308.【つ】 『月夜(つきよ)に提灯(ちょうちん)』 (2005.10.31)
『月夜に提灯』
1.明るい月夜に提灯を灯(とも)すこと。無益・不必要なことの喩え。無駄・無意味なこと。 類:●釈迦に説法
2.過ぎた贅沢(ぜいたく)や、無用の奢(おご)りの喩え。

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午(うま)の刻(=12時頃)は疾(と)うの昔に過ぎており、夕方まで、それほど刻限は残っていなかった。
雨が降っているから、今がなん時(どき)なのか測(はか)りづらい。恐らく未(ひつじ)の刻(=14時頃)くらいであろう。
お咲から勧(すす)められて、熊五郎は万吉と千吉の引越しまで手伝いに出た。
流石(さすが)に重いものは持たなかったが、熊五郎だけが、5往復もしたことになる。

>熊:さあて、どうにか運び終わったな。
>万:相(あい)済みません、熊五郎親方。これから祝言(しゅうげん)だというのに。
>熊:良いさ。お咲坊の言いようじゃねえが、あっちだって、おいらがいなけりゃ祝言になりゃしねえんだからな。
>万:ですが、源五郎親方や皆さんを待たせる訳にはいかないでしょう?
>熊:事情が事情だからな。ま、平謝(ひらあやま)りに謝れば許して呉れるだろうよ。
>万:そうですか。でも、こうやって引き止めてるのもなんですから、用意の方へ行ってください。
>千:・・・あの、さっき、お花さんのところにお蕎麦(そば)が届いたようなんですが、どうしたら良いんですか?
>熊:松つぁんにでも手伝って貰って、配っちまいな。「お世話んなります」って言っときゃ良い。お前ぇらの分と八の分は抜いといて良いからな。
>千:分かりました。端(はし)から配って回ることにします。
>万:それは、私たちでなんとでもしますので、親方は用意に取り掛かってください。
>熊:そうか。それじゃそうさせて貰うぜ。お前ぇたちも、頃合いを見計らって祝言に来るんだぞ。
>万・千:はい。分かりました。

雨に濡(ぬ)れてすっかり身体が冷えてしまった熊五郎は、湯屋(ゆや)へと向かった。
朝から扱(こ)き使われた疲れも、一緒に流れ落ちるようだった。

・・・が、そんなとき、長屋ではちょっとした騒動が持ち上がっていたのである。

>太助:お、おいらにだけ蕎麦がないってのは、どういう訳なのさ?
>千:い、いえ。あの、お咲の姉(ねえ)さんが手配(てくば)りしてくだすったんですが、何をどう間違えたのか、1つ少なかったようなのです。
>万:相済みません。この分は、明日にでも姉さんに事情を話してですね・・・
>太:明日じゃ、おいら、干上がっ骨と皮になっちまうんだな。
>千:だ、だって、米の買い置きくらいあるんでしょう?
>太:そりゃあ、あるにはあるんだけど、今日は蕎麦の口になっちまってるから、今更米の飯とか饂飩(うどん)にはならねえんだな。
>万:そう仰(おっしゃ)られましても・・・
>千:私どもではどうして良いものやら・・・
>太:それじゃ、おいらがお咲ちゃんのとこへ談判(だんぱん)に行くんだな。
>万:ま、待ってください。今夜は祝言なのですから。

>太:ああ、そうか。・・・それじゃあ、大層(たいそう)なご馳走が出そうだなぁ。うふっ。
>万:勝手に連れて行く訳には行きませんよ。
>太:大丈夫なんだな。おいら、みんなの邪魔はしないから。大人しく、隅っこの方でご馳走(ちそう)を食べてるだけだからさ。
>万:駄目(だめ)ですって。
>太:だって、どうせ余っちゃうもんだから、こんな小鉢(こばち)に盛って配るのなんか馬鹿馬鹿しいぞ。そんなら、おいらに食わした方が無駄(むだ)がなくて、作った人も喜ぶに違いないんだな。
>万:それはあなたの方から見た話でしょう? あなたの都合ばかりで事を運ぶ訳には参りません。
>太:だってさ、おいらの蕎麦を用意しなかったのは、そっちのせいなんだから、埋め合わせはして貰わないとな。
>万:困りますって。
>千:そ、それじゃ、こうしましょう。私がひとっ走りして姉さんにどうしたら良いか聞いてきます。そのくらいなら待てるでしょう?
>太:ご馳走が待ってて呉れるんだったら良いけど、逃げないかなあ?
>千:逃げません。・・・というか、あなたに食べていただくための料理ではないのですから。
>太:そうなのかい? それじゃあ、待てないなあ。
>千:お願いですから、少しだけ待ってください。
>太:嫌だと言ったら?
>千:困ってしまいます・・・

