175.【け】 『蛍雪(けいせつ)』 (2003/04/07)
『蛍雪』
苦労して勉強すること。苦心して学問をすること。
類:●苦学●蛍の光窓の雪股を刺して書を読む
故事@:晋書−車胤伝」「夏月則練嚢盛数十蛍火、以照書、以夜継日」 晋の車胤(しゃいん)は、貧しいために灯火用の油が買えないで、蛍を集めてその光で書を読んだ。
故事A:蒙求−中・孫康映雪」「康家貧無油、常映雪読書」 晋の孫康(そんこう)は雪の明りで書を読んだ。
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六之進はごそごそと、行李(こうり)の底から一張羅を引っ張り出した。
髪はぼさぼさだが、格好だけは、かなり立派になりそうだ。

>六:しかしな、あまり気乗りはせんな。
>熊:人助けだと思って我慢しと呉れよ、六さん。それに、どうせお咲坊が喋(しゃべ)り捲(まく)るだろうから、口を挟む暇もねえってよ。
>咲:何よ、それ。雲雀(ひばり)かなんかみたいな言われようね。あたしそんなにお喋りじゃないわ。
>八:そうだよな、雲雀じゃねえよな。季節柄、鶯(うぐいす)くらいにしてやらねえとな。
>咲:そう言う問題じゃないでしょう。
>六:それで? その磯次郎とかいう若者に何をどう説(と)けば良いのだ?
>熊:小さい寺子屋なんかで不貞腐(ふてくさ)れてねえで、もっと高い志(こころざし)を持てって言ってやって欲しいんだ。・・・それから、もし、医学に興味があるんだったら、本気になって勉強しろってな。
>咲:医学? そんなもんに興味があるの?
>熊:「そんなもん」って言うことねえじゃねえか。お夏坊の話っ振りだと、あながち冗談じゃねえみてえなんだ。
>咲:ふうん。それでお夏ちゃんにしては珍しく、熱くなっちゃったのね?
>熊:さあ、どうだかな。
>咲:分かったわ。このあたしに任しといて。ぐうの音も出ないくらいこてんぱんにしてやるんだから。
>熊:おいおい、やり過ぎて卑屈になっちまったっていうんじゃ困るぜ。
>咲:そのくらいの方が、却(かえ)って良いかもよ。
>熊:良い訳ねえだろ。ほどほどにやって呉れよな。
>咲:でも、熊さんたちも一緒に来るんでしょ?
>熊:大工風情(ふぜい)は、後ろに下がって、神妙(しんみょう)にしてた方が良いだろう。
>咲:そうなの? あんまり関係ないと思うけど。

早速(さっそく)翌日の夕刻に、磯次郎を訪(たず)ねる手筈(てはず)となった。
母親の久恵からは「いつでも結構」という返事を貰ってきてあった。

>八:おいらも何か喋りてえな。
>熊:駄目だってんだ。お前ぇが喋ると、巧くいってる話が打(ぶ)ち壊しになっちまう。
>八:そうか? だってよ、武家ってったって、17の餓鬼だろ? 年上に対する敬意ってもんを叩き込んでやるのも良いことだと思うぞ。
>熊:お前ぇはなんでも自分に都合良いように解釈しやがるからな。17、8くらいが一番微妙な年頃なの。
>八:女だけじゃなく、男もか?
>熊:ああ。男もだ。
>八:その年の頃なんか、おいら、全然微妙じゃなかった気がするけどな。
>熊:お前ぇは特別なの。
>八:そりゃあ凄(すげ)え。おいらは特別な人間だったんだな。・・・明日、五六蔵たちに自慢してやらねえとな。
>熊:止(よ)せったら。笑われるのが落ちだっての。

翌日の夕刻、大石の家の居間には、六之進とお咲が、内裏(だいり)と女雛(めびな)宜しく、並んで座っていた。
やがて帰ってきた磯次郎が久恵に呼ばれ、苦虫を噛み潰したような顔で居間に入ってきた。

>磯:なんだい? 忙しいんだけどな。
>久:何が忙しい道理がある? 木刀を握るでもなし、机に向かうでもなし、唯(ただ)ぼうっと空を眺めているだけであろう。
>磯:そんなことねえよ。・・・おっと、誰だい? このおっさんたちは?
>久:無礼なことを言うでない。家島殿縁(ゆかり)の方々じゃ。
>磯:へえ、こっちの弱みに付け込んで、父親を宛がおうって話のかね。人数が多けりゃ良いってもんじゃねえだろうに。
>六:杉田六之進と申す。これに控え居(お)るは、娘の咲と申す。
>咲:咲です。・・・お話を伺っておりますと、磯次郎さんにおかれましては、養子の話は意に添わぬご様子。この話、なかったことにするのが良策かと存じますが、いかが?
>久:お、お待ちください。それでは困ります。
>磯:良いじゃねえかよ。普請奉行所の平役人の家に行ったって、どうせ碌な役になんか就(つ)けるもんじゃねえし。
>咲:小豆様のことをご存知なのですか?
>磯:番町の辺りで一度見掛けたことがある。むさ苦しい、よれよれのおっさんだ。

