺りじゃない筈なのよ。本郷とか谷中の方だって聞いてたんだけど。
>咲:成り上がってるってことかしらね? あれ、「伸し上がる」って言うんだっけ?
>あや:・・・嫌ねぇ。金輪際関わりたくないわね。
>咲:だけど、毘沙門様に居るってことは、うちの長屋にだっていつ来てもおかしくないってことよね?
>あや:そうね。これじゃ、滅多(めった)には町中(まちなか)を歩けなくなっちゃうわね。
>咲:熊さん八つぁんじゃちょっと頼りないしね。
>あや:そんなことないわよ。特に熊五郎さんの方はしっかりしてるんじゃない?
>咲:そうかしら?
>あや:あら、顔が赤いわよ。満更(まんざら)でもないのかしら?
>咲:もう。あやさんったらぁ。

参詣の人込(ひとご)みを掻き分けて、男があやたちの方へ近づいてきた。
以前あやの身辺警護をしていた、権太(ごんた)という、太郎兵衛の配下である。

>権太:姐(あね)さん。
>あや:び、びっくりしたぁ。・・・確か、権太さん、でしたか?
>権:へい、権太です。ここで会えるなんて神様の思し召しですかね。お住まいはこの辺ですかい?
>あや:あなたがたとはもう関わりありませんから、どうぞお引き取りください。
>権:冷てえお言葉。ぷいっといなくなっちまうもんで、あっしゃぁ親分からこっ酷(ぴど)く怒られたんですよ。
>あや:慰謝料でも取ろうというのですか?
>権:滅相もない。姐さんの元気そうな顔を見られただけで嬉しいんですよ。ところで、そちらさんはご親戚の方かなんかで?
>あや:いいえ。これといった関係がある訳じゃありません。
>権:そうなのかい? お嬢ちゃん。
>咲:そうよ。親戚なんかじゃないわよ。長屋の・・・
>あや:ご、権太さん。親分さんには黙っておいてくださいましね。
>権:ええ。勿論ですとも。それじゃあ、これで。

ふたりの遣り取りを見ていた参拝客たちは、やくざ者があやに「姐さん」と呼び掛け、ずっと敬語を使っていたという事実だけを元に、良からぬ方向へ勘繰(かんぐ)っているに違いなかった。
そして、それを心得た権太は、最も効果的な間合いで戻ってきて、駄目を押すのだ。

>権:姐さん。言い忘れましたが、淡路屋の太郎兵衛親分は、新年から牛込界隈(かいわい)も見回るようになりましたから、困ったことがあったらいつでもいらしてくださいよ。それじゃあ、失礼いたしやす。
つづく)−−−≪HOME