第24章「算盤弾き友助の算段(仮題)」

212.【し】 『鹿(しか)を逐(お)う者(もの)は山(やま)を見(み)ず』
 (2003/12/22)
『鹿を逐う者は山を見ず』[=追う者は〜]
一つのことに熱中すると、他のことを顧(かえり)みる余裕がなくなるということ。
類:●獣を逐う者は目に太山を見ず●鹿を逐う猟師は山を見ず●金を掴む者は人を見ず木を見て森を見ず
出典:「虚堂録」「逐鹿者不見山、攫金者不見人」
参考:
淮南子−説林訓」「逐獣者、目不見太山、嗜欲在外、則明所蔽也」
出典:虚堂録(きどうろく) 禅書。虚堂智愚。咸淳5年(1269)。10巻。虚堂和尚の行履、説法を収録したもの。
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暦(こよみ)が師走に変わった途端、町なかは急にざわめき始める。
年内に片付けなければならない仕事がまだ3つ残っており、源五郎は已(や)むなく、弟子たちを3つの組に分けた。
八兵衛と三吉、五六蔵と四郎、そして、熊五郎は1人である。

>熊:親方、そりゃあねえですよ。材木は1人じゃ運べねえですぜ。
>源:時々見回りに行ってやるから、そんときに手伝ってやるよ。
>熊:ですが、1人っきりってのはどう考えたって良くねえですよ。
>源:仕方がねえだろ。親父が調子に乗ってほいほい請(う)けてきちまったんだからよ。・・・まったく、孫にばっかり気を取られて呆(ぼ)けちまったんじゃねえのか?
>熊:断(ことわ)って呉れりゃ良かったじゃねえですか。
>源:そんなこと言って聞いて呉れる玉かよ。
>八:良いじゃねえかよ、熊。こんなとこでぐだぐだ言ってても始まらねえだろ。さ、おいらたちゃ出掛けるぜ。行くぞ、三吉。
>三:合点(がってん)でぇ。
>熊:お、おい。・・・なんだよ。冷てえな。
>五六:そんじゃあ、あっしたちも出やす。お先でやす、熊兄い。
>四:行ってきます。
>熊:お前ぇらもか、五六蔵、四郎? この人でなし
>源:お前ぇもさっさと出掛けやがれ。大晦日までもう何日もねえんだからよ。
>熊:分かりやしたよ。行きゃあ良いんでしょ、行きゃあ。・・・ですけど、ほんとに来てくださいよね。寄り合いで昼間っから酔っ払ったなんてことにならないでお呉んなさいよ。
>源:大丈夫だ。正月じゃあるまいし、そうそう酒ばっかり飲んでいられるかってんだ。

熊五郎は、仕方なしに宛てがわれた現場に向かった。
「こうなったら、できるだけ手際(てぎわ)良く済ませて、2人分の手間賃をせびってやるぞ」と、考え方を改めた。
勿論、手間賃が1人分なのは分かっている。しかし、そうでも思わないと気持ちが挫(くじ)けてしまいそうだったのだ。
一方、八兵衛は暢気(のんき)なものである。
自分のところが遅れても、先に終わった五六蔵たちが手伝いに来て呉れるだろうくらいに考えている。

>八:なあ三吉、今日っからのとこはよ、あそこに近いっての気が付いたか?
>三:あそこってどこなんでやすか?
>八:決まってんじゃねえか。食い道楽の「一黒屋」のご隠居さんのとこだよ。
>三:真逆(まさか)八兄い、昼間っからご馳(ち)になりにって訳じゃ・・・
>八:何を言ってやがる。その真逆に決まってんじゃねえか。
>三:止(よ)しましょうよ。もしも、そんなことをしてるってのが、熊兄いに知れたらどうなると思います?
>八:どうなるってんだ?
>三:頭から湯気を立てて怒りやすぜ。
>八:昼休みに何をしようとこっちの勝手だろ? 熊が何を言おうと構うもんかよ。へへーんだ。
>三:大丈夫なんですか、ほんとに?

