272.【た】 『鯛(たい)の尾より鰯(いわし)の頭(あたま・かしら)』 (2005.02.21)
『鯛の尾より鰯の頭』
大きな団体で低い地位に甘んじているよりも、小さな団体でも、その長となることの方が良いということ。
類:●鶏口となるも牛後となるなかれ
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根塚のご隠居の話によると、巷(ちまた)では近頃、大店(おおだな)であっても経営の行き詰まるところが出てきているという。
「5000両ばかりご用立てしましょうか?」などと旨(うま)いことを言って近付いてきて、1月後に催促(さいそく)に来て、返済が覚束(おぼつか)ないと、問屋株を押さえてしまうのだという。

>八:へえ。大店も大変なんですねえ。でも、お店を丸ごと持ってっちまう訳じゃなくて良かったですね。
>厳:八つぁんはなんにも分かっていないんですね。
>八:何がですかい? だって商(あきな)いはそのまま続けられるんでしょう? それなら借りた銭を返すこともできるじゃねえですか。
>厳:そうはいきませんよ。商人(あきんど)にとって、問屋株がどれほど大事なものかっていうことが分からないんですか?
>八:おいら、商人をやったことはねえから、そんなこと分かりゃしませんよ。
>厳:そうですか。それでは教えて差し上げましょう。・・・問屋株を持っていない者が商うことはできないのです。昔、安永(1772−81)の頃、田沼様というご老中がいましてな。その田沼様が決めたことなのです。問屋株仲間という集まりが作られていまして、与えられた株を失ってしまった者は、そこから除名されてしまうのです。
>八:するってえと、暖簾(のれん)を下ろさなきゃならねえってことですかい?
>厳:そうです。
>八:でもね、何年も一緒にやってきた仲間をですよ、「明日っから仲間じゃねえからお然(さ)らばよ」なんて言いませんよね?
>厳:そんなことはありません。仲間というのは名ばかりで、お互いに目を光らせるような集まりですからな。
>八:仲好し小好しじゃねえんですかい?
>厳:八つぁんが思い浮かべる飲み仲間や仕事仲間とは似ても似付かないものですね。
>八:ひゃあ。商人ってのはなんだか面倒臭そうですね。
>厳:それでも、一度始めてしまったら、潰(つぶ)れてしまわないように頑張るしかないのです。

>五六:するってえと、その株を押さえられちまったお店はどうなるんです?
>厳:屋号(やごう)を変えるか、旦那が放り出されるか、その両方かですかな。
>五六:はあ。そりゃあ酷(ひで)え。
>厳:左前(ひだりまえ)になったのは主(あるじ)のせいですからな。
>四:それで、番頭やら手代やらはそのまま使うというのですね?
>厳:品物の流れを知ってるのも、お客と馴染(なじ)みになっているのも、その人たちですからね。効率としてはそれが一番良いということになりますな。
>八:でも、これまで仕(つか)えてきた旦那さんがいなくなったんじゃ、番頭や手代は碌(ろく)に働かねえでしょう?
>厳:忠誠ということですか? 昔の景気が良かった頃なら忠義だ義理だと拘(こだわ)ったでしょうが、今のご時勢ではそうも言っていられません。自分の食い扶持(ぶち)を放す訳にはいかないのです。
>八:可哀想(かわいそう)にな。
>厳:食いっ逸(ぱぐ)れるよりは、同じ仕事を続けられるだけ増しというものです。我慢(がまん)していれば暖簾を分けて貰えるかも知れませんしな。外に出てしまえばこっちのものです。分家は分家ですが、それでも一国一城の主ですものね。
>五六:そういうもんですかねえ。あっしだったら、旦那と一緒におん出ちまう方を選びやすがね。
>厳:その旦那さんが首を括(くく)ってしまってもですか?
>五六:そんときゃ、一緒んなって首を括るかも知れやせん。
>厳:お嫁さんと稚児(やや)も道連れですか?
>五六:い、いや、そういうことになると・・・
>厳:そうでしょう? 倅(せがれ)や娘、お父(とっ)つぁんやおっ母さんを巻き込む訳にはいきませんものね。それならば、数年の我慢で良いなら、そっちを選ぶべきでしょう? 長いものには巻かれろですよ。

