311.【つ】 『爪(つめ)に火(ひ)を灯(とも)す』 (2005.11.21)
『爪に火を灯す』[=とぼす]
蝋燭(ろうそく)や油の代わりに爪に火を灯(とも)すという意味。非常にけちであることの喩え。または、度を越した倹約振り。
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坂田太市は、ほっとしたのか、猪口(ちょこ)で酒を立て続けに3杯呷(あお)った。
見ている周りの方がはらはらするようであった。
奥の席にいる「お付き」の者たちも、一瞬ざわついた。

>五六:その田楽(でんがく)屋ってのはどんなお人なんですかい?
>坂:はい。名を幹次郎(みきじろう)と申しまして、以前は両替商で丁稚(でっち)奉公していたそうです。
>五六:へえ。そりゃ、友さんと一緒じゃねえですか。
>坂:いやいや、友助さんと違うところは、6、7年で自分の方から放(ほお)り投げてしまったということです。きっと、旦那のやりようと合わなかったのでしょうな。
>八:それで食い物売りですかい? 変わってますね。
>坂:元々、お頭(つむ)は良かったのです。小さな小屋から始めて、もう10軒も暖簾(のれん)を分けているのですから。
>八:なんですって? 暖簾分けってのは自分が旦那になって、そんでもって、番頭を持って、手代が・・・
>坂:そういう大袈裟(おおげさ)なものは抜いてしまったのです。1人に1軒。手伝うのは女房や倅(せがれ)や娘だけということにしてしまったのです。
>八:へえ。そりゃそうか。田楽屋に番頭も何もねえですもんね。
>坂:このあたしも、些(いささ)か感心させられました。とっても頭の良いやり方です。
>八:どこがどう良いってんです?

>坂:味噌の混ぜ合わせ方を教え込んで、他言(たごん)しないのを約束させて小屋を建ててやるのです。
>八:それのどこが賢(かしこ)いってんですかい?
>坂:月々、それぞれから上がりを取るのです。
>八:運上金(うんじょうきん)みてえなもんをですか?
>坂:そうです。儲(もう)けの1割から2割ほどでしょうか。言葉は悪いですが、ピンを撥(は)ねる訳ですな。
>八:高々(たかだか)味噌の味なんでしょう? それで2割ですか? そりゃあ法外(ほうがい)だな。
>坂:まあ、上がりといっても、田楽の上がりでは高も知れようというものですがね。
>八:それでも、銭を寄越(よこ)せって言うんでしょう? 干上がっちまうじゃありませんか。
>坂:割合いですから、8割は残るのです。倹(つま)しくしていれば、干上がったりはしません。
>八:そうか。それなら、満更(まんざら)悪い話でもねえんですね?

>坂:そういうことです。・・・八つぁんは、美味(うま)いと評判の田楽と、そうでないところの田楽なら、どっちを食べますか?
>八:そりゃ、決まってますよ。身がでかい方です。
>坂:はっは。八つぁんらしいですね。・・・では大きさが同じなら?
>八:そりゃあ評判の方が良いですね。
>坂:そうでしょう? どうせ店をやりるのであれば、少しでも多くお客が来て呉れた方が良いでしょう? 銭も儲かりますが、何よりも張り合いというものが違う。
>八:そりゃあね。閑古鳥(かんこどり)が鳴いてるよりも、鮨詰めくらいの方が良いですわねえ、ここみたいに。あの親爺(おやじ)のにやけた面(つら)は気に食わねえけどな。

聞こえているのかいないのか、板場では亭主が鼻歌を歌いながら魚を焼いている。
美味いという評判でもないのに、良くもまあ、流行(はや)っているものである。

>咲:ねえ、もうお話は終わっちゃった?
>熊:いや。まだ途中だ。
>咲:良かった。それで、どういう話なの?
>坂:お咲さん、この度はお目出度(めでた)い話だそうで、知らぬこととはいえ失礼いたしました。
>咲:何言ってるんですか、坂田の小父(おじ)様。先生は忙(いそが)しくしてらっしゃるんだから、あたしら下々(しもじも)のことなんか知らないのが当たり前じゃないですか。
>坂:先生などと呼ばないでください。今でも文士崩れには違いないんですからな。・・・そんなことより、あなたにはまた一働きして貰うことになりそうです。よろしく頼みます。
>咲:人助けでしょう? あたし、そういうのって大好きなのよね。
>坂:有難う御座います。