熊五郎が、昼飯の時間を惜(お)しんで働いている頃、八兵衛と三吉は一黒屋の隠居所に向かった。
野菜売り場の方で、高麗鼠(こまねずみ)のように働いている与太郎を見付けたが、客が引っ切り無しに来るので、中々声を掛けられない。
仕方なしに、手近にあった蜜柑(みかん)を2つ掴んで、支払いの列に並んだ。

>八:よう、与太郎。ご隠居さんはいるかい?
>与:おや、八つぁん。態々(わざわざ)ここまで買いにきて呉れたんですか?
>八:まあな。今日から掛かる現場が偶々(たまたま)近所だったもんでよ。
>与:そうですか。それは有難う御座います。この蜜柑、今日の目玉商品なんですよ。流石(さすが)食べ物に関しては目が利きますね。
>八:そ、そうか? はは。恐れ入っただろう?
>与:はい、とっても。・・・2個で4文(約80円)です。
>八:なんだと? おいらから銭を取ろうってのか?
>与:当たり前じゃないですか。売り物なんですから。
>八:それに、目玉商品なのに4文たあどういうこった?
>与:それでも半値以下なんですよ。一黒屋お勧めの「あまーい蜜柑」ですからね。三ケ日(みっかび)産ですよ。
>八:なんだそりゃ? 黴(かび)が生える三日前のやつってことか?
>与:産地の名前ですよ。遠州(えんしゅう)の方です。
>八:遠州ってなんだ? ・・・おい、聞いたことあるか、三吉?
>三:鰻(うなぎ)で有名なところじゃねえですか?
>八:おおそうか。そりゃあ凄(すげ)え。よし、なんだか分からねえが、買った。ほらよ、4文。

>与:毎度ありぃ。・・・ご隠居様なんですが、ちょっと忙しくってお会いできないかも知れませんよ。
>八:だって、隠居してるんだろ?
>与:暇なときはそんな風にしてらっしゃいますが、この時期は書き入れ時ですから、張り切ってらっしゃいますよ。
>八:ふうん。そうなのか。・・・それじゃあ仕方ねえな。今日のところは、働き振りを見るだけにしとくか。
>三:そうですよ。そうしましょうよ、ね。仕事の続きもあることですし。
>八:そんで、与太郎? ご隠居が暇になるのはいつなんだい?
>与:師走(しわす)の間は無理でしょうね。
>八:なんだと? それじゃあ、おいらたちの現場も終わっちまうじゃねえか。それじゃあ意味がねえ。・・・夜はどうなんだ?
>与:いつも5つ(20時頃)近くまで帳場にいらっしゃいます。
>八:ああ、なんてこったい。おいらって、ほんとに付いてねえな。

与太郎の言葉通り、一黒屋与志兵衛は、帳場で算盤(そろばん)を弾(はじ)いていた。
店内には10人近くの客が居り、職人風体(ふうてい)のまま入るのは憚(はばか)られた。

>八:ちぇ。これじゃあどう仕様もないな。引き上げるとするか?
>三:そうしましょう。
>八:それにしても凄え繁盛(はんじょう)振りだな。誰でも彼でも着物を新調するほど景気が良いとは思えねえのにな。
>三:こいつを見てくださいよ。「一色袷(あわせ)弐拾色取り揃えており升(ます)」って貼り出してありますぜ。
>八:なんなんだそりゃ?
>三:あれですよ。お内儀(かみ)さん連中が群(むら)がってるじゃありませんか。橙(だいだい)のやら緑のやら、一杯あるじゃねえですか。
>八:あんな派手な着物なんか誰が着るってんだ?
>三:買いに来てる人みんなですよ。ほら、飛ぶように売れてるじゃねえですか。
>八:はあ、こりゃ魂消(たまげ)たね。一体どういう好みをしてるんだ、こいつら?
>三:1人じゃ恥ずかしいけど、みんなが着てるんなら怖くないってことですかね。値段を見てくださいよ。そこいらの呉服商の半額ですぜ。これならちょっとくらい恥ずかしくても買いますよ。
>八:へえ。買う方もどうかと思うけど、それにも況(ま)して、考え付いた方も凄(すげ)えな。商(あきな)いってのはそんなもんなんだな。
>三:感心してるのは結構ですが、そろそろ引き上げましょうよ。ご隠居様と話がしたいからって着物を買わされるのはご免ですからね。
>八:だがよ、あんな派手なのでも着て町を歩けば、お前ぇでも持てるかも知れねえぞ。
>三:そうまでして持てたいとは思いませんよ。さ、行きやしょう。

