182.【け】 『涓滴(けんてき)岩(いわ)を穿(うが)つ』 (2003/05/26)
『涓滴岩を穿つ』
僅(わず)かな水の滴(したた)りでも、長い間には岩に穴を明けるということから、絶えず努力していれば終(つい)には大事を成し遂げるということ。
類:●雨垂れ石を穿つ継続は力なり
参考:「漢書−枚乗伝」「泰山之溜穿石、単極之[糸+更]断幹。水非石之[金+占]、索非木之鋸、漸靡使之然也」
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明日の夜に五條という娘を内房の旅籠(はたご)へ連れて行かないければいけないと言われて、熊五郎と八兵衛は千場道場へ、取次ぎを頼みに出掛けた。
「明日ですか?」と、功次郎は目を丸くした。流石(さすが)の猪ノ吉も、成り行きの早さに驚いている。

>猪:折角のお話ですから、義父(ちち)上、進めていただこうではありませんか。私が伝令(でんれい)として行きましょう。
>熊:ちょ、ちょっと待てよ。その前に伝えておかなきゃならねえことがあるんだからよ。
>猪:なんだよ、熊ちゃん。目出度い話なんだから、とんとんと進めちまおうぜ。
>熊:だから、とんとんと進められない事情があるのさ。・・・実はな、お相手のお役人様が、紛れもねえ泣き上戸(じょうご)だそうなんだよ。
>猪:なんだって? それじゃあ、条件に全然合ってねえじゃねえか。そんなのを娶(めあ)わせるってのか、ご隠居さんは?
>熊:そうなんだ。理由もなんもなし。当たって砕けろだとよ。
>猪:そんな無茶な。端(はな)っから酒に飲まれる人は駄目だって言ってんじゃねえか。それを・・・
>熊:ご隠居にはご隠居の考えがおありなんだろうけど、おいらどう考えても巧くいくようには思えねえんだよな。
>猪:駄目に決まってるだろう。初めに条件ありきだろう?
>功:猪ノ吉、内房殿を信じてみようではないか。
>猪:しかし義父上・・・
>功:内房殿とて、人の幸せを蔑(ないがし)ろにする方ではあるまい。きっと深いご配慮があるのであろう。
>猪:そうでしょうか?

功次郎の説得もあり、猪ノ吉は桃池の家へと向かった。
熊五郎と八兵衛は、猪ノ吉が戻ってくるまで、千場の家で待つことになった。

>功:猪ノ吉の足でも半刻(約1時間)は掛かりますから、酒肴(しゅこう)でもお出ししましょう。
>八:待ってやしたっ。
>熊:こら、端(はした)ねえぞ。
>八:だってよ、旅籠の小僧に駄賃だって分捕られて、おいら一文無しなんだぞ。ちっとくらい甘えても良いじゃねえかよ。
>功:そうですか。それなら尚更(なおさら)です。ちょっと腹に溜まるものを出させましょう。
>八:こりゃあ有り難(がて)え。・・・言ってみるもんだな、なあ熊。
>熊:図々しいって言うんだよ、そういうのは。
>功:良いのですよ。そもそもは私個人が頼まれたことです。巻き込んでしまったお詫びもありますし、鱈腹(たらふく)飲み食いしてください。
>八:先生が話せるお人で良かった。こういうことがなくっちゃ他人の世話焼きも面白くねえもんな。
>熊:お前ぇの方から勝手に首を突っ込んだんだろ? 見返りなんか期待するなってんだ。
>八:おいらは期待なんかしてねえさ。偶々(たまたま)食い物や酒を出してくださる親切な人がいるってことさ。
>熊:端(はな)から狙ってる癖に。
>八:なんだお前ぇ、嫌に絡(から)むな。・・・ははあ、年下好みなんて言ったからかちんと来たんだな? 後ろめたいことがある奴はほんとのことを言われると怒るってのは、ありゃあほんとのことなんだな。
>熊:誰が怒ってるかってんだ。お行儀良くしろってご指導してやってるだけだろ。
>八:むきになるところが益々怪しいぞ。
>熊:まったく、お前ぇってやつは。「ああ言えばこう言う」ってのはお前ぇのことだな。
>八:なんだそりゃ? 何かを聞かれたらすぐに答えを言うってことか? それほどでもねえが、まあ、物識(し)りの八兵衛とでも呼んで呉れ。
>熊:そういうことじゃねえっての。

