260.【し】 『喪家(そうか)の狗(いぬ)』 (2004.11.29)
『喪家の狗』
1.喪中(もちゅう)の家の飼い犬。悲しみのために、餌を食べさせて貰えず、痩せ衰えた犬。一説に、宿なしの犬。
2.転じて、見る影もなく窶(やつ)れて元気がない人。
★「累々として喪家の狗の如し」 天下周遊中の孔子の姿<中国古典名言事典(講)>
出典:「孔子家語−困誓」
出典:
孔子家語(こうしけご) 中国の儒書。現行本10巻44編は魏(三国時代)の王粛(おうしゅく)の偽作とされる。原本は27巻。孔子の言行及び弟子との問答や伝聞などを「春秋左氏伝」「史記」「新序」などから収録。
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お町と少しでも多く喋(しゃべ)りたいということで、肴(さかな)を6品、銚子を10本も頼んでいる2人連れがいた。
すっかり酒が回り、金時の火事見舞いのような顔色になっている。
それだけなら良いのだが、脳天から突き抜けるような甲高い声を張り上げて、のべつ幕なしでお町に話し掛けようとする。 質(たち)の悪い客である。
お花に聞いてみたところ、一昨日(おととい)から3日連続で来ているのだという。

>八:何者なんだい?
>花:桶屋(おけや)と古桶(ふるおけ)買いですって。毎晩あの調子なの。
>八:桶屋ごときがお大尽(だいじん)遊びか? どうなってんだ?
>花:それがね、「この冬は大きい地震(なえ)が起きるに違いない」って誰かが言ったからなんですって。
>八:なんだそりゃ? 樽となんの関わりがあるってんだ?
>熊:なんとかいう浮世草子(=『世間学者気質』)じゃあるまいし。真逆(まさか)、三味線がどうのとか、猫が減ると鼠(ねずみ)が増えるとかって言うんじゃねえだろうな?
>花:似たようなもんよ。井戸の水が次々に干上がって、米研(こめと)ぎもできないようになるかも知れないんですって。水道も壊(こわ)れちゃうだろうから、飲み水にも事欠(ことか)くんですって。
>八:そんで水を溜(た)めるのに樽が売れたってのか?
>花:そうなんですって。もう年を越せる分くらい稼(かせ)いじゃったんですってよ。
>八:へえ、そりゃまた。羨(うらや)ましいとこもあるもんだな。
>熊:感心してる場合か? こっちは五月蝿(うるさ)くって敵(かな)わねえってのに。・・・でもよ、あんな調子で酒を飲んでたら、稼いだ銭なんかあっという間に消えてなくなっちまうだろうにな。
>八:違(ちげ)えねえ。その時になったらどうすんだろうな? ほれ、材木は目が飛び出るほど高くなっちまうんだろう?
>熊:材木がなきゃ、桶も作れねえわな。
>八:あーあ。後で吠(ほ)え面(づら)掻(か)いても、もう遅(おせ)えな。教えてやったのが良いかな?
>熊:放(ほ)っとけ。明日になりゃ、気が付くだろうよ。
>八:でもよ。今教えてやりゃ、尻に帆掛けて帰るんじゃねえのか?
>熊:ふむ。それもそうだな。
>八:おい、三吉。お前ぇ、行って、教えてきてやれ。
>三:おいらがですか?
>八:だってお前ぇ、お町ちゃんを独(ひと)り占(じ)めにされてるのって嫌だろう?
>三:へい。勿論(もちろん)でさ。そういうことなら、おいらが行かして貰いやす。

三吉は、お町に良いところを見せようという魂胆(こんたん)もあるのだろう、いつになく真面目(まじめ)腐って説明していた。
2人連れは、急に素面(しらふ)に戻ってしまったようで、慌てて勘定(かんじょう)を申し出た。

>三:見ましたか、あの水を掛けられたような顔? 危うく吹き出しちまうとこでしたよ。
>八:見ろよ。片っ方の奴なんか狐に抓(つま)まれたような面(つら)してやがるぜ。
>熊:あらら。よくもまあ、ああも様子が変わるもんだな。見ろよ、真っ青(さお)だぜ。
>八:さっきまでの威勢が嘘のようだな。襤褸雑巾(ぼろぞうきん)みてえになっちまいやがんの。あの様子じゃ、当分酒なんか飲みてえと思わねえな、きっと。
>熊:あーあ、値切(ねぎ)ってやがる。・・・見られたもんじゃねえな。
>八:試(ため)しに「またどうぞ」って言ってやりゃ良い。・・・おい、三吉、言ってやれ。
>三:嫌ですよ。おいらそんなに安っぽい男じゃないんですからね。
>八:ほう。ほざきやがるじゃねえか。まるで、一丁前みてえだぞ。
>三:そういつまでも見習(みなら)いじゃいられませんや。四郎辺(あた)りに負けちゃいられませんから。
>八:そうかそうか。良い心掛けだな。なあ、熊?