そんなところへ八兵衛が戻ってきた。
大工道具も持たず、傘1本だけである。

>八:よう、「無礼千万(ぶれいせんばん)」に、「独活の大木」。なんか面白そうなことでもあったのか?
>万:そういう呼び方は止(や)めてください。特に、今は厄介(やっかい)なことになってるんですから。
>八:厄介ごとか? そうか。そんじゃな。
>千:ま、ま、待ってくださいよ、八兵衛の兄(あに)さん。助けてくださいよ。
>八:お前ぇらは熊の弟子(でし)。おいらの弟子じゃあねえの。
>万:そんなこと言わないで、話くらい聞いてくださいよ。
>八:ほんとに話だけだな? 分かったよ。話を聞くくらいなら構わねえよ。喋(しゃべ)ってみろ。
>万:あのですね、お咲の姉さんが、引越し蕎麦の数を間違ってしまったようで、こちらの方(かた)の分が無くなってしまったんです。
>八:お咲坊がか? 何年もここに住んでるんだぞ。間違える筈がねえじゃねえか。
>千:だって、現に1つ足りないんです。
>八:どうなっちまってるんだ? 定吉だろ、与太郎だろ、半次とお八重ちゃんに松つぁんに菜々ちゃん。家(うち)の母ちゃんとお花、太助に新入りとで、10(とお)ありゃ良いんだろ?
>千:あっ。
>八:どうした?
>千:実は、竜(りゅう)さんのところに秀(ひで)さんがくっ付いてきちゃったんです。
>八:なんだと? そいつにも渡しちまったのか?
>千:はい。片方だけという訳にも行かなくて・・・
>八:そりゃあ足りなくなるわな。・・・太助、まあ、そんな訳だから、我慢しろ。
>太:我慢なんかできますかって。少々のことだったらおいらだって我慢できますよ。でも、こと食い物のこととなると話は違います。
>八:そうか。そんなら、その秀とかいう奴んとこへ行って取り返してくれば良いじゃねえか。
>万:一緒に来て貰っても良いですか?

ということで、秀と竜の長屋を訪(たず)ねた。

>八:よう、御免(ごめん)よ。秀ってのはいるかい?
>秀:おいらだけど、お前ぇさんはどちら様なんで御座んしょ?
>八:なんだか妙な話し方だね、こりゃ。・・・さっき渡した蕎麦を返して貰いてえのさ。
>秀:もう食っちまったですよ。
>八:食っちまったのか? それじゃ、仕方ねえな。・・・やい太助、吐き出して貰うか?
>太:そんなもん食えますか。
>八:そんなら諦(あきら)めろ。
>太:それじゃあ、祝言の席に連れてってくださいよ。
>八:お前ぇを連れてったら、片っ端から食われちまうじゃねえか。おいらの分までなくなったら困るだろう?
>太:いくらなんだって八つぁんの分までは食いませんって。
>八:それにしたって、勿体(もったい)ねえな。なんてったって、お前ぇの腹は底なしだからな。
>万:・・・あの、あなた方お2人のための祝言という訳ではないんですが。
>千:そうですよ。熊の兄さんとお咲の姉さんのです。そんなところに、こんな大きい人を連れて行けません。
>八:・・・な? 太助よ。ああ言ってるだろう? お前ぇには、お花の分を持ってきてやるからよ。それで我慢しろ。
>太:我慢できません。もうおいらの口は、祝言のお膳と引き出物の口になっちまってるんですから。
>八:こいつ、いつの間にか引き出物まで貰うつもりになってやがる。
>太:駄目ですか?
>八:お前ぇには「だるま」のおからで十分なの。豪勢(ごうせい)なもんなんか食ったら腹を下しちまうぞ。
>太:そんな勿体ないことしますかって。おいら、食ったものを吐き出すとか下しちまうなんて、金輪際(こんりんざい)したことはありません。
>八:こりゃまた、情けね取り柄(え)だね。

>秀:あんたたちよぉ。さっきから聞いてりゃ、蕎麦だ、お膳だ引き出物だって、美味(うま)そうな話をしてやがりますがねえ、こっちは、蕎麦なんか半年振りってくらいぴいぴいしてるんだかんね。そんなこと、ここでやらねえでくださいよね。
>八:ああ、そうだったな。そんじゃな。
>秀:ま、待てよ。その、引き出物っての、こっちにも少し回して呉れねえ?
>八:残念。・・・じゃあね。
>秀:待って呉れよ。おいら、ほんとに銭がねえんだ。ここに越してくるのに、溜(た)めてた店賃(たなちん)を半分払ってきちゃったんだからな。
>八:残りの半分はどうしたんだ?
>秀:まだ借りてる。暫(しばら)くは竜に頼って暮らしてよ、少しずつ返さなきゃならねえってことなのさ。
>竜:・・・なんだと? こっちだって銭なんかねえぜ。お前ぇの方が稼(かせ)ぎは多いんだから、お前ぇに頼ろうかって思ってたとこだ。
>秀:そりゃあ無理だ。稼いだ銭は町娘たちに注ぎ込んじまうもんな。
>竜:お前ぇなあ・・・
>八:そこいらのことは2人でなんとかしろ。こっちはこれから祝言なんだからよ。じゃあな。
>秀:待って呉れったらよ。
>八:待たねえよ。

秀と竜の話を聞いて、太助も毒気を抜かれたのか、お花の分の蕎麦で我慢すると言って引き下がった。

>万:ときに、八の兄さんはどうしてこんな刻限に長屋に戻ってきたんですか?
>八:そりゃお前ぇ、この雨だろう? 仕事も切り上げちまったし、かといって祝言の用意を見てたって仕方ねえもんな。それに、これからご馳走が出るってのに、飲み食いするのも馬鹿らしいだろう?
>千:お2人のことを祝おうという気持ちは、あんまりないんですね?
>八:そんなの前っから分かってたことだし、明日っから何がどう変わるってことでもねえんだからな。精々(せいぜい)美味いもんを食って、楽しく盛り上がりゃ良いの。酒を2本も付けて呉れりゃ、腹踊りの1つくらいなら踊ってやっても良いぞ。
>万:ほんとに食べ物のことしか考えてないんですね?
>八:稼いだ銭を町娘に注ぎ込むよりは、なんぼか増しだと思うぞ。
(第36章の完・つづく)−−−≪HOME