第14章「食通与志兵衛の養子話(仮題)」

125.【か】 『鴨(かも)が葱(ねぎ)を背負(しょ)って来る』 
(2002/04/22)
『鴨が葱を背負って来る』
鴨が葱まで背負ってわざわざやって来たのですぐに鴨鍋が食べられるという意味で、相手の行動があまりにもこちらの思惑通りで、こんな好都合はないという状況。
類:●思う壺
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正月のどたばたが嘘のように、何事もない日々が続いていた。
相馬屋の親っさんは、あれ以来、耳が遠いことを自認し、話し合いには書面や半紙を介するようになっていた。
何しろ、寺社奉行所の与力(家島網綱)が直々(じきじき)に頭を下げにきたのである。
滅多にあることではない貴重(きちょう)な機会を、殆(ほとん)ど何も聞き取れずに遣り過ごしてしまったのだ。

>熊:なあ八よ。若年寄の話、あれっきりとんと聞かなくなっちまったな?
>八:あんまり悔しくって、頓死(とんし)したんじゃねえのか?
>熊:何を寝ぼけたこと言ってやがる。それくらいでくたばるようじゃ政(まつりごと)なんかできやしねえよ。
>八:それもそうだな。・・・なあ熊よ。それはそうと、元締めの親っさん、近頃やけに腰が低いんじゃねえか?
>熊:お前ぇも気が付いたか? 確か一昨日(おととい)からだよな?
>八:家島様のときはかっちんこちんに固まってたけど、あんときとは別みてえだな。
>熊:親方なら何か聞いてるかな? 一段落着いたら聞きにいってみねえか?
>八:止(よ)せよ。そうでなくたって忙しいってのによ。また変梃(へんてこ)なことに巻き込まれでもしたらどうするんだよ。
>熊:おや、珍しい。いつもならお前ぇの方が「何か起きねえかなあ」って言い出すのによ。
>八:それはそれ、これはこれだよ。

>熊:けどよ、お前ぇが言うほど忙しいとは、おいらにゃあ思えねえんだがな。
>八:お前ぇ知らねえのか? 今朝なんかな、あの棟梁が大慌てだったんだぞ。
>熊:お前ぇ、また盗み聞きしたのか?
>八:そんな人聞きの悪い言い方するなよ。聞こえちまったんだよ、厠(かわや)へ行くとき。
>熊:また厠かよ。まったく、よくよく厠に縁があるみてえだな。
>八:放(ほ)っとけ。
>熊:それで? 棟梁はどんなことで慌ててたんだ?
>八:それがよ、どこぞの大店(おおだな)から、大掛かりな建て増しの話がきてるんだとよ。
>熊:結構なことじゃねえか。どんどんやってやろうじゃねえか。
>八:それがな、あの棟梁でさえそんな話聞いたこともねえっていうことらしいんだ。
>熊:なんだ? 前代未聞の大仕事ってことか?
>八:違うんだ。
>熊:じゃあなんだってんだよ。じれってえな。早く吐きやがれ。

八兵衛が聞いた話というのは、こういうものだった。
どこぞの呉服屋が、相馬屋の親っさんを通して、棟梁を名指(なざ)ししてきたというのである。
仕事の内容というのが、「野菜の小売りをする」ための増築だという。

>熊:なんだと? 呉服屋が青物(あおもの)だあ?
>八:それがよ、商売替えじゃなくって、両方一緒にやりてえってことなんだ。
>熊:その建て増しをうちでやるってことなのか?
>八:そうよ。「源五郎に任せた」って言ってたぜ。
>熊:ってことは、おいらたちだけで、それをやれってことか?
>八:そういうこと。梅雨(つゆ)の前の五月(さつき)晴れ時期はよ、書き入れ時だろ? みんな大変みてえなんだ。
>熊:そんなこと言ったって、厄介仕事をみんな押し付けられちゃあ、困るよな。
>八:しょうがねえだろ。弟子を一番多く抱えてるのがうちの親方なんだからよ。
>熊:五六蔵に、三吉四郎か? あいつら、3人纏(まと)めてどうにか一人前ってとこじゃねえか。
>八:だろ? だからこれから忙しくなるんだよ。

