117.【か】 『蟹(かに)は甲羅(こうら)に似せて穴を掘る』 (2002/02/25)
『蟹は甲羅に似せて穴を掘る』
蟹は自分の甲羅の大きさに合わせて穴を掘るものだということから、人は自分の力量や身分に応じた言動をするものだということ。また、人はそれ相応の願望を持つものだ。
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三吉が戻ったのは、未(ひつじ)の刻(=8つ・14時頃)になろうとする刻限だった。
太助の他に与太郎も一緒だった。

>八:おうおうやっと戻ってきたか。どこかで迷ってるんじゃねえかと心配してたぜ。
>五六:お前ぇ、真逆(まさか)、本当に迷ってた訳じゃねえだろうな。
>三:当たり前ですよ。
>熊:でもよ、高々長屋まで行って帰ってくるのに1時(とき)半(=約3時間)も懸かるか?
>三:太助さんは留守にしてたんですって。内房のご隠居さんのところへ行ってたんだそうです。おいらのせいじゃありませんや。
>熊:ご隠居のところ? そうか。疑(うたぐ)ったりして悪かったな。酒も飲まず、雑煮(ぞうに)も食わず、ご苦労だった。
>三:あ、忘れてました。お昼だったんですよね。・・・おいらの分は残ってるでしょうか?
>熊:大丈夫だよ。ちゃあんと残して貰ってある。
>三:ああ良かった。お屠蘇(とそ)を取り上げられた上に昼飯抜きじゃあ身が持ちませんや。・・・あ、それから、話に付き合わせちゃったんで、与太郎さんも食べてないんです。それから、太助さんは?
>太:はい。余計にあるようなら、おいらも戴きたいんですけど・・・

>八:なんだよ、旅籠のご隠居ともあろう人が、雑煮の1杯も振る舞って呉れなかったのか?
>太:いえ、戴きましたよ。ですが、ここまで歩いてくるうちに消えてなくなっちゃったようなんです。
>八:まったく、お前ぇの腹は力士並みだな。もう辞めてから随分経つんだろうによ。
>太:だって、旅籠の雑煮ってのがまた、洒落(しゃれ)てるってのか、ちんまりしてるってのか、透き通った汁の中に丸餅が2つ沈んでるだけでして。あれじゃあ、養生所のご飯の方がまだ増しってもんですよ。
>八:へえ、丸餅ねえ。ここいらじゃあんまり見掛けねえな。確かに、そいつは変わってるな。
>五六:あれですよ、八兄い、「精進(しょうじん)料理」とかっていうやつなんじゃねえですか?
>八:なんだそりゃ?
>五六:元は、お坊さんが食べてたものらしいんですが、器にほんのちょこっと盛り付けるんだそうですぜ。なんとかいう食道楽の人が、身体に良いとか言い始めたとかで、「通」とか「粋」とかって持て囃(はや)してるそうですよ。
>八:坊様の食い物をか? おいらにゃ理解出来ねえ。おいらは腹八分目が一番良いと思うんだけどな。・・・なあ太助、坊様の真似をして、少しは偉くなったか?
>太:雑煮1杯くらいで偉くなれる訳なんかないじゃあありませんか。
>八:それもそうだな。食いもんにそれだけ欲が残ってちゃあ、いつまで経っても「解脱(げだつ)が上がらねえ」な。
>太:八兵衛さん。あの、そういう風には言わないと思うんですけど。
>八:そうか? 「盆の法事から解放されねえ」だっけ?
>五六:それって、もっと違うと思うんですけど。四郎にでも聞いてみちゃあどうです?
>三:おや、四郎のやつ、随分大人しいと思ったら寝てやがるじゃねえですか。
>八:食うもん食って、飲むもん飲んで、満足したら昼寝をする。まったく、羨ましいくらい幸せな生き方だな。見ろよ、これ以上なんにも要らねえって面(つら)してやがるぜ。
>三:まったく幸せなやつですよ。起こしやしょうか?
>熊:まあ良いだろ。お前ぇたちが雑煮を食い終わるまで寝かしといてやれ。正月だからな、少しくらい大目に見てやろう。

三吉は雑煮を肴(さかな)にして酒を飲み、太助は3度お代わりをした。
与太郎は具として使われた野菜の産地を、一々説明してみせた。

>八:へえ、伊達(だて)に野菜売りをやってる訳じゃねえんだな。味で分かるのか?
>与:味だったり、色形だったり、匂いだったりですね。
>八:おいらにゃどれもこれも一緒にしか見えねえけどな。
>与:八つぁんだって、毎日見てれば分かるようになりますよ。
>八:おいらがか? おいらは良いよ。何処の産か知らなくても、食って美味けりゃ十分だ。知らねえ方が幸せってこともあるだろ?
>太:おいらもそう思う。・・・お代わりっ。
>咲:太助さん、4杯目よ。そのくらいにしたら? ご隠居のところのと合わせるともう5杯も食べたことになるのよ。
>太:おいらの腹は八分目じゃなくて十分目にならないと満足しないんですよ。こんな良い機会滅多にありませんから。
>咲:お腹(なか)を壊したって知らないから。
>太:仮令(たとえ)今晩腹痛(はらいた)を起こしたって、おいら、今が幸せならそれで良いんです。

