第37章「お惚け太助の飯の為なら(仮題)」

309.【つ】 『土(つち)一升(いっしょう)に金(かね)一升』
(2005.11.07)

『土一升に金一升』
地価(=土地の値段)が、非常に高いことの喩え。
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熊五郎とお咲の祝言(しゅうげん)も滞(とどこお)りなく済み、既(すで)に数日が過ぎた。
朝晩など、手を擦(こす)り合わせたくなるほど冷え込み始めている。
祝言の日の熊五郎は、疲れたところに慣れない紋付(もんつき)などを着て気疲れしたのであろう、早々に酔い潰(つぶ)れてしまった。
いつも背負われる役ばかりだった六之進が、八兵衛と代わり番こで背負って帰った。
翌日こそ、面目(めんぼく)なさそうにしていた熊五郎だったが、それも程なく落ち着いてきた。

>熊:そんじゃ行ってくらぁ。
>咲:あいよ。万ちゃん千ちゃんに、ちゃんとお結(むす)び届けてね。
>熊:ああ。序(つい)でに、八の野郎も叩き起こしてくるよ。・・・六さんはどうした?
>咲:父上は散歩だって。傘貼りばっかりしれたから身体が鈍(なま)っちゃってるんですって。
>熊:まあ、いつまでも元気でいて貰わねえと困るからな。結構なこった。
>咲:・・・なんだか、熊さんのお仕事の手伝いができるのを楽しみにしてるみたいなの。
>熊:手伝いってったって木っ端(こっぱ)拾いや箒(ほうき)掃きだぞ。
>咲:それでも良いみたい。
>熊:そうか。そんじゃま、万吉と千吉を一日も早く一丁前にしてやらねえとな。
>咲:お願いね。

まだ源五郎に使って貰っている身とはいえ、弟子を持つことによってこれほど生活に張りが出るものかと、熊五郎は驚いていた。
八兵衛にも、早くこういう境遇になって貰いたいものだとも考えている。
源五郎はどう考えているのだろうかと、近いうちに聞いてみようと決心していた。

>熊:よう、万吉千吉、朝飯を持ってきたぞ。
>千:お早う御座います、親方。お花さんから、お汁をいただけるそうなんです。
>熊:あれ? お花ちゃん、味噌の臭(にお)いが駄目だって言ってなかったか?
>千:もう大丈夫だって言ってました。糠(ぬか)味噌も平気だそうです。
>熊:そうか、そりゃ良かったな。
>八:やい、熊。手前ぇ、もうちっと早く来られねえのか?
>熊:なんだ、もう起きてやがったか。
>八:「起きてやがったか」じゃねえよ。手前ぇんとこの「迷惑千万(めいわくせんばん)」が、一緒んなって飯を食うからって、おいらまで待たされちまってるんだぞ。どうして呉れるんだ。
>熊:どうしたもこうしたも、お前ぇだけ先に食っちまえば良いじゃねえか。何もこいつらを待つこともねえ。
>八:それがよ、「人が食べてるのを見たらまた食べたくなるでしょう?」なんてこと言いやがるのさ。いくらおいらが大食いだってったって、朝飯を2回も食うか?
>熊:食うんだろう?
>八:食うっていっても、こいつらの握り飯を分捕(ぶんど)って食うくれえのもんさ。
>熊:そっちの方が悪いじゃねえか。
>八:良いってことよ。こいつらなんか、ついこの前まで、朝飯も食えねえような暮らしをしてやがったんだからよ。
>熊:そういう話じゃねえだろう。そういうさもしいとこを見たくねえから言ってるんじゃねえのか?
>八:誰に?
>熊:こいつらにだよ。
>八:そんなの恥ずかしいもんか。
>熊:お花ちゃんが恥ずかしいの。
>八:そういうもんかね。おいらには分からねえな。

>熊:それより、お花ちゃん、糠漬(ぬかづ)けが大丈夫になったそうじゃねえか。良かったな。
>八:妙なもんだよな。お前ぇんとこで飯を食えなくなったその日に、ぴたっと治(なお)っちまったんだとよ。
>熊:我慢して呉れてるんじゃねえのか?
>八:どうかな? 聞いた訳じゃねえからな。・・・でも、当人が大丈夫だってんだから、それで良いんじゃねえの?
>熊:まあ、人様の家(うち)のことまで、兎や角(とやかく)言うつもりはねえよ。
>八:そりゃそうだ。・・・よう、「不届き千万」、腹が減っちまったから、早く来い。熊にも、茶くらいは出してやるぞ。
>熊:おいらはどうでも良いんだが、こいつらのことそういう変な呼び方するのは止(よ)せよな。
>八:仕様がねえだろう? 2人分も呼ぶとなると余計に腹が減るんだからよ。
>熊:そんなもんで減るかってんだ。

少々寒くはあるが、それを抜きにすればごく普通の朝である。・・・妙な人と出くわさなければ、であったが。
さて出掛けようかと歩き始めたとき、まるで待ち構えてでもいたかのように、横合いから現れた人がある。
幕府から目を掛けられていた筈の、「文士崩(くず)れ」の坂田太市(たいち)である。
それなりに整(ととの)った格好をしているところを見ると、見捨てられたという訳でもなさそうである。