八兵衛は名残(なごり)惜しそうに与志兵衛を見遣ってから、諦(あきら)めたのか、現場へと歩き始めた。

>三:着物の方も青物の方も、安泰のようですね。
>八:まあな。・・・しかしよ、いくら書き入れ時だからって、あんなに忙しそうに働くことはねえんじゃねえのか?
>三:稼(かせ)げるときに稼いでおけば、後で楽ができるってことじゃねえんですか?
>八:どうだかな。おいらにゃ、齷齪(あくせく)し過ぎて付き合いをなくすような気がするけどな。
>三:そりゃあ、貧乏人のやっかみってやつですよ、きっと。
>八:そうかなあ・・・
>三:そこまで考え込まれちゃうと、はっきりそうだとは言い切れなくなっちゃいますけどね。
>八:ほれ見ろ。やっぱりそうじゃねえか。いけねえな、まったく以っていけねえ。ご隠居さんは美味いもん食って、美味い酒を飲んでりゃ良いの。そうでなきゃご隠居らしくねえんだよ。
>三:そいつは八兄いだけの考えでしょう?
>八:そんじゃあ聞くが、三吉、お前ぇはどう思う? 隠居してる年寄りが帳場に座ってても良いのか?
>三:そんなこと言ったって、後継ぎがねえんじゃ仕様がねえでしょう? 八兄い、なんだったら、もう一遍考え直しやすか、養子の話?
>八:冗談じゃねえ。おいらは大工が性に合ってるの。今更お店(たな)の暮らしなんかできるかってんだ。
>三:そうですよね。立派な大工の親方にならなくちゃならねえんですよね。
>八:その前に嫁を貰わなきゃならねえがな。
>三:ははは。そいつはいつになることやら・・・
>八:手前ぇ、喧嘩を売ろうってのか?

>三:そうじゃありませんって。・・・食いもんとか酒のことばっかり考えてて、仕事を疎(おろそ)かにしてると、来て呉れる嫁もいねえってことですよ。そうじゃありやせんか?
>八:へえ。お前ぇにしちゃご立派なことを言うじゃねえか。確かにその通りだ。・・・よし、ささっと飯を掻っ込んで、ばりばり仕事をこなすとするか。
>三:そうしやしょう。
>八:きりきり働けよ。ぎゅうぎゅう締め上げてやるからよ。
>三:極端過ぎやすよ、八兄い。ほどほどにお願いしやすね、ほどほどに。
>八:何言ってやがる。もっと大きい目でものごとを見ろって言ってるのはお前ぇの方なんだぞ。お前ぇだって、やがては弟子を持つ身になるんだ。それまでに一本立ちできるようにおいらが鍛(きた)えてやろうってんだ。有り難くて涙が出るだろう?
>三:泣けやすねえ。・・・まあ、単純な兄いの下に付いたのを、運の尽きだと思って諦めますよ。

その頃、五六蔵と四郎は、悪戦苦闘しながらも、それなりに順調に仕事をこなしていた。
熊五郎は、昼飯もそこそこに、目の回るような思いで、働き続けていた。進み具合いでは、一番進んでいたかも知れない。
一方、源五郎は、寄り合いの席で酒を振る舞われ、挙げ句の果てに、元締めの相馬屋に連れられて、頼まれごとの酒席に座らされていた。
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