>咲:あら、太助さんにしては珍しく勢い込んでるわね。
>太:おいら、人に自慢にできることなんかなんにもありませんし、夢とかがある訳じゃないんですけど、物を食べるってことに関しちゃあ、並みじゃない「執念」みたいなものを持ってるんです。
>八:それならおいらだって十分持ってるぞ。
>咲:八つぁんのは食い意地が張ってるだけでしょ?
>八:太助のは違うのか?
>太:ええ違うんです。他にできることがないってところが肝心なんです。・・・おいら、自分のことは分かってますから。
>与:それを言うんなら、あたいだってなんにもありませんが。
>太:とんでもない。与太郎さんは釣り銭の勘定だってちゃんとできるし、野菜の産地だってみんな分かるじゃないですか。それに、下っ引きの仕事だって上手にこなしてる。
>与:でも、それほど人のためになってる訳じゃあ・・・
>太:おいらにとって、食べることがたった1つの自慢事なんです。人より余計に食べられるって意味じゃあないんです。例えばこういうことです。食べるためなら嫌な力仕事も苦にならないし、人に頭を下げるのだって悔しくないんです。それを拠り所にすることで、どうにか生きていられるんです。
>八:そんな大袈裟なもんでもねえだろうに。
>太:いいえ大袈裟です。普通の人なら、家族に財産を残すとか、後世に名を残すとかってことを拠り所にするもんなんでしょうけど、おいらにはそんなことさえ高嶺(たかね)の花で、痴(おこ)がましくて・・・
>熊:なあ、太助。お前には人並み以上の背の高さってもんがあるだろ? 瓦版売りができるのもそのお陰じゃねえか。それだって立派な長所だぞ。
>太:はあ。そんなこともありますが、背の高さには泣かされることの方が多かったから。
>八:雑煮のお代わり1つでこんな話になるとはな。お咲坊、良いからもう1杯貰ってきてやりな。

>四:あの、ついでにおいらにもください。太助さんの話を聞いてたら、他人事じゃないような気になっちゃいまして。
>八:なんだ四郎、起きてたのか?
>熊:お前ぇみてえに痩せてる者(もん)は食い物以外のことに希望を持つべきだな。
>四:はは、ご尤も。お代わりは良いとして、そんなことより、お坊さんと普請方の役人のことはどうなってるんですか?
>八:ああそうだったな。太助、何か知ってることあるか?
>三:その話は、おいらがもう聞きました。太助さんはお雑煮を食べてて貰って、おいらが間違ったことを言ったら訂正して貰うってことにしましょう。

三吉が小豆(しょうど)と家島の話を説明した。所々を与太郎に助言して貰って、どうにか正確に伝えられた。

>八:なるほど。そうすると、その寺社奉行所の与力が狙いだったってことだな。
>三:そのようです。
>熊:話しっ振りだと、撫道坊主はまだ家島様とは会ってないようだな。
>太:はい。ご隠居もそう言ってました。「今のうちに手を打っておいた方が良いな」って。
>熊:そうだな。意地汚い兄のせいで、汚職の疑いなんか掛けられちゃ堪(たま)らねえもんな。
>八:悪い噂ってのはあっという間に伝わっちまうからな。急ぐに越したことはねえな。

>八:しかしよ、その小豆とかいう役人も可笑しな人だねえ。肩書きを棒に振っても良いと思うくらい女が好きだってのに、酒に飲まれて、一度も手を出せずにいるのか?
>太:「可笑しな人」くらいじゃ済まされませんよ。
>八:おや、珍しく怒ったね? そんなに不純な下心が許せねえのか?
>太:いえ。そうじゃなくて、宴会をしながら途中で寝ちゃうってことです。鍋や刺身が勿体ないじゃないですか。
>八:またそれかよ。
>太:おいらをそこに呼んで呉れてりゃ、一切合財(いっさいがっさい)食べ尽くしてしまうんですけどねえ。
>八:怒ってる次元が違ってんじゃねえのか?
>熊:まあ良いじゃねえか。密会の席に踏み込むようなことになったら、心行くまで食わしてやろうじゃねえか。
>太:きっとですよ。約束しましたからね。
>八:まったく、安いもんだな。
>太:実は、うちは代々そんなような家なんです。劇的に変われなんて言わないでくださいね。無理ですから。
>八:なるほど、家鴨(あひる)の子は家鴨。鳶とか鷹とか、況(ま)して白鳥にはなれねえってことか。それも生き方だな。
>熊:何をしみじみ言ってやがる。

先ずは内房老人の話の裏付けと、撫道の動向を調べようということになった。
どうせなら、この三箇日のうちに片付けてしまいたい。
さて行動に移そうかという段になって、腰を上げようとしたところに来客があった。
源五郎に会わせろと、豪(えら)い剣幕だという。相馬屋の主人である。つい先頃、田原の父つぁんの後を任されたばかりであり、正月の酒がちょっとばかし過ぎていて、呂律(ろれつ)が巧く回っていなかった。

>八:相馬屋の親爺(おやじ)が怒ってるって? どういうことだ?
>熊:真逆、見られたんじゃねえだろうな。
>四:有り得ますよ。相馬屋さんは毘沙門様とじゃ目と鼻の先ですから。
>八:親方も大変だねえ。あの親爺ったら耳が遠いから、一々大声を張り上げなきゃならねえ。苦労するねえ。
>熊:お前ねえ、おいらたちにも直接関わりのあることなんだぞ。もっと真剣になれってんだ。
>八:こいつはおいらの性分(しょうぶん)なの。高潔な白鳥になれってったって、そいつぁあ無理ってもんよ。
つづく)−−−≪HOME