255.【せ】 『前車(ぜんしゃ)の轍(てつ)』 (2004.10.25)
『前車の轍』
前車の覆轍は後車の戒め」から出た言葉。
前を行った車の轍(わだち)の跡。転じて、前の人の失敗。また、後の人の戒めとなるような言動。
*主に、「前車の轍を踏む」として、前の人と同じ失敗をすることを表わす。
類:●前轍を踏む二の舞を演ずる
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お花が銚子3本と御田(おでん)を持ってきた。
八兵衛は恥ずかしそうに下を向いたままだったが、お花が肩に手を添えると、やっと顔を上げた。

>花:八兵衛さん。下を向いてちゃ、折角(せっかく)のお酒が不味(まず)くなっちゃいますよ。
>八:あ、ああ、それもそうだな。
>熊:お花ちゃんに励(はげ)まされてやがる。まったく、だらしがねえな。
>八:五月蝿(うるせ)えや。放(ほ)っとけってんだ。
>三:でも、尻に敷かれるくらいの方が巧(うま)くいくってことらしいですぜ。
>熊:いざというときになると、てんで駄目になっちまうんだからな。仕様のねえ野郎だ。
>八:そういうんじゃねえよ。こっちは客であっちは店のもんとしてってことなんだぞ、どういう顔をしてれば良いってんだよ。
>熊:お花ちゃんみてえに、これまでとおんなじような面(つら)をしてりゃ良いの。・・・なあ、そうだろ、お花ちゃん?
>花:ええ、まあ。・・・でも口で言うほど簡単なことじゃありませんよ。あたしだって居心地が良くないですもの。
>熊:成る程。そりゃそうか。・・・済まなかったな、八。まあ飲めよ。酔ってくれば少しは肩の力も抜けるだろう。
>八:ああ。そうだな。
>熊:だがな、八よ。お前ぇ、つい先(せん)だっては、ほかの客がたくさんいる前で土下座までしたんだぞ。とても同じ男とは思えねえな。
>八:だってよ、あんときは他の客のことなんか目に入ってなかったんだもんよ。今日は全員がこっちを見てるような気がするぜ。
>熊:そんなこと言ったら、お花ちゃんの方が、断然(だんぜん)見られているんと違うのか?

熊五郎からそう言われて、八兵衛は傍(かたわ)らに立っているお花の方を見上げた。
お花は、少し頬(ほお)を引き攣(つ)らせながらも、笑顔を作ってみせた。

>咲:なに見詰め合っちゃってるのよ。忙しいんだから、そんなのはうちに帰ってからにして。
>熊:お、お前ぇ、なんてことを言いやがるんだ。それも、そんなでかい声で。
>咲:だって、ほんとに忙しいんだからね。八つぁんなんか、放っといたって帰りゃしないけど、こっちには怒らせたら帰っちゃう客だっているの。
>熊:そ、そうか。そりゃあ済まなかった。
>咲:分かれば宜(よろ)しい。
>熊:なんだよ。今日は謝(あやま)ってばっかりじゃねえか。
>三:熊兄い。尻に敷かれるくらいの方が・・・
>熊:手前ぇは黙ってろってんだ。
>三:へーい。
>八:お花ちゃん。なんだか、元気が出たみたいだよ。有難(ありがと)うな。おいら、とっても良い嫁を貰ったようだ。
>花:そんなこと・・・
>咲:だから、帰ってからやってって。・・・もう。妬(や)けちゃって仕様がないじゃないの。

