173.【け】 『鶏口(けいこう)となるも牛後(ぎゅうご)となる勿(なか)れ』 (2003/03/24)
『鶏口となるも牛後となる勿れ』[=鶏尸(けいし)−牛従(ぎゅうじゅう)]
大きな団体の属員になるより、小さな団体でも、その頭(かしら)になる方が良い。
類:●鯛の尾より鰯の頭●Better be the head of a dog than the tail of a lion.「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典> ●It's better to be a big fish in a little pond than a little fish in a big pond.
出典:「史記−蘇秦伝」「臣聞鄙諺曰、寧為ケイ[奚+隹]口無為牛後」
★源典は、「戦国策−韓策・昭侯」「鄙語曰、寧為ケイ[奚+隹]尸、無為牛従」。
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お夏の言う通り、「分教場」は程なく終業となった。
真っ先に帰り支度(じたく)を終えた磯次郎の後を、八兵衛と三吉が追った。

>三:結局おいらたち2人になっちまいやしたね、八兄い。なんだか、貧乏籤(びんぼうくじ)を引かされちまったような気がするんでやすが・・・
>八:・・・なあ三吉、聞いて良いか? おいらお咲坊を泣かしちまうようなこと、何か言ったかな?
>三:はっきり言わして貰うと、正(まさ)しく言いやした。
>八:おいらが何をどう言ったってんだよ。
>三:お夏ちゃんがどれだけ本気なのか知れたもんじゃないって言ったじゃねえですか。
>八:そんなことで泣いちまうもんか?
>三:泣きますとも。真逆(まさか)そんなことも分からねえんでやすかい?
>八:そんなの分かる訳ねえじゃねえか。「孟子」とかいう書物にでも書いてあるのか?
>三:八兄い、言わして貰いやすがね、そんなんじゃ、いつになっても娘心なんか分かりゃしませんぜ。・・・良いですかい? どういう間柄かは別にして、お夏ちゃんと磯次郎とには似たようなところがある。まったく違うところもある。片一方は物凄く真剣に誰かのためになりたいと思っている。それが、もう一方は雨垂れなんか数えながら欠伸(あくび)をしていやがる。そんなときに、真剣な方のお夏ちゃんに「本気だったとは思わなかった」なんて言ってみてお呉んなさい。どう思いやす?

>八:待て、待って呉れよ。おいら、今日はよ、唯(ただ)磯次郎の後を付けに来ただけなんだぜ。そんな難しいことを話しにきた訳じゃねえんだっての。
>三:そいつは八兄いの事情でやしょう? 嫌々案内役にさせられたお夏ちゃんには、お夏ちゃんなりの事情があっても可笑(おか)しくないじゃありやせんか。そこを、ものの見事にぐっさりと突いちまったんですよ、八兄いは。
>八:態(わざ)とじゃねえぞ。
>三:当たり前ですよ。そんなこと態とできるんだったら、もっと違うところに使っているでしょう?
>八:お前ぇも言うねえ。・・・で、おいらが言っちゃなんねえことを、言っちゃなんねえときに、言っちまったってのは、分かる。それを、なんでお咲坊が泣いたり怒ったりするんだ?
>三:そりゃあ八兄い、お夏ちゃんが自分から「辛(つら)い」なんて、決して言い出さないからじゃぁありやせんか。見ているお咲ちゃんの方が、辛くなっちまうくらいに。

八兵衛は、「本人は我慢強いのに、周りの方が見ていて我慢できなくなるってことか?」などと、ぼそぼそ呟(つぶや)き始めていたが、結局、結論を巧く導き出せないようだった。
そんな様子を見て、三吉の方が「済いやせん、言い過ぎやした」と謝(あやま)る始末である。

>三:八兄い、あの辻を曲がりやしたぜ。
>八:ん? どうかしたか?
>三:どうかしたかじゃありやせんよ。磯次郎の家ですよ、家。
>八:・・・あ、そうか、それが今日の仕事だっけな。悪(わり)い悪い、忘れちまってたぜ。
>三:しっかりしてくださいよ。
>八:おいら、一時(いっとき)に2つのことができるほど器用じゃねえんでな。・・・ほう、ちょっとばかし零落(おちぶ)れちゃぁいるが、まあまあご立派そうな屋敷じゃねえか。

