213.【し】 『鹿を指(さ)して馬と為(な)す』 (2004/01/05)
『鹿を指して馬と為す』
誤りを誤りと知りつつ、強引に押し通すこと。また、人を騙(だま)し、愚弄(ぐろう)すること。
類:●鹿を馬鷺(さぎ)を烏(からす)●這っても黒豆
故事:史記−秦始皇本紀」・「十八史略−秦・二世」 中国、秦の丞相・趙高(ちょうこう)が、自分の権力をもって、二世皇帝・胡亥(こがい)に対して鹿を献じたがこれを馬と言って押し通した。「鹿だ」と述べた者は、後日趙高によって罪に落とされた。
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源五郎と差し向かい腰を据えた元締め・相馬屋は、徐(おもむろ)に懐(ふところ)から書面を取り出した。
耳が遠い相馬屋は、対話には文字を通すことにしている。

>相:早速(さっそく)なんだがね、源五郎。頼みというのは外(ほか)でもない・・・
>源:元締め、話の腰を折るようで申し訳ねえんですが、込み入ったことでしたら親父(おやじ)の方に言って貰わねえと・・・
>相:なんだね? なんか言ったか?
>源:だから、面倒(めんどう)なことだったら親父に言って呉れってことですよ。
>相:源蔵にかい? そういうことじゃねえんだよ。まあ、こいつを見なって。
>源:何々・・・。「手代・友助儀(ぎ)、就職斡旋(あっせん)のこと、宜しく取り計らいくだされたし。」 ・・・なんでやすか、これは?
>相:続きを読んでみろ。
>源:「右の者、大工作事(さくじ)ごとに些(いささ)か覚えがある由(よし)、勘案(かんあん)されたし。享和3年(1803)師走(しわす)吉日、両毛屋善蔵。」 ・・・へ? 両毛屋ってえと、あの?
>相:両替商ではそれなりの老舗(しにせ)の両毛屋の主からの書面だ。略式ではあるがね。・・・で、どうする?
>源:ど、どうするって聞かれやしてもねえ・・・
>相:本物かだと? 見てみるが良い、花押(かおう)もあるじゃろう。
>源:そんなこと聞いていませんや。・・・そんなことはどうでも良いんでやすが、そいつは一体、誰宛てに書かれたもんなんでやすか?
>相:なんだと? いつ誰から渡されたのかだと? 昨日の夕方だ。そこに書いてある友助という者が直々(じきじき)に持って来よったわ。両毛屋さんからの書状付きでは、無下(むげ)に追い返す訳にもいくまい?
>源:・・・なんだよ、頼まれたのは元締めなんじゃねえか、そいつをこっちに盥(たらい)回ししようって魂胆(こんたん)か?
>相:誰が責任転嫁(てんか)
をしているだって?
>源:そんなこと言ってませんって。・・・ほんとは聞こえてんじゃねえのか、この爺さんは?

頓珍漢な遣り取りに業(ごう)を煮やして、源五郎は紙と筆を取り出した。
「頼まれたのは元締めでやすよね」と、問い掛けの文言(もんごん)を書いて差し出した。

>相:そうだよ。だから、私の判断でお前を選んだんじゃないか。
>源:えーと、「おいらの手には負えないと思いやすが」っと。
>相:そんなことはない。5人もの弟子を立派に纏(まと)め上げてるじゃないか。
>源:「その5人でも多いくらいなのに、これ以上は無理です」と。
>相:こうなりゃ、5人も6人も一緒だろう。お前が一番の適任なんだよ。な、頼む。
>源:「無理ですって。誰か他の奴にやらせてください」。
>相:ならん。これはもう、決定事項なんだ。今更変えることはできん。
>源:「寄り合いの席じゃ、そんな話はなかったじゃねえですか」と。
>相:決めたのは私の一存だからな。他の者の意向など一切聞いておらん。
>源:「横暴(おうぼう)でやす」。
>相:横暴で結構。話は以上だ。

相馬屋は、書面を源五郎に押し付けて、もう冷(さ)めてしまった銚子に手を伸ばした。
その銚子を源五郎の鼻先に差し出して、受けろと言いたげに、一振りした。
これを受けるということは、この件を請(う)けることになるということを了解しながらも、源五郎は断(こと)われなかった。

>源:1つ教えてください。その友助って奴は幾つくらいの年なんでやすか?
>相:年か? そうさな、40くらいじゃなかったかな?
>源:なんですって? そんな年から大工になろうって言うんでやすかい? そいつぁあ・・・
>相:腕に覚えがあるってんだから、信じるしかねえだろ。
>源:・・・生半可な腕で大工が勤(つと)まる訳ねえって、一番知ってる筈じゃねえかこの爺様は、まったくよ。
>相:なんか言ったか?
>源:いえ。・・・で、そいつは、両替屋で何をやってたんですかい?
>相:そりゃあ、算盤(そろばん)を弾(はじ)いてたに決まってるじゃないか、両替商なんだから。
>源:成る程ね。聞くだけ無駄ってやつでしたね。・・・ほとほと参りましたね、まったく。