八兵衛も気を取り直したようで、湯気を立てる大根に齧(かぶ)り付いた。
八兵衛の良いところは、一旦立ち直ると後が早いということである。

>八:そりゃあそうと、三吉。お前ぇの話はどうなってるんだ?
>三:な、なんですか藪から棒に。
>八:お前ぇ、もう何人かと話をしてみたんだろう? その後どうなんだって聞いてるんだよ。
>三:あの、実は、昨日、5人目から断(こと)わられてきました。
>熊:なんだと? そうも簡単に断わられちまうもんなのか?
>三:どういう訳なのか、おいらの方が聞いてみたいですよ。・・・まあ、その中の3人は商(あきな)いを継(つ)ぐのが条件だってことだったんですがね。
>八:継ぎゃあ良いじゃねえか。
>三:冗談じゃないですよ。やっと仕事に慣れてきて、これからってときじゃないですか。おいら、大工を辞めるつもりなんか更々(さらさら)ないですからね。
>熊:まあ、そいつは仕方ねえとしてだ。あとの2人はどうだったんだ?
>三:「あたしより背が低い」だの、「その年でまだ見習いじゃあね」だのです。
>熊:見て呉れとか肩書きとかってことか。馬鹿みてえだな。そんなこと言ってたらよ、いつになったって望みのもんは手に入らねえだろうよ。
>八:結構苦労してるな。おいらみたく土下座しちまえば良いじゃねえか。
>三:八兄いのは、お花ちゃんみたいに心の広い人だから良かったんです。今時(いまどき)の女に弱みなんか見せちまったら、一生舐(な)められちまいますよ。
>八:そうかなあ? そういうのばっかりじゃねえと思うけどな。どう思う、熊?
>熊:三吉の言うことも一理あるが、そういうのばっかりじゃねえことを願うね。世知辛(せちがら)くって嫌(や)んなっちまう。

>八:そうだよな。・・・でもな三吉、まだ5人に断わられただけだ。もう半分残ってるじゃねえか。
>三:違いますよ。10人のうち2人はお花さんとお亀さんなんですから。
>八:あ、そうか。するってえと、残るは3人か?
>三:なんだか、先が思い遣(や)られます。
>八:その娘たちってのは、本当に嫁になろうって気があるのかねえ? 何も一目で決めろって言ってるんじゃねえんだろ? 2回や3回会ってよ、じっくりと見てから決めりゃあ良いじゃねえか。それをけんもほろろってのはどうかと思うぜ。
>熊:ほう。お前ぇにしちゃ立派なことを言うじゃねえか。確かにその通りだよな。大体において、人と人なんてものは、1遍や2遍話したくらいじゃ分かりゃしねえって。
>八:そうだろ、三吉よ? 友さんだってよ、今みたいに慣れるまでちょっとばかし掛かっちまったもんな。
>三:そうですね。男と男がそうなんだから、男と女子(おなご)だと、輪を掛けて時(とき)を食いますよね。
>熊:まあ、お前ぇの方もあんまり慌(あわ)てねえこったな。八の野郎だって、いっつも慌て過ぎて駄目になってきたんだからよ。悪いとこは見習わねえようにしねえとな。
>三:へい。慌てずにのんびりやります。
>八:のんびり過ぎても駄目だけどな。決めるときは決めろよ。
>三:へい。そりゃあ、もう。
>熊:こら八、あんまり焚(た)き付けるなってんだ。

八兵衛はすっかり普段の調子を取り戻してきた。こうなるともう止まらない。
そんなとき、半次と松吉が太助を連れて入ってきた。

>熊:あれ? 松つぁん、太助を連れてくるなんか珍しいな?
>松:なに暢気(のんき)なことを言ってやがる。こっちはこっちで大変なんだぞ?
>熊:何かあったのか?
>八:ある訳なんかねえだろう。あったら、こんなとこへ来てねえもんな。それも太助連れとはな。お前ぇたち、自滅(じめつ)しに来たのか?
>半:ああそうだよ。自滅の片棒を担(かつ)がせようと思って来たのさ。
>熊:何があったんだよ?
>半:太助がよ、与太郎まで嫁を貰うことになったってんで、羨(うらや)ましくなっちまったんだとよ。
>八:なんだと? ・・・やい太助、お前ぇ、食いもんだけ十分ならそれで良かったんじゃねえのか?
>太:そりゃあ、食いもんは、おいらにとっちゃ、大事なもんだよ。でもさあ、なんだか、みんな幸せになっていくのにさ、おいらだけ残されちまってるみたいでさあ。ちょっと寂しかったんだ。
>八:なんでも良いから、その間延びした喋(しゃべ)り方は止(や)めろってんだ。
>太:だってさあ。喋り方なんてもんは、そうは直りゃあしないよ。
>八:分かった分かった。そのままで良い。・・・そんで? 嫁さんが欲しいんだって?

