233.【し】 『知(し)らぬが仏(ほとけ)』 (2004/05/24)
『知らぬが仏』
知れば腹も立ち、苦悩や面倒も起こるが、知らないから腹も立たず、仏のように済ました顔でいられる。転じて、当人だけが知らないで平気でいることを嘲(あざけ)っていう。
類:●見ぬが仏●What the eye does not see the heart does not grieve over.(目にしなければ、心も痛まない)●What you don't know won't hurt you.(気付かなければ、傷付かない)<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典
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「だるま」では、半次と松吉が、日の高いうちから飲み始めていた。
<仕込み>とは名ばかりの開店準備をしていた亭主は、初めのうちこそ駄目だ駄目だの一点張りだったが、赤子が産まれたのだと話すと、それじゃあ仕方がねえなと、2人を招(まね)き入れた。

>松:半次、仕事を休ませちまって済まなかったな。
>半:なあに、そんなもん1日や2日ずれたところで、家主殿は気付きもしねえよ。
>松:そんなもんなのか? でもまあ、そう言って貰えると気が休まる。
>半:そんなに気にするなって。俺んとこがそうことになったときにゃ、こっちから頼まなきゃならねえからよ。
>松:それなら任(まか)せとけ。おいらの方は長屋仕事だからな、3日でも4日でも面倒を見てやる。それに、お産をしたことがある菜々が付いててやるのが一番安心だろう?
>半:まあな。宜しく頼むぜ。・・・今回のことで分かったんだがよ、ことお産となると、男は丸っきり役立たずだよな。
>松:まったくだ。
>半:乳をやるのも女だし、躾(しつけ)をするのも女に敵(かな)わねえ。
>松:慣れた母親は泣き声を聞き分けるって言うじゃねえか。お前ぇにできるか?
>半:まだ生んでもいねえってのにそんなこと分かる訳ねえじゃねえか。お前ぇさんはどうだい、松つぁん?
>松:おいらになんか分かりっこねえじゃねえか。赤ん坊の泣き声と、盛りの付いた猫の鳴き声の区別も付かねえんだぜ。
>半:はっは。そりゃあ、俺も一緒だ。・・・どうやら、男の耳はそういう風にしかできてねえらしい。
>松:そんな訳はねえだろうがよ。・・・きっと、真剣みが足りねえのさ。女房任せにしてりゃ間違いねえってな。
>半:違(ちげ)ぇねえ。

台所では、材料を大鍋に入れ終わってしまったのか、亭主が酒樽(さかだる)に腰掛けて煙草を吸っていた。

>半:親爺(おやじ)ぃ、何か肴(さかな)はねえのか?
>亭主:昨日の残りもんで良きゃ、身欠(みが)き鰊(にしん)があるぜ。
>半:ほんとに昨日のだろうな?
>亭:当たり前だ。父親(てておや)になったばっかりの奴を殺しちまったら、2人から仇(かたき)と狙(ねら)われるじゃねえか。
>半:成る程。そうまで言うんなら大丈夫だろうな。そんじゃあ、そいつを出して呉れ。それと、銚子を2本。
>亭:今日だと分かってりゃ、鯛(たい)の尾頭(おかしら)付きでも用意しとくんだったな。
>松:なんだい? 親爺の奢(おご)りか?
>亭:冗談じゃねえ。そんな高価なもんを誰が奢るかよ。
>半:じゃあ、どうするってんだ?
>亭:売り付けるに決まってんじゃねえか。浮かれちまってる父親とその仲間によ。祝い事とくりゃ、金に糸目は付けねえだろ? 鯛を右から左へやるだけで、こっちには手間賃がたんまり転がり込むって寸法よ。

>半:下(くだ)らねえことを考えてやがるな。こんな小汚(こぎたな)い飲み屋に来る客が鯛なんか食うかってんだ。
>亭:何をー? ここのどこが小汚えってんだ?
>半:全部だよ、全部。
>亭:言いやがったな? 掃除(そうじ)の係りはお花ちゃんだからな。給金を減らしとくしかねえな、こりゃ。
>半:なんてことを言いやがるんだかね、この親爺は。元から汚えものをどう拭いたって綺麗になんかなるもんか。そんなんで給金をどうこうしてたら誰も寄り付かなくなるぞ。
>亭:けっ。そんなこと誰が本気で言うかってんだ。細かい冗談に一々ぴりぴりするなってんだ。・・・ほらよ、鰊の煮付けと、鰹(かつお)の刺身だ。
>半:おおっ、凄(すげ)えなこりゃ。初鰹じゃねえか。どうしたんだ、こんな高いもん?
>亭:ひょろっとした末成(うらな)りの瓢箪みてえな大工の見習いが、人の親になるかも知れねえって言うからよ、ちょっとばかし奮発(ふんぱつ)したのさ。
>半:ああそうか。四郎のところも今朝方だって言ってたぜ。倅(せがれ)だとよ。
>亭:ほう、無事に産まれたか。