>坂:おお、八つぁんに熊さん、こんなところで会うとは奇遇(きぐう)ですなあ。
>熊:奇遇もなにも、長屋のまん前じゃねえですか。
>八:太市の旦那じゃねえですか。どうしたんです、こんなとこで?
>坂:あの、昨晩「だるま」に行ったのですが、お咲さんはもう来ないと言われました。どうしたのかと思いまして。
>八:お咲坊に用があるんでやすかい?
>坂:いえ、できることでしたら、お夏さんの方が有り難いのですが、今、長崎に行っておられるのでしょう?
>八:良く知ってますねえ。流石(さすが)に偉くなると色々と耳にするもんなんですねえ。
>坂:そういうことではありませんよ。皆さんも含めて、お世話になった方たちですから。
>八:そうかい? おいらが?
>熊:「おいらたち」だろ? ・・・太市の旦那、お咲坊は、もうこの長屋にはいねえんです。
>坂:居ない? 出て行かれたのですか?
>八:5・6日前にね。こいつの女房になっちまいましたよ。
>坂:へえ、そうですか。それはそれは、知らぬこととはいえ、お祝いも申しませんで。
>熊:知らねえのに挨拶(あいさつ)もできねえでしょう? こっちだって、報(しら)せを出した訳じゃねえんですから。
>坂:はは。そうでしたね。これは一本取られました。

>八:それで? なんか面白そうなことでも持ち上がりやしたか?
>熊:こら。また厄介(やっかい)ごとを背負(しょ)い込むつもりか?
>八:良いじゃねえか。どうせ暇なんだし。
>熊:暇なんかじゃあるもんか。こないだの揺(ゆ)れで、瓦(かわら)が落ちたって家も結構あったっていうぜ。
>坂:それなのです。
>八:へ? 何が「それ」なんですかい?

>坂:屋根が壊(こわ)れたとか、柱が折れたとかした家があるではないですか。それを、「これこれこういう金銭で買い取りますから、どうかあちらへ引っ越していただけませんか」などという商(あきな)いが出てきているようなのです。
>八:へえ。そんで、新しい家は用意してあるんですかい?
>坂:はい。立派な大工を付けて、建てているところだというのです。
>八:へえ。それのどこが、どうだってんですかい? 別に悪い話じゃねえじゃありませんか。
>熊:どっからどこへ越せってんですか?
>坂:日本橋から下谷町(したやまち)の方へです。
>熊:そりゃ、立ち退(の)けってことなんじゃねえですか?
>坂:そうです。贔屓(ひいき)のお客さんを抱(かか)えている問屋(とんや)などでは、生きるか死ぬかという大変な話です。
>八:そんなんじゃ、誰も引き受けねえでしょう?
>坂:それがですね、どこの馬の骨とも知れぬ輩(やから)か軒先に屯(たむろ)して、動こうとしないというので、既(すで)に何軒かは飲んでしまっているのです。
>熊:そりゃあ、強請(ゆす)りじゃねえですか。
>坂:ですが、お上(かみ)としては、金銭の受け渡しが為されている以上、ちゃんとした取り引きだと認めざるを得ないのです。
>熊:酷(ひで)えことしやがるな。一体、どこのどいつがそんなことを仕掛けてやがるんだ?
>坂:今のところ、確かなところまでは掴(つか)めていないのです。
>八:そこで、おいらたちに調べて欲しいってことなんでやしょう?
>坂:い、いえ。私の口から、そこまではお願いできません。
>熊:言ってるも同然だと思うんだがね・・・
>八:よし。引き受けやしょう。
>坂:本当ですか?
>八:男に二言はありませんぜ、太市の旦那。
>熊:それを言うんだったら、「武士に二言はねえ」だ。
>八:細かいことを言うなっての。どっちにしろ、引き受けちまうんだからよ。
>坂:それは助かります。・・・では、詳(くわ)しいことは、今夜あたり「だるま」でお話しするということでどうです?
>八:・・・ってことは、飲み代(しろ)は旦那持ちってことで?
>坂:そうですとも。・・・あ、そうそう、宜(よろ)しければ、お咲さんもお連れくださいまし。お祝いも言っておきませんとね。じゃ、お待ちしていますからね。

坂田は、そそくさと行ってしまった。

>八:しかしよ、なんで日本橋の土地なんか買い漁(あさ)るんだろうな?
>熊:そりゃ、別の誰かに法外(ほうがい)な値(ね)で売り付けるためだろう?
>八:そんじゃ、10文(=約200円)で買った奴が30文くらいになっちまうってことか?
>熊:安いねえ、お前ぇは。・・・もっとだろうよ、きっと。
>八:するってえと、ぼろ儲(もう)けってことか? こりゃ凄(すげ)え。おいらも真似(まね)してえもんだな。
>熊:元手(もとで)がねえだろう。
>八:自慢じゃねえが、空っ穴(からっけつ)よ。
>熊:胸を張って言うことか。
>万:・・・あの、今の方はどういった人なのですか?
>八:ん? ああ、文士みてえなことをやってた人で、将軍様のお抱(かか)えだ。首んなってなけりゃな。酒が入ると直(す)ぐ赤くなっちまうんだ。見ものだぜ。
>万:ええっ? そんなに偉い人とお知り合いなんですか?
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