251.【せ】 『折角(せっかく)』  (2004.09.27)
『折角』
1.高慢な者の鼻をへし折ること。慢心を打ち砕くこと。
2.力を尽くすべき大事なこと。気を付けなければならないこと。 用例:風姿花伝−七「三日の中に、殊にせっかくの日と覚しからん時」
3.困難に遭うこと。また、その困難。 用例:日葡辞書「ナンギ、セッカクニワウ」
4.一方(ひとかた)ならない苦労をすること。死力を尽くすこと。 類:●骨折り 用例:保元−上「大小の合戦数をしらず、中にもせっかくの合戦、二十余ヶ度なり」
5.頭巾の一方の角を曲げること。
故事@:漢書−朱雲伝」 昔中国で、朱雲が五鹿の人充宗と易を論じて勝ち、時の人が評して、「朱雲の強力、よく鹿の角を折った」と洒落(しゃれ)た。
故事A後漢書−郭太」 後漢の郭泰(林宗)が雨に遭って、その頭巾の一方の角が折れたのを見て、当時の人が真似て、頭巾の角を折った。
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八兵衛が有頂天になっていた頃、お咲の元へは、小豆(しょうど)久恵から遣(つか)いが来ていた。
遣いの男は愛想(あいそ)がなく、むっつりと黙ったまま、久恵の手で書かれた文(ふみ)を差し出した。

>咲:久恵さんがこれを? あたしに来いってことかしら?
>男:読めば分かりまさあ。・・・そんじゃ。
>咲:ちょっと待って。お駄賃(だちん)くらい・・・
>男:物乞(ものご)いじゃねえんだから、いらねえ。
>咲:そうもいかないわよ。・・・あんた、小豆様のとこの人?
>男:いや。あそこは下男を置いてねえ。おいらは近所のもんだ。先生に読み書きを教(おせ)えて貰ってる。
>咲:そうなの。それじゃあ、久恵先生に良くお礼を言っとくわね。有難う。
>男:お前ぇ、お武家か?
>咲:そうよ。なんで?
>男:そうは見えなかったからよ。済まなかったな。
>咲:こんな形(なり)だもの。謝(あやま)ることなんかないわ。それに・・・

遣いの者は、お咲の言葉が終わる前に駆け出してしまった。まったく変わった男である。
ああいう者たちにも読み書きを教えている久恵の、以前の印象との格差にも驚かされていた。

>六:小豆殿のお内儀(ないぎ)からとは、一体どういうことなのだ?
>咲:なんてことでもないのよ。あやさんの相談ごとの続き。あの10人の中に久恵小母(おば)さんの教え子がいないかと思って。
>六:町娘の縁談に手習いが必要なのか? 随分と世知辛い世の中になったものだな。
>席:違うのよ。一黒屋の数次さんが、風流な俳諧(はいかい)なんかに興味を持ってるみたいだからって、歌を習ってる人がいたら、数次さんにぴったりじゃないかと思ったの。
>六:ほう、呉服問屋の跡取りが風流とな。見上げたものであるな。
>咲:そうかしら? あたしだったら、そんな商(あきな)いの足(た)しにもならない道楽なんか止(や)めちゃえって言うけどな。
>六:お前には風流の良さなど分かるまいよ。
>咲:何よそれ。まるであたしが無粋者(ぶすいもの)みたいな物言いじゃない。
>六:まあ、風流などというものは、信心(しんじん)と一緒で、
命が短くなってこないと有り難味が分からぬものであるからな。
>咲:そう言う父上はなあに? もう命が短くなっちゃったって訳?
>六:これ。そうはっきりと言い難(にく)いことを言うものじゃない。
>咲:はーい。・・・でも、一黒屋のご隠居様なんか、全然興味なさそうだったけど。
>六:あれだけ筋金入りの商人には必要ないのであろう。それに、食い道楽という立派な道楽もお持ちだからな。
>咲:ふうん。食べるものに信心しちゃってる訳ね。八つんぁんみたい。
>六:まあ、寸尺(すんしゃく)を縮めればそうもなるかな。随分と縮めないといけないがな。
>咲:そうね。八つぁんったら、せせこましいものね。

久恵からの文には、こんなことが書かれていた。
教え子の家の隣に住んでいる娘の名前があった。その娘は昔から筆でものを書くのを好んでいたという。
父親が提灯職(ちょうちんしょく)ということもあり、見様見真似で覚え、時折り俳句や植物などを描き込んだ提灯を仕上げるという。
気質はいたって淑(しと)やか。場合によっては商いの切り盛りには向かぬ感もあるが、提灯職の娘であるから、取り越し苦労かも知れない。実際に会わせてみてはどうだろう。

>咲:おっ。これは良い話かも知れない。
>六:会いに行くのは良いが、お前の判断で先走るなよ。
>咲:分かってますって。あやさんに着いてって貰うから大丈夫。
>六:いっそのこと、あやさんだけで行って貰った方が間違いがなさそうだが。
>咲:駄目(だめ)よ。そんな面白そうなところを見逃しちゃったら、杉田咲、一生の不覚(ふかく)よ。
>六:まったく、お前という奴は・・・