>松:しかし、親爺が四郎のために鰹を仕入れるなんて、考えてもみなかったな。
>亭:世話の焼ける餓鬼(がき)ほど可愛いって言うじゃねえか。・・・覚えてんだろう? あいつらがごろつきだった頃のこと。
>半:ああ。あやさんと源五郎親方の馴れ初(そ)めだな。何年になるかな?
>亭:4年半だ。
>松:へえ。良く覚えてるじゃねえか。
>亭:当ったり前ぇじゃねえか。こっちは卓を壊されるわ銚子や猪口(ちょこ)を割られるわで、豪(えら)い損をしたんだからな。
>半:何を言ってやがる。源五郎親方が全部払って呉れたじゃねえか。
>亭:銭では済んでも、気持ちは別物ってことよ。・・・でもま、あれからもずっと常客でいて呉れるんだから、もう疾(と)っくに元は取り返してるし、気持ちも収まってるがな。
>半:それで、その「ご愛顧のお礼方々」ってことなのか、初鰹は?
>亭:なんだと? お前ぇ、何か勘違いしちゃいねえか?
>半:何をだ?

>亭:安くはねえ鰹を只(ただ)で食わせるとでも思ってるのか?
>半:だって、赤ん坊の祝いなんじゃねえのか?
>亭:そうさ。だから言ったじぇねえか。祝い事とくりゃ金に糸目は付けねえだろうってよ。
>半:なんだと? ・・・じゃあ、こいつも勘定に入れてるってのか?
>亭:当たり前だろう? 飲み屋で物を食えばそれ相応の銭は掛かる。
>半:そんなら要(い)らねえよ。
>亭:箸(はし)を付けちまったもんは下げられねえな。
>半:手前ぇ、騙(だま)しやがったな?
>亭:八兵衛たちには黙ってろよ。お前ぇたちだけを食い物にしようってんじゃねえんだからよ。うっしっし。八公なら大喜びでがつがつ平らげやがるぜ。
>半:なんてことを考えてやがるんだかな、この親爺は。
>松:まあ良いじゃねえか。こんなとこで初鰹を食うのもなんかの巡(めぐ)り会わせだ。稚児(やや)も無事生まれたんだし、ちょっとくらい贅沢(ぜいたく)しても罰(ばち)は当たらねえさ。
>亭:それ見ろ。目出度いことってのは有難えじゃねえか。

そういえば、熊五郎から「飲ましてやる」のようなことを言われていなかったかと、半次は思い当たった。
・・・まあ良い。どうせ俺たちが来なくても、丸々払わされていたのは熊五郎たちだったのだから。
半次は、そう自分を納得させた。

6つ(18時頃)を少し過ぎた時分に、熊五郎たちがどやどやと入ってきた。
熊五郎は、半次と松吉を見付けると、満面の笑みを浮かべて近寄ってきた。

>熊:松つぁんとこも今日だって?
>松:あ、ああ。娘だ。・・・四郎のとこは男だってな?
>四:はい。朝方に産まれました。
>熊:五六蔵とはまだ会ってねえのかい?
>松:あいつんとこはこれからだからな。それどころじゃねえみてえだ。明日辺り、陣中見舞いにでも行ってみるさ。
>熊:そうして呉れると助かるよ。

>八:おっ、松つぁん、そいつは鰹じゃねえのか?
>半:ここにしちゃ珍しいだろ。親爺が四郎のために仕入れたんだとさ。
>八:四郎のためだと?
>半:今日辺りに産まれるとか、そういう話をしたんだろう?
>八:そういやあ、お花ちゃんにそんなことを言ったような言わなかったような。
>熊:お前ぇは寝てやがったじぇねえか。おいらが話したの、お花ちゃんには。
>八:なんだと? お前ぇ、余計なことをしやがって。お花ちゃんと話すのはおいらを通してからにして貰いてえな。
>熊:お前ぇのもんって訳じゃあるまいし、偉そうに言うんじゃねえ。
>八:何をぅ? そんじゃあ、おいらのもんにしちまっても良いっていうんだな?
>熊:そんなこと言ってねえじゃねえか。
>八:いや、言った。・・・分かった。おいらがなんとかする。見てろよ、この八兵衛さんの手に掛かりゃ、お花ちゃんの1人や2人・・・

そこへ、「あら、皆さんお早いんですのね」と言いながらお花がやって来た。
八兵衛は、言おうとしていた言葉を飲み込み、決まりが悪そうに「や、やあ」とだけ挨拶(あいさつ)した。

>熊:お花ちゃん、今日は活(い)きの良さそうな鰹があるらしいんだが、こっちにも出しちゃ呉れねえか? それと、半次が筍(たけのこ)を食いてえって言うんだが、あるかな?
>花:聞いてみますね。あと、お銚子は一先(ひとま)ず4本くらいで良いかしら?
>熊:ああ。頼むよ。
>八:お前ぇが喋るなって言っただろう?
>熊:何を言ってやがる。お前ぇが勝手に黙っちまったんじゃねえか。
>八:そ、そ、そんなことあるか。おいらはだな・・・

八兵衛と熊五郎が毎度の掛け合いを始めたころ、台所では、鰹を切りながら亭主が北叟笑(ほくそえ)んでいた。
今日は幾ら吹っ掛けてやろうかと、算段(さんだん)していた。
しかし、こういう目論見(もくろみ)は、往々にして悪い方に出るものである。
但(ただ)し、そんなことは「だるま」の亭主には考え及べる筈もないことだったが。
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