>咲:それで? 何をすれば良いの?
>坂:幹次郎という田楽屋が居(お)りまして、日本橋の土地を買い集めているのです。しかし、どう考えても誰かが銭を出している筈なのです。
>熊:それに、動こうとしねえお店(たな)にやくざ者を差し向けて嫌がらせをさせているらしいんだ。
>咲:そんなことまでさせているの?
>坂:同じ者がやくざ者を雇(やと)っているのだとしたら、大物なのかも知れません。
>咲:大物? 根塚(ねづか)のお爺(じい)ちゃんくらい?
>坂:どうでしょうかねえ。武家ということも有り得ます。今のところ、まったく姿を現さないのです。
>咲:武家?
>熊:もしそうだったら、おいらたちの手には負えませんよ、太市の旦那。
>坂:そのときには、勿論(もちろん)、役人に任(まか)せます。
>咲:じゃあ、そこまでを突き止めれば良いのね?
>坂:そういうことです。大丈夫ですか?
>咲:大丈夫。そんなの朝飯前よ。
>熊:お前ぇまで八みてえなこと言うなってんだ。
>八:なんだ? おいらがいつ安請け合いしたってんだ?
>熊:したじゃねえか。
>八:おいら、お咲坊みてえにできもしねえことをできるなんて言ってねえぞ。
>咲:あたしだって、できないことを引き受けたりはしないわよ。
>熊:お前らなあ・・・。調べてて、逆にふん捕(づか)まるってことだってあるんだからな。
>咲:そんなへまなんかするもんですか。
>八:おいらだってそんな間抜けじゃねえぞ。

まったく、後先見ず無鉄砲揃(ぞろ)いだと、熊五郎は溜め息を吐(つ)いた。
しかし、外(ほか)でもない太市の頼みだから、引き受けるには引き受けたい。

>咲:でもな、あたし1人でってのはちょっと寂しいな。
>熊:誰がお前ぇ1人で行かすなんて言ったかよ。
>咲:だって、みんな昼間はお仕事でしょう?
>坂:それでしたら、奥に座っている者たちをお貸ししましょう。
>咲:駄目(だめ)よ。あんな厳(いかめ)しいのなんか連れてたら、人目を引いちゃうでしょ?
>坂:いけませんか、やはり。
>咲:家(うち)の父上にしたって似たり寄ったりだしな、与太ちゃんも忙しそうだし、案外いないもんね。
>万:・・・あの。私たちでは使えませんか?
>咲:うーん。あんたたちはお仕事を覚える方で頑張って貰いたいな。・・・なんてったって、家の稼(かせ)ぎ頭(がしら)になる訳だもんね。
>万:そうですか。お手伝いしたかったんですけど。
>咲:気持ちは有り難く受け取っておくわ。
>八:そんじゃ、三吉でも貸そうか?
>三:お、おいらですか?
>八:三吉なら、1人くらいいなくたって変わらねえしよ。
>三:酷(ひど)い言われようですね。
>咲:そうしようかしら。太助どんは背が高過ぎて目立っちゃうもんね。
>三:でも、明日はやり残しの仕事があるんですよね。親方にだって頼まなきゃならないし。
>咲:そうかぁ、親方が直(す)ぐにうんと言って呉れるとも限らないものね。

>八:・・・太助の野郎は、混ざりたがるだろうな。なんてったって、只飯(ただめし)が食えるんだからよ。
>咲:そうねえ。引越し蕎麦(そば)の時は、なんにもお詫(わ)びしてなかったものね。
>八:1遍くらい混ぜてやっちゃどうだ?
>咲:暇なようなら、明日あたり付いてきて貰おうかしら?
>八:そうしてやんなよ。あいつ、本気で怒ってやがったもんな。高が引っ越し蕎麦だってのによ。・・・きっと、読売りも売れなくって、ぴいぴいしてやがるんだぜ。
>熊:そうじゃねえと思うぜ。あいつは、米の飯のためだったら、着てるもんなんかなんだって良いってんだからな。・・・だがよ、そこまではっきりしてると、見上げたもんだぜ、まったく。
>咲:まあ良いわ。でも、初めのうちだけね。
>八:・・・そういうことだから、太市の旦那、次の集まりんときは覚悟しといてくださいよ。
>坂:あの「大金餅」のときには、お世話になりましたからね。太助どんにも、喜んでご馳走(ちそう)しましょう。
>八:そんで、次はいつ集まりますか、旦那?
>咲:それでは、あの者たちをお咲さんのところへ使いとして寄越しますから、何か進展がありましたら、その翌日にということで如何(いかが)ですか?
>八:分かりました。・・・おい、お咲坊。明日にでも早速(さっそく)突き止めて来いよ。そうすりゃ太助も喜ぶからよ。
>咲:一番喜ぶのは八つぁんでしょ?
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