この話を押し付けた相馬屋の方にも、後ろめたさがなかった訳ではない。
そもそも商人と職人とはまったく別物なのである。
仮令(たとえ)玄翁(げんのう)使いが巧(うま)いといっても、商人の作事ごとなど、高が知れているのだ。

源五郎は書面を懐(ふところ)に収(おさ)め、肩を落として家に帰った。熊五郎の手伝いをしなければならないことなど、すっかり忘れてしまっていた。
一応、報告しておこうと、父・源蔵(棟梁)の部屋に入っていった。

>棟:なんだ、真昼間っから赤い顔をしやがって。赤鬼でも入ってきたかと思うじゃねえか。
>源:倅(せがれ)の顔を見てなんてことを言いやがる。・・・なあ親爺、困ったことになっちまったぜ。
>棟:なんだ? 五六蔵が音を上げてきやがったか?
>源:そんなことだったら尻を蹴り上げて追い返してやれば済む。まあ、こいつを読んで呉れよ。
>棟:なんだそりゃ? ・・・ほう、成る程。この友助ってのをお前ぇの弟子にしろって話だな?
>源:「決定事項」なんだとよ、相馬の爺さんの言い分だとな。
>棟:良いじゃねえか。丁度忙(いそが)しいときだし、手伝わせてみたらどうだ?
>源:なんだと? 人事(ひとごと)だと思いやがって、勝手なことを言うなってんだ。相手は40なんだぞ、40。
>棟:ほう。そりゃあまた・・・
>源:なあ、どうしたら良いと思う?
>棟:だってもう引っ繰り返らねえんだろ? そんじゃあ仕方がねえじゃねえか。一先(ひとま)ず使ってみろ。それでも駄目だってんなら、ようく言い聞かせて、お帰り願えば良い。2日分くらいの給金でも渡しゃ文句も言うまい。
>源:しかしよ、無理だと思うぜ。算盤弾いてたってんだからよ。
>棟:そんなの分かるかよ。良く言うじゃねえか、「馬には乗ってみよ」ってよ。

妻のあやに至っては、「お弟子さんが増えるってことは良いことですよね」と、にこやかに言い切る始末である。
「どいつもこいつも・・・」と、源五郎は溜め息を吐(つ)いた。
こうなっては仕方がない。経緯(いきさつ)はどうあれ、その友助という男に会ってみなくてはならない。
とぼとぼと、「両毛屋」へと向かった。

そんな頃、張り切っていた筈の八兵衛も、気力が萎(な)え始めていた。

>八:なあ三吉、そろそろお八(や)つにしねえか?
>三:子供じゃあるまいし、お八つでもねえでしょう。
>八:だってよ、蕎麦(そば)1杯じゃ幾らなんでも腹持ちが悪くってよ。
>三:そんなこと言って、世の中にはその蕎麦だって食えねえ人がいるんでやすから。
>八:そんな奴の面倒まで見てられるかってんだ。こちとら、2人前食わねえと力が入らねえ質(たち)なの。おいらの1杯は普通の人の半分なんだからな。
>三:滅茶苦茶な理屈でやすね。
>八:おいら本人が言ってるんだから間違いはねえ。お前ぇ、疑(うたぐ)ってるのか?
>三:い、いえ、そううことじゃなく・・・
>八:なら、信じてりゃ良いの。「信じる者は救われる
115欄外注釈参照)」って言うじゃねえか。
>三:言いますか、そんなこと?
>八:どうでも良いじゃねえか、そんなこと。お前ぇはおいらの分も働いとけ。おいらは腹が減るから、暫(しばら)くぼうーっとしてる。任(まか)したからな。
>三:そりゃあねえですよ、八兄い。

>八:それもこれも「一黒屋」のご隠居さんが算盤なんか弾いてるせいだ。そうでなきゃ今頃、ほんのり桜色に頬染めて、ふわふわした気分で仕事ができたのによ。
>三:酔っ払ってたら良い仕事はできませんが・・・
>八:酔っ払う一歩手前で止(や)めりゃ良いんだろ? 簡単なことじゃねえか。
>三:簡単ですか? おいら(ざる)でやすから、何人もの酔っ払いを見てきましたが、一歩手前なんてものを承知している酒飲みなんかには、一度だってお目に掛かったことはありませんよ。
>八:そうか? そんなら今度おいらがそれを見せてやろうじゃねえか。楽しみにしていやがれ。
>三:そうですか? そうまで言うんでしたら見させていただきますがね、あんまり期待はしねえことにしときます。

八兵衛は、明日か明後日には一黒屋与志兵衛を引っ張り出してやるぞと、密(ひそ)かに決心していた。

そんな頃、熊五郎は、源五郎の助けを期待しながら、1人でできることをこなし続けていた。
しかし、待てど暮らせど、当の源五郎は現れない。
間もなく7つ(16時頃)になろうとしていた。「こりゃ今日は来ねえな」と、割り切り始めていた。
つづく)−−−≪HOME