あやのところを訪ねたが、お花のところに出掛けた後だった。

>咲:お花ちゃんのところ、ですか?
>雅:ああ、そうだよ。何をどうとち狂ったんだか、八兵衛と一緒になっても良いんだってよ。世も末だね。
>咲:「蓼食う虫も好き好き」とか言いますから。
>雅:分かったようなことを言うじゃないか。
>咲:大女将(おおおかみ)さんは嬉しくないの?
>雅:嬉しい? どうだかね。確かに肩の荷は下りるだろうよ。でもね、あたしの楽しみが半分になっちまうのさ。
>咲:どういうこと?
>雅:聞けば、結構しっかり者だっていうじゃないか。気に入らないねえ。
>咲:しっかり者だといけないの?
>雅:あたしの、鍛(きた)え甲斐(がい)がないのさ。・・・だってそうだろう? あんまり立派な女房に仕立て上げちまうと、八の奴が辛(つら)くなっちまう。
>咲:それはそれで良いんじゃないの?
>雅:良いもんか。やがて親方になって弟子を持とうって奴が、女房に引け目を感じてちゃ話にならない
>咲:でも、八つぁんってそんな質(たち)じゃないでしょう?
>雅:そうなら良いんだがね。ここんところの八を見てると、それも疑っちまいたくなる。弟弟子(おとうとでし)ができてからこっち、何かと鼻に掛けるようになってきちまった。
>咲:それっていけないこと?
>雅:天狗(てんぐ)の鼻は、ぽっきりと折れ易いものなのさ。萎(しぼ)んだみたいにしゅんとしちまうだろうよ。
>咲:大丈夫よ。八つぁんを信じてあげて。そして、お花さんを信じて。

>雅:まあ良いわ。様子を見ながらいびるとしましょうかね。・・・その分、あんたには期待してるのさ。
>咲:何を?
>雅:鍛え甲斐がありそうだってさ。覚悟しておいで。
>咲:だって、あたし、何も言ってないじゃない。
>雅:遅かれ早かれだって、あやが言ってたよ。
>咲:そんなこと勝手に決めないでよね。こっちにはこっちの考えってもんがあるんですからね。
>雅:そんなもんあったら、疾(と)っくの昔に言ってるだろ?

お雅のあっはっはという笑いに見送られながら、お咲はお花の家の方に向かって歩き始めた。
巧くすれば途中であやと出くわすだろう。
反面、あやと顔を合わせたくないという思いもあった。
お雅にああも易々と言い切られてしまうと、こっちの頭の中が混乱してしまう。本当にそれが一番良いことなのだろうか?

辻を曲がったところで、慶二が「ぶうぶう」と喜ぶ声が聞こえてきた。どうやら見付かってしまったらしい。

>あや:あら、お咲ちゃん。お花ちゃんのところなら、もう済んだわよ。
>咲:あ、ああ。そうなの・・・
>あや:良いところを見逃しちゃったわね。
>咲:それじゃあ。巧く行っちゃったんだ。
>あや:久兵衛さんも、認めて呉れたわ。ちょっと渋ったけどね。
>咲:渋ったの?
>あや:お十三(とみ)ちゃんの祝言(しゅうげん)のときみたいに、腹踊りの祝儀(しゅうぎ)を気前良くばら撒(ま)いてしまうんじゃないかってね。きっと、自分の失敗と同じことになるんじゃないかって心配したのね。
>咲:なんだ。そういうことなら大丈夫よね。あやさんとお花さんで、ぎゅうっと引き締めていれば良いんだもの。
>あや:そういうこと。

>咲:でも、あの八つぁんがねえ・・・
>あや:なんだか、随分長く掛かっちゃったって気がするわ。親方にしては、手間取っちゃった方ね。
>咲:「終わり良ければ全て良し」よ。
>あや:なんだか、喋(しゃべ)ることが熊五郎さんに似てきたわよ。
>咲:止めてよ。さっきも大女将さんに揶揄(からか)われてきたところなんだから。
>あや:まあ、そうなの? お義母(かあ)さんに掛かったら、お咲ちゃんも形無しね。
>咲:あんな人と1つ屋根の下で暮らすのって大変ね。
>あや:あら、そうでもないのよ。厄介(やっかい)なのは、お互いに相手を気遣(きづか)って我慢しちゃうことなんじゃないかしら?
>咲:ふうん。そういうもんなのかな?

二人は道端に寄って、久恵がお咲に寄越(よこ)した文を読んだ。

>咲:父上がね、あたし独(ひと)りじゃ荷が重いだろうって。
>あや:そんなこともないでしょう。けど、面白そうだからわたしも会いに行ってみるわ。
>咲:面白そうだから?
>あや:あら、いけない? わたしだって結構好い加減なのよ。
>咲:そりゃ、長い付き合いだから分かってるけど。・・・でも、改めて考えてみると、親方も大変よね。こういう人たちに囲まれちゃってるんだものね。
>あや:そうかも知れないわね。でも、案外楽しそうよ。そろそろ熊五郎さんと八兵衛さんを一本立ちさせようかな、なんてにやにやしながら話してるわ。
>咲:へえ、それは初耳。いつ?
>あや:それは、お咲ちゃんが鍵(かぎ)かな?
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