172.【け】 『鶏群(けいぐん)の一鶴(いっかく)』 (2003/03/17)
『鶏群の一鶴』
たくさんの凡人の中に、優れている人が1人だけ混じっていること。
類:●掃き溜めに鶴●鶴の鶏群に立つが如し
出典:「晋書−ケイ紹伝」「昂昂然、如野鶴之在鶏群

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「あら、知ってるわよ、磯次郎でしょ?」と、お夏は事も無げに言ってのけた。
しかし、継(つ)ごうとした言葉を飲み込んで、そそくさと給仕の仕事に回ってしまった。

>八:ほらな、聞いてみるもんだろ? おいらって、冴(さ)えてるう。
>熊:だがよ、なんだか妙な顔付きじゃあなかったか?
>八:そうか? おいらには、相も変わらず可愛らしい顔にしか見えねえがな。
>熊:野次馬のお夏坊が、あんなにさっさと引き上げちまうか? いつもなら、こっちが聞きもしねえのに長々と喋(しゃべ)っていくじゃねえか。
>八:大方、燗(かん)を付けてたのでも思い出したんだろ? 手が空(す)いたらまた来るって。
>熊:なんか喋りたくない事情でもあるんじゃねえのかな?
>八:事情って?
>熊:むかし何かされたとか・・・
>八:何かって、真逆(まさか)、好い仲だったとかじゃあ・・・
>熊:さあな。・・・だが、そうじゃねえとも言えねえな。
>八:やい熊、手前ぇ、そんな下品なことばっかり考え付きやがって、お夏ちゃんになんか恨みでもあるのか? 根も葉もねえことばっかり言ってやがると、承知しねえぞ。
>熊:落ち着けったら。勝手に想像を逞(たくま)しくしてるのはお前ぇの方だろ。
>八:こともあろうに、昔の男だとか何とかって、お前ぇ、清らかなお夏ちゃんを汚(けが)すつもりか?
>熊:黙れってんだ。お前ぇがそうやってでかい声を出すと、お夏坊が恥ずかしがるだろう。
>八:へ? ・・・あ、皆さん、聞いてらしたんでやすかい? し、し、芝居の稽古(けいこ)なんでやすよ。ははは。

お夏が剥(むく)れながら、肴(さかな)を運んできた。

>夏:誰があたしの前の男ですって、八つぁん?
>八:あ、い、いや、その、磯次郎って養子がよ。
>夏:止(よ)して頂戴(ちょうだい)よ、あんな人。
>八:あんな人? ・・・ってことは、なんでもねえんだな? 嗚呼(ああ)良かった。心配しちまったじゃねえか、熊の野郎が「妙な顔付きだ」なんて言うからよ。
>熊:喋りたがらねえってことはよ、良くねえ経緯(いきさつ)があったのかって、勘繰るのが普通だろ?
>夏:そりゃあ、喋らなかったあたしの方も悪かったけど、それが選りにも選って磯次郎ってのは嫌だわ。
>熊:まあ、無理に聞きゃあしねえがよ。だが分かって呉れよな。こっちはこっちで頼まれちまったことがあるんだからな。
>夏:分かったわよ。本人と会わないで済むんだったら、力を貸すわよ。
>八:ほんとかい? 磯次郎の母ちゃん探しを手伝って貰えるんだな?
>夏:仕方ないわね、まったく。やらせていただきますよ。・・・でもね、1つだけ言っときますがね、好いた好かれたとか、そういうことじゃないんだからね。前にも言ったように、あたしは医術と添い遂(と)げるのよ。色恋なんてお呼びじゃないの。
>八:そうかい。そりゃあ良かった。・・・ふう、一安心だぜ。そうと決まれば、早速(さっそく)話し合いといこうか。・・・三吉、ようく聞いとけよ。
>三:なんでおいらが?
>八:なんでってお前ぇ。・・・あれ? 言ってなかったっけ?