半刻という時間が勿体無いとでもいうように、八兵衛は肴(さかな)を詰め込み、酒をがぶ飲みしていた。
猪ノ吉が戻ってくる頃には、もうかなり出来上がっていた。

>功:どうであった?
>猪:それが、あんまり喜ぶものですから、泣き上戸だということを切り出せませんでした。
>功:そうか。まあ、仕方ない。後のことはご隠居様にお任せしようではないか。ご苦労であったな。さ、こっちに混じって、熊五郎殿と酌み交わすと良い。
>猪:はい。
>八:そう憂鬱そうな顔するなって。ご隠居が巧い具合いに丸め込んで呉れるって。
>猪:しかしな、なんだか騙(だま)すようで・・・
>熊:騙しゃしねえって。なんてったって奉行所の同心だぜ。嘘なんか吐く訳ねえじゃねえか。
>八:なんでだ? ちょこっとだけ誤魔化しとけば目出度し目出度しってのを、自分の方から打(ぶ)ち壊しにしちまうのか? そりゃああんまり勿体無えんじゃねえか。
>熊:祝言を挙げちまえばこっちのもんって訳じゃねえんだぞ。
>八:そうか? おいら、こっちのもんだと思うぞ。
>熊:お前ぇなあ・・・。人事(ひとごと)だと思って、簡単に考えるなってんだ。
>八:だってよ、一度嫁いじまったら、世間様の目もあるから出戻りなんかしやしねえだろ? 元々酒癖云々なんてものは大して大事なことじゃねえのに、それだけで一緒になれねえなんてのが間違いなの。
>熊:それはお前ぇの考えだろ?
>功:いや、八兵衛殿の言い分にも一理ありますぞ。
>熊:先生までそんなことを・・・
>功:そもそも夫婦(めおと)などというものはね、熊五郎殿、長い時間を掛けて少しずつ歩み寄るものなんですよ。初めの出会いなどというものは、それほど重要なものじゃあありません。
>熊:そういうもんなんでしょうか?
>功:そういうものです。まあ、歩み寄ろうとするかどうかの方が重要なことだとも言えますかねえ。・・・そういうものであろう、猪ノ吉。
>猪:確かに。・・・幾らか気が休まりました。

明日は自分たちも立ち会うからと言い置いて、熊五郎と八兵衛は千場道場を後にした。

>八:なあ熊よ、内房のご隠居はいったいどうやって丸め込むんだろうな。
>熊:だから、丸め込んじゃ駄目だろうってんだ。嘘なんか吐かずに正直に話せば分かって呉れるって。
>八:そうかなあ。千場の先生の仲間だろ? 「話が違う」とかなんとか言い出してよ、手打ちにされたりなんかしねえだろうな。
>熊:奉行所の人間がいるってのにそんなことするか。
>八:でもよ、お膳を引っ繰り返すかも知れねえぞ。
>熊:千場先生の顔を潰すようなことはしねえって。・・・多分な。
>八:頼りねえな。・・・でも、ま、ご隠居さんの方だって、なんにも考えがなきゃ呼び集めたりはしねえだろ?
>熊:そうだと良いんだがな。

当日、早目に着いた熊五郎と八兵衛に、内房正道は「考えですか? そんなもん、ありませんよ」と笑って答えた。

>八:ご隠居、なんにも作戦がねえのに2人を纏(まと)めちまおうってんですかい?
>内:いけませんか?
>八:いけねえに決まってるじゃねえですか。
>内:そうは言いますがね、こちらにはお嫁さんを探しておいでの若者がいる、あちらには嫁ぎ先を探しておいでの娘さんがいる。それを1つところに呼び集めるだけです。何もいけないことではありませんでしょう?
>八:そういう言い方をされると騙されちまいそうになりやすが、見合いなんですぜ、これは。呼んで集めただけじゃねえんです。お互いの婿として、嫁として集まってくるんじゃねえですか。もっと真剣になってやらねえと可哀相でしょう。
>内:八つぁんの言葉を借りるとですね、婿として嫁として来るんでしたら、もう半(なか)ば話は決まったようなものなのです。そうではないのですか?
>八:そりゃあ、そうも言えねえこともねえでしょうが、残りの半ばで引っ繰り返っちまったら
ご破算(はさん)になっちまうじゃねえですか。
>内:大丈夫ですって。要は半ばまで来てるかどうかってことなんです。半ばまで来てれば、もうこっちのものですよ。
>八:そう巧くいきますかい?
>内:勿論(もちろん)ですとも。
>八:その自信はいったいどっから来てるんですかねえ。
>内:それはあなた、伊達(だて)に60年以上生きていないということですよ。
>八:そんなもんですかねえ。
>内:しがない旅籠の隠居でも、人様の顔を毎日毎日見ていると、大方の人の中身は分かってしまうものなんです。新山という男は、中々どうして、大した男ですよ。
>八:誰もが認める泣き上戸が、ですかい?

>熊:まあ、ご隠居様に任せて、おいらたちは後ろの方で大人しくしていようぜ。
>八:大人しくだ? 冗談じゃねえ。話が険悪になってきでもしたら、この八兵衛様が出ていって、纏め上げてやろうじゃねえの。こうなりゃ自棄(やけ)だ、
矢でも鉄砲でも持って来やがれ。
>熊:
目が据わってきてるぞ。・・・ご隠居様の長年の目利きとやらが正しいことを祈るしかねえか。
>八:何をぶつぶつ言ってやがる。ここはおいらに任せて、お前ぇはもぐもぐと膳でも食ってろ。
>熊:それを言うんなら「黙々と」だろう。・・・まったく、お前ぇって奴はいつになっても言葉を覚えねえな。
門前の小僧だって、毎日毎日お経を聞いてりゃ、空(そら)で言えるようになるってのによ。
>八:そんな
辛気臭(しんきくせ)えもの覚えたってしょうがねえだろ。
>熊:何も坊さんになれって言ってる訳じゃねえよ。こつこつと努力してりゃ偉い人間になれるってことだ。
>八:てやんでえ。言葉なんていうもんはな、こつこつ覚えなくたって、結局のとこはよ、「飯、風呂、寝る」だけ知ってりゃ生きられるのさ。余計に知ってたからってそれで腹が一杯になりゃしねえの。
>熊:お膳を取り上げられることはあるけどな。
>八:なんだと? そりゃあ大事(おおごと)だな、確かに。
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