>咲:へえ、そう。態々(わざわざ)探しに行ったの。ちょっとは、見込みがあるじゃないの。もっと閉じ篭もってるだけの軟弱野郎かと思ってた。
>六:これ、咲、もっと穏やかにしていなさい。
>咲:良いのよ。向こうがそうなんだから、合わせてあげるの。・・・それで? あなた小豆様の何を見てきたって言うの?
>磯:なんだよ、あんまり馴れ馴れしくするなよな。
>咲:こっちは質問してるのよ。先にお答えなさい。小豆様の何を見て、そんな投げ遣りになっちゃってるの?
>磯:何をって、あの年になっても、大した碌を貰えず、下男の1人も置いていねえってことをだよ。
>咲:確かに去年の初めまでは、少ない碌をみんなお酒に替えちゃうっていうような生活をしてたわ。でもね、今じゃ、すっかり暮らしを改めたのよ。二日酔いの赤ら顔じゃなかったでしょ? お髭だって髪だって、こざっぱりとしてたでしょ?
>磯:格好がどうだって言うんだよ。要は、出世もできずに、ちまちました暮らしをしているってことだ。
>咲:ちまちまのどこが悪いの。できる限りの生活をしてればそれで良いじゃないの。雑草が伸び放題になってた? 屋根や戸板に穴でも開いてた?
>磯:そんなとこまで覗いてくるかってんだ、盗人(ぬすっと)じゃあるまいし。
>咲:そうでしょうとも。人を見掛けだけで判断しちゃうような、薄っぺらい餓鬼じゃあ、お母上様も相当手を焼いてしまっているでしょうよ。
>磯:ぶ、無礼な。それ以上俺を侮辱すると、ここから叩き出すぞ。
>咲:どうせ、女と年寄りにしかそういう口を利けないんでしょう?
>磯:先ほどから聞いておれば、軽薄者だ、卑怯者だと、随分と好き放題言って呉れるじゃないか。碌な学問も身に着けていないお前などから、咎(とが)められる筋合いはないわ。
>咲:あんたみたいに、ふんだんに書物を用意して貰って、学問所まで行かせて貰って、安穏と暮らしてる人は偉いの? 少しくらい暗記力が良いからって偉そうなことを言わないで。世の中にはね、碌に油も買えないで、上等じゃない写本を擦り切れるまで読んで、それでも医者になりたいっていう子もいるの。それなのにあんたは何? 母上からそんな立派なお頭(つむ)を貰っておきながら、何でお返ししようって言うの? どういうお返しをしようって言うの?

磯次郎は、お咲の勢いに気圧(けお)されてしまった。
そればかりではない。お夏のことを指して言っているのだと、気が付いてしまった。
そして、お夏と比較されて、自分が酷(ひど)くいじけた行動を取っていることに、思い当たってしまったのだ。

>磯:・・・そんなこと、今更、医学の道へなんか、間に合う訳ないじゃないか。
>咲:そんなの・・・。やりもしないのに、結果が分かってますっていう顔をしたってちっとも正しくない。何かをやり始めなさいよ。できることをあれこれやってみなさいよ。
>磯:しかし・・・。しかし、これ以上母上に苦労は掛けられない。何年掛かるか分からないんだぞ。
>久:磯次郎・・・
>咲:お母上が、今、何に一番気を揉(も)んでいるのか分からないの? あんたのそういうところよ。あれも投げ遣り、こっちはお座形(ざなり)、母上に頼みごとの1つもできない。そんなところが一番心配なんじゃない。あたしの言うことに、少しでも間違ってるところがあって?
>磯:・・・
>久:磯次郎。
>咲:母上に頼んでみなさいよ。何を学びたいの? 何をしたいの? 何になりたいの?
>久:磯次郎、言って頂戴。
>磯:母上、俺、「分教場」を辞めて、小石川の薬草畑で働きたいんだ。働きながら、薬の調合なんかを覚えたいんだ。蘭学も勉強して、南蛮の薬術を訳して、国中に広めたいんだ。ことによると、長崎に行かないと手に入らない書物もあるかもしれない。・・・いや、出島というところに行けるものなら行ってきたいんだ。
>久:磯次郎、お前・・・

>咲:言えたじゃない。どう? すっきりしたでしょう? 新しい父上にも言えるわよね、役人にはならないって。
>磯:でも、後継ぎにならないんだったら、養子になんかして呉れやしないだろ。
>咲:そんなの分からないじゃない。世の中、100人のうち99人がそうでも、そうじゃないのが1人くらいいるから面白いのよ。・・・それに、ご破算になっても良いじゃない。いじけてる暇なんかないって、もう分かったんでしょ?
>磯:ああ。そうだな。
>咲:それに、実を言うとね、小豆様って、後ろに並んでるあの人たちに、ちょっとした借りがあるのよね。
>磯:町人に借りだと? 借財のことか?
>咲:真逆(まさか)。後で聞くと良いわ。養子になってからね。
>磯:なんだか、面白そうだな。・・・それはそうと、あんた、栗林夏のなんなんだい?
>咲:そういうあんたこそ、お夏ちゃんのなんなの?

>六:奥様、娘はどうにも口が悪くていけません。言い過ぎがありましたらお詫びいたします。
>久:とんでもないです。夫を亡くして以来、初めて磯次郎の本音を聞けた気がいたします。それもこれも、皆、杉田様と咲さんのお陰です。ほんとに、なんと言ってお礼を申したら良いものやら。
>六:礼など必要ありませんよ。あたしらは、あすこにいる熊さんや八つぁんからの頼まれごとを、どうにかこうにか熟(こな)せたことで満足なんです。
>久:町衆の方に借りを作るというのも、悪いことでもないかも知れませんわね。
>六:いやあ、お恥ずかしい話ですが、傘貼りなぞして食い繋いでいる情けない身とはいえ、反面、肩に力の入らない楽しい生活をしていますよ。
>久:浪人生活をなさっているのですか?
>六:それはもう極貧です。・・・ですが、娘の言う通り、ぎりぎりなりに一所懸命生きてますから、悔いはありません。大工のみんなも、こんなあたしらに、気を配って呉れますしね。
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