>熊:それじゃあ、棟梁はそれで相馬の親っさんと連れ立って出掛けたのか?
>八:そういうこと。
>熊:じゃあよ、親っさんがあんな態度を取ってるってことは、よっぽどの大店だってことなんじゃねえのか?
>八:おいらにそこまで聞くなよ。着物だ帯だなんて、おいらにゃ縁のねえもんだもんな。
>熊:そりゃあ、おいらだっておんなじだけどよ。名前くらい聞かなかったのかよ。
>八:えーと、「糸屑(いとくず)屋」なんてのあるか?
>熊:お前ぇに聞こうとしたおいらが馬鹿だった。もう良いから、さっさと片付けちまおう。忙しくなるんだからよ。
>八:あ、思い出した。「一黒屋」ってのなら、あったよな?
>熊:なんだと? お前ぇ「一黒屋」ってったら、大店も大店、飛ぶ鳥も落とすってくらいの大店だぞ。
>八:確か、引き札のとき名前が出てたっけな。・・・けどよ、着物でどうやって鳥を捕まえるんだ?
>熊:そうじゃねえって。そのくらい勢いがあるってことだよ。
>八:ふうん。・・・てことは、相馬の親っさんはそれでびびってやがったのか。ふん、なんて
肝の小さい爺(じじ)いだ。
>熊:お前ぇ、碌(ろく)に知らねえからそんなことを言ってられるんだよ。お咲坊とかお夏坊が聞いたら引っ繰り返るぞ。
>八:大袈裟(おおげさ)だな。お咲坊なら分かるが、お夏ちゃんはそんな端(はし)たない格好なんかするもんか。

さあ大変である。
「一黒屋」は、今では押しも押されもせぬ大店である。下手(へた)な仕事はできない。
そして、更に難問なのは、呉服に野菜という取り合わせである。

>八:おいら思うんだけどよ。魚じゃなくて良かったよな。着物に臭(にお)いが移って物凄いことになっちまうもんな。
>熊:当たり前ぇだ。頭が変になったんじゃねえかって、客の方が逃げちまう。
>八:でもよ、韮(にら)とか大蒜(にんにく)は臭うぞ。どうするんだ?
>熊:遠いとこに置くしかねえな。
>八:風下(かざしも)になったら?
>熊:仕切り板だけじゃなくって、部屋みたいにしちまうしかねえのかな?
>八:青物を部屋の中で売るのか? 泥とかで、とんでもねえことになっちまうんじゃねえのか?
>熊:そうだよなあ。・・・うーん、困ったな。
>八:ここは一つ、玄人(くろうと)に聞いてみるとするか?
>熊:玄人って、もしかして・・・
>八:決まってんじゃねえか、与太郎よ。
>熊:なんだか、頼りねえ玄人だな。

熊五郎たちは、予(あらかじ)め決めてあった今日の区切りまでを済ませてから、源五郎に尋ねてみた。

>源:ああ、そのことか。詳しいことは親父(おやじ)が帰ってきてからじゃねえとなんとも言えねえが、難しい話であることは間違いねえな。
>熊:それじゃあ、八が盗み聞きしたのって、事実なんでやすね?
>八:だから、違うっての。厠に・・・
>源:怒りやしねえよ。あんな大声で喚(わめ)いてりゃ誰の耳にだって入るってもんだ。
>八:相馬の親っさんだけは聞こえなかったかも知れませんがねえ。
>熊:こら、止せ。
>源:八兵衛、人の身体の悪いとこを揄(からか)ったりするもんじゃねえぞ。
>八:「口は禍(わざわい)の門」でやすよね。母ちゃんからしょっちゅう言われてやすから。もう、耳に胼胝(たこ)でやす。
>源:分かってるんなら良い。諄(くど)くは言わねえ。・・・しかし、なんで青物なんだろうな? 大人しく着物だけを商(あきな)ってりゃ良いじゃねえか、なあ?

>熊:もしかしたらって思うんでやすが・・・
>源:なんだ? 言ってみろ。
>熊:着物ってもんは、毎日買うもんじゃねえですよね。
>源:そりゃあそうだ。汚れたら洗うし、破れれば継ぎを当てる。自慢じゃねえがこの半纏(はんてん)だってもう3年は着てる。
>熊:そうですよね。一方、青物はどうです? 毎日じゃないにしろ、3日と空(あ)けずに買うでしょう? そこが狙いですよ。
>八:どう狙うんだ? おいらにゃさっぱり分からねえな。
>源:つまりこういうことか? 元々「一黒屋」は、安いものをたくさん売るってことで繁盛してきた。高級呉服とは違って、夕飯のおかずを買うくらいの気持ちで買えるってことだよな? ということは、店に来てさえ呉れれば、少なくとも1品くらいは買っていく。そういうことか?
>熊:そんなとこなんじゃねえかと。
>源:ふむ。有り得ない話じゃねえな。もし本当にそういう目論見(もくろみ)があるってんなら、相当の
切れ者か、然もなきゃ単なる山師(やまし)か、だな。

>八:どういうことでやすか?
>源:青物は、釣りの餌(えさ)ってことよ。
>八:魚の?
>源:例えれば、お客たちってのは、口をぱくぱくやりながら寄ってくる池の鯉(こい)ってとこだな。餌に騙(だま)されて寄ってきたけど、気が付いてみると、買わされたのは青物じゃなくって着物だったってことだ。
>熊:賑(にぎ)わってりゃ、覗いてみようかなってのが江戸の庶民の人情ですもんね。
>源:正(まさ)に、「鴨が葱を背負って来る」だな。
>八:そりゃあ違いますぜ、親方。背負って来るんじゃなくって、鴨が葱を買いに来て、背負って帰るんでしょ?
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