2人揃って、垣根の隅から中を覗(のぞ)き込んでいたところ、横合いからつかつかと走り寄る足音があった。

>女:そこな下郎(げろう)。なんの悪しき魂胆(こんたん)があって家の中を覗いて居る?
>三:あ、あの、悪しき魂胆なんぞ、これっぽっちも持ち合わせちゃあ居りやせん。お、おいらたちはその・・・
>女:口篭もるところが益々以って怪しい。今近隣の者を呼ぶから、神妙にお縄を受けるが良い。
>八:と、とんでもねえ。おいらたちゃあ別に悪気があって覗いてた訳じゃねえんでやすって。
>女:覗き見る行為それこそが悪気である。・・・さあ、神妙に神妙に。
>八:いくらでも神妙にいたしやすって。・・・でも、話くらい聞いてくださいやし。
>女:ええい、聞く耳持たんわ。つべこべ申すのなら、いっそのことこの場で手打ちにしても良いのだぞ。
>三:ひええーっ。
>八:お待ちください、お内儀様。あの、あなた様は、寺社方の与力の家島様をご存知でらっしゃいますよね?
>女:何? いかにも家島殿とは旧知の間柄ではあるが・・・。そちらにはなんの関わりもあるまい。
>八:それが大有りでして。
>三:八兄い、ご当人には見付からないようにって頼みでやしたでしょう?
>八:この期(ご)に及んで、そんなことに拘(こだわ)ってられるかってんだ。命あっての物種(ものだね)って言うじゃねえか。
>三:そりゃあそうでやすが、約束ってやつも、やっぱり守らねえと・・・
>女:何をごたごた揉(も)めて居る。して、何故(なにゆえ)家島殿の名を持ち出したのか、説明して貰おうぞ。
>三:それが、できねえ相談でやして。
>八:お前ぇは黙ってろってんだ。・・・あの、磯次郎さんのお母上様かと、お見受けいたしやすが、いかがで御座いやしょう?
>女:いかにも、大石久恵である。だからどうしたというのじゃ?
>八:実は、家島様のお兄様からの達(たっ)てのお願いということで・・・
>三:八兄い、言っちゃ駄目ですって。
>八:だって、もう言っちまったんだから仕方がねえじゃねえか。口から出ちまったもんはもう戻せねえぞ。

久恵は、どうにか納得したようで、半(なか)ば渋々ながら八兵衛と三吉を家に上げることにした。
久恵の方としても、話を聞きたいことがあったらしく、息子の目を盗むように、2人を表側の隅の部屋に通した。
磯次郎は部屋に篭もりきりということだったし、長男は勤めから当分帰らないということだった。

>久:して? 小豆殿というお方は、いったいどのような殿方なのか?
>八:へい。言っちゃあなんでやすが、風采が上がらねえ普通の役人でさあ。それに輪を掛けて、酒好きで女好きときてる。おいらが女だったら、絶対一緒になりてえとは思いやせんね。
>久:ふむ。家島様が仰(おっしゃ)った通りであるな。・・・そして、酒好きの割にすぐに酔ってしまい、女好きの割に女と話すのが下手(へた)ときている。違うか?
>八:確かに、その通りでやす。言っちゃあなんでやすが、良いところなんかひとっつもありゃしません。・・・断(ことわ)るんなら今のうちでやすぜ。
>久:小豆様が、断るよう仕向けよと頼んできたのか?
>八:とんでもねえ。家島様の気遣いにはこの上もなく感謝してるし、信じて従おうかと思うって言ってやす。
>久:では、なぜそちらを寄越(よこ)したりするのだ?
>八:そりゃあ、一緒に暮らそうってんでしょ? 誰だって心配になりやすって。
>久:そうよな。誰だって心配になるものよな。

>三:ときに、ちょっとお聞きしても良いですかい?
>久: なんじゃ?
>三:お内儀様は、今回のことに納得(なっとく)しているんでやすかい?
>久:無論、納得尽(ず)くである。磯次郎のことを思えば、これ以上のご高配は有り得ぬ。願ってもない条件である。
>三:お言葉でやすが、坊ちゃんのことじゃなくって、お内儀様にとってどうかってことをお聞きしてるんでやすけど。
>久:何を言う。武家にとっては、男子が第一。母は子に良かれと思うことなら全て従うのみ。そこに母の意向など、初めから存在しないのだ。
>八:そりゃあ、間違ってやすよ、お内儀様。気に食わないんだったら、断っちまった方が良いですって。子供ってのはですね、自分の母親の嘘にはすぐに気付いちまうもんなんでやすよ。そうじゃねえですかい?
>久:それはそれ。当家では、母と子の間などという些少な間柄のことなど二の次三の次に回すようにと、そう教えてきておるのでな。
>八:そんなんで、息子さんは素直に育ってやすか? 友達としっくりやってやすか? 目上の人らと巧くやっていけてやすか?
>久:それは・・・。では、どうせよというのか? 今更私一人の力では、どうにもならぬのじゃ。もう、手遅れなのやも知れぬ。

>三:そんなことありやせんって。だって、まだ16、7でやしょう? おいらたちの半分くらいじゃぁありやせんか。
>久:秀才だ逸材(いつざい)だと言われ持て囃されても、やはり、しっかりした父親が必要な年なのじゃ。
>八:それはそれで羨ましくはありやすがね。・・・ただ、お山の大将でいるようじゃいけませんやね。
>久:あれの父親が言ったことを履き違えているのようなのじゃ。長いものに巻かれるくらいなら、与えられた地位の上等であれ。それを・・・
>三:ははあ。それであんな厚かましそうな態度を取ってらっしゃるんですか?
>八:ちょっくら、荒療治が必要かも知れやせんね?
>久:荒療治とは? 変に押さえ付けて改心させようというのではないでしょうね?
>八:冗談でしょう。おいらがそんな冷たいことなんかする筈、ねえじゃねえですか。こういうことはですね、お内儀様、本人が自分で気が付かなきゃ、なんにも分かったことにならないんでやすよ。
>三:八兄い、また余計なお節介(せっかい)を焼こうって言うんじゃ・・・
>八:何をしみったれたこと言ってやがるんだ。ここまで関わっちまったら、終(しま)いまで付き合わない訳にゃいかねえだろ?
>三:でも、そりゃあいくらなんでも僭越(せんえつ)ってもんじゃありやせんか?
>八:何を言ってやがる。そんな小難しい言葉は、この八兵衛さんにゃ通じねえのさ。はっはっは。
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