>五六:八兄い、なんでやしたら、あっしが・・・
>八:お前ぇは良いの。お三(み)っちゃんと宜(よろ)しくやってろ。
>五六:それじゃあなんですかい? そんなこそ泥みてえな仕事を、三吉とお夏ちゃんにやらせるってことですかい?
>八:「こそ泥みてえ」なんてったら元も子もねえじゃねえか。良いか、確かにこそこそやる仕事ではあるがだ、小豆(しょうど)様というお役人の達(たっ)ての頼みなんだぜ。要するに、人助けだ。
>五六:それは分かりやす。ですが、引き受けちまったのは八兄いじゃねえですか。
>八:兄弟子が仕事を弟弟子にやらせるのは、当たり前ぇのことじゃねえか。だってよ、小豆の旦那は親方のところへ頼みに来たんだぜ。それが弟子のおいらのところへ回ってきたんだ。自然なことじゃねえか、なあ熊?
>熊:親方が返事する前に、お前ぇが引き受けちまったんだろうが。
>五六:・・・ね? おんなじじゃねえでしょう?
>八:手前ぇ、嫁が決まった途端(とたん)に弁が立つようになりやがったな。
>熊:お前ぇの負けだな、八。お前ぇも付いてってやれ。
>三:あの、おいらは別にお夏ちゃんと2人っきりでも良いですよ。少しは色っぽい気分になれるかも知れませんからね。
>八:なんだと? ちょ、ちょ、ちょっと待ちやがれ。それだけはなんねえ。おいらも付いていく。2人っきりなんかにさせるもんかってんだ。・・・こうなりゃ自棄(やけ)だ。お咲坊も熊も、みんな纏(まと)めて連れてってやらあ。

次の雨の日の8つどき(14時頃)にという約束で、一番近いお夏の住まいに集まることになった。そして、翌々日・・・。
三崎町の「分教場」は、お世辞にも立派とは呼べないような寺子屋だった。
通(かよ)ってくる者も、武家の子弟(してい)ばかりではなく、商家や職人の子供も混じっているようだった。

>咲:お夏ちゃん、あんたなんだって、こんなとこ知ってる訳?
>夏:そんなことどうだって良いでしょ。・・・ほら、あの一番後ろで、大欠伸(あくび)しながら雨垂れを数えてるのがいるでしょ? あれが磯次郎よ。
>咲:なによ。全然やる気なしじゃないの。
>八:講義の中身に付いていけねえのか? 碌(ろく)なもんじゃねえな。
>夏:その逆よ。
>八:なんだって?
>夏:今先生が読み上げているのは「孟子」っていう南蛮(なんばん)の書物なんだけど、空で覚えちゃってるからあんなことをして見せてるのよ。
>咲:嘘でしょ? 南蛮の書物を全部覚えちゃってるの?
>夏:ほんとなのよ。それを鼻に掛けて・・・。見てよあのこれ見よがしな様子。いけ好かないったらありゃしない。
>咲:凄(すご)いじゃない。もしかすると、あの先生より頭が良いかも知れないわね。へえ、こんなちんけなとこにねえ・・・
>夏:頭が良けりゃ良いってもんじゃないわよ。
>咲:あら、お焼き?
>夏:冗談。誰があんな自惚(うぬぼ)れ屋に。
>熊:面と向かったことがありそうだな。
>夏:昔ね。・・・さて、あたしの役目はここでお終(しま)い。あとちょっとで区切りのところだから、もうすぐ出てくるわ。
>咲:分かるの?
>夏:あたしだって、ちょっとくらいなら知ってるのよ。・・・あーあ。なんだかくさくさしてきちゃったから、「お花畑」にでも寄ってから帰るわ。じゃあね。養子の話、経過は良いから、どうなったかだけ教えて。

お夏はすたすたと去ってしまった。

>八:「お花畑」ってどこだ? そんなのここいらにあったか?
>咲:養生所の薬草畑よ。こんな時期だから、花なんか咲いちゃいないけどね。
>八:ほう。・・・しかしよ、お夏ちゃんも、「だるま」に行きながら、良く続いているよな。
>咲:その逆よ、八つぁん。
>八:へ? 何がどう逆なんだ?
>咲:お医者様になる用意をするために「だるま」の女中を続けているの。
>八:だってよ、親父さんの薬代の方は、鹿の字がちゃんと稼(かせ)いでるんだろ? もう良いんじゃねえのか?
>咲:長崎に行くのよ。いくらあったって足りないわよ。
>八:ほんとに本気なのか?
>咲:当たり前じゃない。八つぁん、この2年、夏ちゃんのどこを見てきたの?
>八:どこって・・・
>咲:お夏ちゃんはね、自分の腹の空(す)き具合いしか考えない八つぁんとは違うの。ここいらに住むみんなの身体の具合いのことを考えてるんだからね。生半可な気持ちじゃないんだから・・・
>八:おい、こらお咲坊、何もこんなとこで泣き出さなくたって良いじゃねえか、な?
>熊:・・・おい、五六蔵、お前も付き合え。お咲坊を送って帰るぞ。
>五六:へ、へい。
>熊:三吉、済まねえが、八の仕事に付いてってやって呉れ。顛末(てんまつ)は、「だるま」で聞く。
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