>太:ああ。そういうことなんだよ。だってさ、松つぁんだろう、お杉さんだろう、半次さんだろう、それに八つぁん、お負けに与太郎どん。ここのところ立て続けだろう? おいらだって、年頃なんだからさ。
>八:何が「年頃」だ。鏡を見てからものを言えってんだ。
>太:なあ、八つぁん。源五郎親方に頼んでみて呉れよ。
>八:お前ぇみてえなのっぽ、どこの誰が好むってんだよ。
>太:そんなの分からないじゃないか。与太郎どんが良いっていうお亀さんだって、いたんだからさ。おいら、顔貌(かおかたち)とか、身体(からだ)つきとかには拘(こだわ)らないからさ、お三どんが巧い人を頼むよ。
>八:なんだよ。詰まるところが飯のことなんじゃねえか。
>太:厚かましいかなあ?
>八:ああ、十分厚かましいよ。・・・だが、面白そうだから頼んでみてやるよ。
>熊:おい。良いのかよ、そんなこと約束しちまって。
>八:良いさ。どうせおいらは新所帯(しんじょたい)で、暫(しばら)くの間はそれどころじゃねえからよ。・・・任(まか)せたからな、熊。
>熊:またそれかよ。

安心したのか、太助は、いつものようにおからを丼(どんぶり)で注文し、物凄い勢いで掻き込んだ。
三吉は「相変わらず惚れ惚れする食いっ振りだねえ」と感心していたが、熊五郎は懐(ふところ)具合いを心配し始めていた。

>熊:八、お前ぇも少しは余計にお足(あし)を出せよ。
>八:あん? ああ、太助の分か。おうよ、任せとけってんだ。なんならおいらが余計に出してやっても良いぞ。
>熊:そんな安請け合いして良いのか?
>八:あたぼうよ。祝言(しゅうげん)となりゃあ、お前ぇたちから祝儀(しゅうぎ)が出るだろう? その分を先に出すだけじゃねえか、なんのことはねえさ。おいらってあったま良い。
>熊:止せってんだ。祝儀はお前ぇだけのもんじゃねえんだぞ。お花ちゃんに黙って使う訳になんかいくか。
>八:良いじゃねえか。どうせ一緒になるんだからよ。
>熊:・・・お前ぇ、お花ちゃんが、なんで嫁に行けねえって悩んでたのか覚えてねえのか?
>八:お父(とっ)つぁんのことか? 謡(うたい)の祝儀をみんなばら撒いちまうってぇ。
>熊:お前ぇもおんなじことをしようとしてるんだぞ。そんなことをしてるのが、ばれたらどうなる?
>八:どうなるんだ?
>熊:破談(はだん)だ。祝言は取り止め。お前ぇは独りもんに逆戻り。
>八:よ、よ、止せよ。脅かすなって。酒が醒めちまったじゃねえか。
>熊:だから、能天気に銭をばら撒いたりなんかするんじゃねえぞ。
>八:分かったよ。そうするよ。・・・そんじゃ、おいらとお前ぇと、松つぁんに半次の4人で割り勘だな。
>熊:そうだ。
>八:そういうことなら酒の追加だ。醒めちまった分を取り戻さなきゃいけねえもんな。・・・おーい、お花ちゃーん。温(ぬる)いので良いから5、6本出して呉んなあ。
>熊:こいつのお頭(つむ)ん中は、一体どうなってやがるんだか。
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