266.【た】 『大疑(たいぎ)は大悟(たいご)の基(もと・もとい)』 (2005.01.11)
『大疑は大悟の基』
大いに疑問を起こすことは、やがて大いに悟(さと)る基になるということ。疑問を持たなければ悟りは得られない。
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案の定(あんのじょう)、八兵衛たちは午時(ひるどき)になっても帰ってこなかった。
大鍋(おおなべ)で湯気(ゆげ)を立てる牡丹(ぼたん)鍋と、熱い銀舎利(ぎんしゃり)。不景気な話ばかりの割には豪勢である。

>熊:八の野郎は、ご隠居さんのところで何を食ってるんですかねえ?
>五六:そりゃあ、贅沢(ぜいたく)なもんを食ってるんじゃないですかい?
>源:あそこにも鴨や兎が届いてるんじゃねえのか?
>熊:そりゃあそうでしょうね。間に立って立ち回ってくだすったのはご隠居様なんですからね。
>五六:肉(しし)にご飯ってのも良いですが、鴨鍋に饂飩(うどん)ってのも美味(うま)そうでやすねえ。
>四:鴨はお肌に良いらしいですからね。
>五六:なんだそりゃ?
>四:猪より鴨の方が肌艶(はだつや)がぴかぴかになるそうなんです。
>五六:男の肌艶がぴかぴかになったって仕方ねえじゃねえか。そんなことより、滅多(めった)に食えねえ猪の方が良いに決まってる。
>源:そんなに慌てて食わなくても肉は逃げねえぜ。
>五六:そう仰(おっしゃ)いますがね、親方。八兄いがいると、おちおち箸(はし)を舐(な)めてなんかいられねえんですぜ。良いとこを全部持ってかれちまうんですからね。
>源:今日はいねえから大丈夫だ。追加の猪もある。
>五六:そりゃあ、姐(あね)さんと大女将(おおおかみ)さんに残しといてやっちゃどうです?
>源:気にするな。あっちはあっちで、ちゃっかりとやってるみてえだ。
>五六:そうですかい。そういうことなら遠慮なく。
>熊:それはそうと、親方。さっきから見てると、ほんのちっとしか食ってないじゃありませんか。猪はお嫌いなんですか?
>源:そ、そんなことはねえさ。ちゃんと食ってるって。・・・唯(ただ)な、あんまり熱いのは得意じゃねえんだ。
>五六:猫舌(ねこじた)なんですかい? あっしはちっとも気が付きやせんでした。
>源:八の野郎がいるとよ、こっちのことなんか見もしねえで「がつがつ」だからな。
>五六:そうだったんですかい。八兄いも罪なお人ですねえ。

鍋をすっかり平らげた頃、八兵衛と三吉がとぼとぼと戻ってきた。
空身(からみ)で、である。

>源:どうした?
>八:「斉(なり)ちゃんがお奉行所の方に手配りをしたみたいだから、程なく届くでしょう」ですって。遠くまで歩いた分、腹が減っちまいましたよ。
>熊:何も食わして貰わなかったのか?
>八:素饂飩1杯だけじゃ、歩いているうちに消えてなくなっちまうだろ。
>熊:そうか。そりゃ、残念だったな。骨折り損って奴だ。
>八:まあ良いや。そのうち豪勢ないただきものがあるだろうからよ。
>源:それも残念だったな。もう来ちまったよ。
>八:来ちまったって、親方、そいつはどこにあるんですかい?
>源:食っちまった。
>八:なんですって? そ、そ、それで、おいらの分は?
>源:ねえ。
>八:全部食っちまったんですかい?
>源:そうだ。
>八:そりゃあねえですよ。おいら、なんのためにご隠居のとこへ行ったんだか分からねえじゃないですか。
>源:俺に恥を掻かせるようなことをしたんだってのが、分からねえのか。
>八:す、済(す)いやせん。
>源:お前ぇへの罰だ。お前ぇにはものを食わせねえのが一番の罰だからな。
>八:まったくもってその通りで。
>源:ちっとは応(こた)えたろう?

>八:しかし、斉ちゃんはどうしてお奉行様なんかを通してくだすったんだろうな?
>熊:さあな。おいらたち下々のもんには考え付かない何かがあるんじゃねえの?
>八:いや、なんかあるに違(ちげ)えねえ。うーん・・・
>熊:止(よ)せ止せ。お前ぇのお頭(つむ)じゃ、答えなんかいつになったって出やしねえよ。
>八:馬鹿野郎、答えを出すことが大事なんじゃねえの。斉ちゃんが何を考えてらっしゃるんだろうって考えて頭を捻(ひね)ることが大事なの。
>熊:へえ。お前ぇにしちゃ随分立派なことを言うじゃねえか。
>八:友達としちゃ当たり前ぇのことじゃねえか。
>熊:あっちは友達だなんて思ってねえかも知れねえけどな。
>八:何をぅ? おいらと斉ちゃんの間柄を疑うのか?
>熊:同僚としてお前ぇのことを心配してやってるの。それだって大事なことだろ?
>八:揶揄(からか)ってやがるのか?
>源:良いからそれくらいにしとけ。
>八:あ、済いやせん、親方。・・・で、あの親方、ご飯の残りかなんかありませんか? 腹が減っちゃって、どうにもこうにも、力も考えも湧(わ)かねえんですよ。
>源:まったく、仕様のねえ野郎だな。三吉を連れて奥へ行ってみろ。汁くらいは残ってんだろ。