>四:まったく、世知辛(せちがら)い世の中になってしまったものですね。
>五六:その点、職人の方は安心してられますよね、八兄い?
>八:そうだな。問屋株仲間なんてもんはねえもんな。
>厳:さて、それはどうでしょうかね?
>八:と、仰(おっしゃ)いますと?
>厳:材木問屋が木を売って呉れなくなったらどうします?
>八:そんなことにゃなりませんよ、いくらなんだって。
>厳:ほう。それはどういう訳ですか?
>八:だって、家(うち)が厄介(やっかい)になってるのだって、1か所だけって訳じゃねえんですぜ。1つっきりってんならそういうこともあるかも知れませんが、3つも4つもが一遍に潰れちまうことなんかありますかってんです。
>厳:一番世話になっているというのは、なんというお店なんですか?
>八:山城屋さんですよ。あそこのご隠居さんと家の棟梁とは、言ってみりゃ昵懇(じっこん)、つうつうの仲ですからね。山城屋さんが外方(そっぽ)を向くことなんか、考えられませんがね。
>厳:ふむ、成る程。山城屋さんですか。
>四:ご隠居様、それがどうかしたんですか?
>厳:い、いえ。別にどうというのではないんですよ。詮索(せんさく)好きな爺(じじ)いというだけのことですよ。気にしないでください。・・・さてと、あたしは失礼して、将棋(しょうぎ)差しにでも行ってきますかね。

後に残された五六蔵と四郎は顔を見合わせた。
何か妙な雰囲気(ふんいき)である。何かを企(たくら)んでいるのではあるまいかという疑問が湧(わ)いてきていた。

親方に報告する前に、三吉と3人で話してみた。
「こりゃあ、ひょっとするとひょっとしますぜ」と、三吉は答えた。

>三:今夜も宣太の奴が来ると思いますんで、ちょっと話してみましょうよ、兄貴(あにき)。
>五六:親方には話さなくても良いかな?
>三:話したところでどうかなるような問題じゃねえですぜ、これは。
>五六:それはそうだが・・・
>四:その代わり、今日明日で何かが動くというものでもないでしょうから、2・3日様子を探ってみて貰っちゃどうでしょう?
>五六:そうだな。宣太任せというのが、ちょいと心細いがな。
>三:へい。おいらもで。

「だるま」に着くと、やはり宣太が待ち受けていた。今夜も三吉に集(たか)るつもりなのである。

>宣:よう、来たな? 凄(すげ)えことを耳にしたぞ。
>三:真逆(まさか)、それってのは、材木問屋のことか?
>宣:へ? なんだそりゃ? そんなんじゃねえよ。
>三:なんだ、違うのか。そんじゃ、碌な話じゃねえな。
>宣:なんだと? 手前ぇ、聞いて驚くなよ。
>三:へいへい。聞いてやるから言ってみろ。
>宣:でかい声じゃ言えねえがな、大旦那様がな、芝居の一座を買い取りてえなんて言い出したんだとよ。
>三:なんだそりゃ? そんなことできるのか? ・・・ってよりも、芝居なんかに手を付けると、お上(かみ)が煩(うるせ)えぞ。目の敵(かたき)だからな。
>宣:あのお人に出来ねえことなんかねえさ。それに、お上がどうだろうと、そんなの知ったことじゃねえ
>三:それでもやりてえってんならやらせときゃ良いじゃねえか。
>宣:良いのか?
>三:おいらにゃ関わりのねえことだからな。
>宣:それがよ、あろうことか、水道町辺りにでっかい芝居小屋を建てるんだって言ってるんだ。いや、小屋なんてもんじゃねえ。御殿みてえなのを造るんだって打(ぶ)ち上げてたらしいぜ。飯屋とか菓子屋とか風呂屋まで付けるんだそうだ。
>三:そりゃあとんでもねえ話だな。
>宣:なんでも一番じゃねえと気が済まねえってお人だからな。あれも一番これも一番。駕籠舁(か)きだけで満足するお人じゃねえのさ。そのためなら惜しみなく銭を使う。
>三:へえ、そりゃあ凄え。あるとこにはあるんだな。

>宣:なに暢気(のんき)なこと言ってるかね。・・・なあ、考えてもみろ。水道町だぞ。こっから目と鼻の先じゃねえか。お前ぇんとこに声が掛かるんだぞ。
>三:そうとは限らねえだろ?
>宣:決まってるだろ? 昨夜(ゆんべ)も言ったが、お前ぇたちは目を付けられちまったの。ほんとに決まっちまったら、もう逃げられねえ。
>三:脅(おど)かすなよ。本当にそうなると思うのか?
>宣:ああ。決まっちまったらな。
>三:こりゃあ、親方に話しておかなきゃならねえな。
>宣:おいらはもうちっと調べてくるからよ。明日は、兄(あに)さん方とも一緒の卓で話してえな。
>三:お、お前ぇ・・・
>宣:お前ぇ1人じゃ、酒代(さかだい)を持つのも大変だと思ってよ。どうだ、友達思いだろ?
>三:どうだか。

宣太が帰ってから、三吉は熊五郎たちに概要を話して聞かせた。
熊五郎は「うーん」と言ったきり、暫(しばら)く黙り込んでしまった。

>咲:どうしたの? 渋い顔で唸(うな)っちゃって。何か拾い食いでもした?
>八:おお、お咲坊。来てたのか。
>咲:お花さんが来られないときは、なるべく手伝いに来られるようにしてるの。それで、どうしちゃったの、熊さん?
>八:今、ない頭を絞(しぼ)ってるとこなのさ。考えたって何も出てきやしねえのにな。おいらと違ってよ。
>熊:何を抜かしてやがる。手前ぇも一緒になって考えやがれっての。
>八:おいらは後で混ざってやるって。今は飲むときなの。それが減(め)り張(は)りってもんだ。
>熊:なにが減り張りだ。二六時中飲み食いのことばっかり考えてる癖によ。
>咲:ねえ。面白そうな話? あたしにも聞かせて。
>熊:駄目(だめ)だ。お前ぇには関わりのねえことなの。
>咲:そんなの聞いてみなきゃ分からないじゃない。ねえ、教えてよ。ねえ、八つぁん。
>八:あん? ああ。三吉、教えてやれ。
>三:良いんですかい?
>八:お咲坊が知ったところで何が変わる訳でもなし、良いんじゃねえの?

三吉が根塚老人の魂胆(こんたん)の話をすると、お咲は目を輝かせて聞いてきた。

>咲:ねえ。もしそんなことになるんだったら、あたしそこに暖簾を出させて貰えるよう頼んでみて呉れない?
>八:なんだと? 商いをするってのか?
>咲:そうよ。
>八:何を商うってんだ?
>咲:そんなのまだ決めてないわよ。生駒屋さんにお願いして小間物を回して貰うのも良いし、この美貌を生かしてここみたいに飲み処(どころ)をやっても良いし。
>熊:お前ぇ、何を考えてるんだ? 痩(や)せても枯れてもお咲坊の家は武家なんだぞ。それが商いなんかして良いと思ってるのか?
>咲:なに言ってんの。熊さんったら古い古い。今更(いまさら)武家で御座いなんて言ってたってどうにもなりゃしないわよ。お武家の下々の方でひいひい言いながら暮らすくらいなら、目端の利くことをして稼(かせ)いだ方が良いに決まってんじゃない。そういうご時勢なの。
>五六:へえ。こりゃ凄え。大したお人でやすね、お咲さんは。この五六蔵、お見逸(みそ)れしていやした。
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