骨と大根とを塩味で煮た汁でご飯を掻き込んだ八兵衛たちが作業場へ戻ると、源五郎は根塚(ねづか)邸の改築の話を説明した。
八兵衛も頭を抱えるばかりだった。 が、三吉が、根塚の名前を聞いたことがあるという。

>三:それってのは、多分、駕籠(かご)屋の旦那ですよ。
>熊:お前ぇどうしてそんなこと知ってるんだ?
>八:また強請(ゆす)ろうとして下調べしてたんじゃねえのか?
>三:そんなんじゃないですって。
>源:それで? どういう人なのかは知ってるのか?
>三:おいらは直(じか)に会ったことはねえんですが、おいらの幼(おさな)馴染みの奴が言うには、懐(ふところ)の深いお人だそうです。
>八:どういう幼馴染みなんだ?
>三:へい。田舎(いなか)から一緒に出てきた奴なんです。初めは雲助みたいなことをしてたんですが、どうも評判が悪いもんで、根塚の旦那に雇(やと)って貰ったって言ってました。
>熊:雇って呉れたからって良い人とばかりは言えねえぞ。
>三:へい。お仕着(しき)せの着物を着させて呉れて、長屋に住んでも小遣(こづか)いが残るくらいの給金を呉れたらしいですぜ。今でも、そこで働いてますから、居心地は好いみたいです。
>源:ふむ。中々話の分かりそうなお人だな。
>三:でしょう? おいらはそう思いますよ。

>八:でもよ、そういうお人だからって、敷居を残したまんまにしといても良いよって言うかどうかは分からねえぜ。
>三:大丈夫ですって。だって、なんとかいう絵をみんなに見せてやろうっていうんでしょう? お優しいじゃありませんか。
>八:おいらだったら、見料(けんりょう)を取るな。
>三:そりゃあ八兄いが意地汚いからですよ。
>八:なんだと? お前ぇまでおいらを馬鹿にしやがるのか?
>三:そういうつもりじゃありませんが・・・
>源:まあ良いじゃねえか。ここでこうしてあれこれ言い合ってても始まらねえ。どうだ? どうせ暇なんだから、1日早いが、ご挨拶がてら行ってみようじゃねえか。
>熊:良いんですかい?
>源:固いこと言うな。ご当人がいなかったらご内儀様か誰かから話を聞けるだろう。
>熊:みんなで押し掛けるんで?
>源:この人数じゃ、いくらなんでも多かろう。・・・五六蔵と熊五郎は、藺平(いへい)の父つぁんのとこに行って、話を聞いてきてみちゃ呉れねえか?
>五六:へい。分かりやした。

>源:それから、友助もだ。お前ぇはまだ藺平父つぁんとは会ったことがねえだろう。
>友:は、はい。藺平さんとはまだです。・・・でも、根塚の旦那様とは話したことがあります。
>源:なんだと? お前ぇ、それをなんで黙ってたんだ?
>友:皆さんが考えているところを見るのが面白かったから、ということでしょうか?
>源:お前ぇも人が悪くなったな。
>友:そうでもありません。さっき八つぁんが言ったように、あれこれ考えることも悪くないかなと思いまして。
>源:それもそうだが、程があるってもんだぞ。
>友:そうでしたね。済みません
>源:それで? 旦那さんは畳の件をどうすると思う?
>友:銭金に糸目を付ける方ではありませんから、敷居は無くすようにと言うでしょう。
>源:それで、どうしろと言うんだ?
>友:皆さんで最良の方策を考え出せと仰るでしょう。そういう方です。
>源:そうか。・・・こりゃあ、面倒なことになっちまったな。
>八:あーあ。こういうときに頭の良いお夏ちゃんでもいて呉れたらな。
>熊:素人(しろうと)任せになんかするなってんだ。こちとら大工仕事でお飯(まんま)を食ってるんだぞ。
>源:そうだな。俺たちでなんとかしてやるしかなさそうだな。
>八:猪の骨の汁だけじゃ、良い考えなんか浮かびそうもありませんがね。
>熊:お前ぇは何を食ったって浮かびゃしねえだろっての。
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