>熊:ああ。・・・でもよ、おいらたち大工だってあんな風(ふう)になってたかも知れねえんだぜ。空恐ろしくなるな。
>八:なんでだ? 材木が高くなったら、手間賃を上げりゃ良いじゃねえか。
>熊:世の中どこもかしこもぴいぴい言ってるってのに、高い手間賃なんか誰が払って呉れるかってんだよ。
>八:うーん、それもそうか。おいらだったら、三月(みつき)くらいなら、安くなるまで待つな。
>熊:そうだろう?
>四:でも、三月で済むかどうかだって分からないですよ。
>五六:そうですぜ。このまま半年も材木が高いままだったら、あっしらも飯の食い上げですぜ。
>八:真逆(まさか)そんなこともねえだろう?
>熊:そいつはなんとも言えねえぞ。いつぞやみたいに、材木を買い占めようって考え始める奴がありゃ、長引くこともある。
>八:そんときゃ、またおいらが出てって、お頭(つむ)をぽかりと・・・
>熊:そういつもいつも上手(うま)く行くかっての。五六蔵の言う通りになるってこともあるぜ、ほんとに。
>四:おいら、元吉(げんきち)とおよねを抱(かか)えたまんま食いっ逸(ぱぐ)れちまったらって考えると、気が遠くなりそうです。
>八:そりゃあ心配し過ぎだろうっての。
>熊:まあ、雨漏(あまも)り直しとか、神棚(かみだな)直しとかの半端(はんぱ)仕事はあるだろうしよ、どうにか食い繋(つな)いでいけると思うけどな。
>四:当分は木っ端(こっぱ)集めとか、それこそ古桶買いでもやらないと駄目でしょうか?
>八:そんなことしたら、さっきの古桶買いが捻じ込んでくるぞ。
>熊:まあ、その辺は、親方と友さんが考えておいてくださってるだろう? おいらたちはそれを信じるしかねえじゃねえか。
>八:それもそうだな。親方に任(まか)しとけば大丈夫だよな?
>四:そうですね。ここで騒ぎ立てても仕方がありませんもんね。

>三:それにしても、おいらたちには大(たい)した親方がいるから良いけど、そういうのがいないところはどうするんでしょうね?
>八:そりゃあ、困るだろうな。長引いたら、纏(まと)めて首括(くびくく)りかも知れねえな。
>熊:大工には辛(つら)い冬になるってこっとな。
>四:・・・あの、桶屋が大変ってことは、建具職の半次さんも大変ってことですよね?
>八:そう言われてみると、そうだな。まあ、大工ほど材木を使う訳じゃねえけどよ。
>熊:それでも、困ることには違いはねえな。家が建たなくなりゃ、建具も必要ねえからな。
>八:するってえと何か? 半次の野郎、お八重ちゃんと一緒に首を括んなきゃならねえのか?
>熊:もしかするとってことだがな。
>八:よ、止(よ)せやい。おんなじ長屋から首括りなんか出したくねえぞ、おいら。
>熊:明日、親方に相談でもしてみるか?
>八:そうだな。なんてったって大事な飲み仲間だもんな。
>熊:そうじゃねえだろう。おんなじ大家の店子(たなこ)同士だろ。家族みてえなもんだ。
>八:そうも言うな。
>三:・・・あれ? そう言や、お町ちゃんのお父(とっ)つぁんも建具職だとか言ってたような・・・

卓の片付けを終えて、やっとお町がやってきた。
やっぱり、あの2人連れには困り果てていたようである。

>町:三吉さん、さっきはどうも有り難う。助かったわよ。あの調子であと一時(いっとき=約2時間)も粘(ねば)られちゃ堪(たま)ったもんじゃないわ。
>三:あ、あの、お町ちゃん。こっちが熊兄いで、こっちが八兄いなんだ。今晩が初めてだったよね?
>町:あらあたしったら、ご免なさい。始めまして。お町と申します。まだ不慣れですけど、宜しくお願いします。
>八:宜しくな。お花から聞いてたけど、ほんとに別嬪(べっぴん)だねえ。
>町:あら、八兵衛さんこそ、話に聞いてたほど変な人じゃないみたい。
>八:どういう意味だ、そりゃ?
>町:まあ良いじゃないの。褒(ほ)めてるんだから。
>八:そうか? そんなら良いけどよ。

>熊:今、三吉から聞いたんだけどよ、お父つぁんは建具職なんだって?
>町:ええ、そうなの。それがどうかした、熊五郎さん?
>熊:く、熊で良いよ。そんな呼び方しなくたって・・・
>町:だって、お咲ちゃんが「堅物(かたぶつ)だから」って言ってたもの。でも、まあ良いわ。それでなあに、熊さん?
>熊:ああ。さっき三吉も言ったと思うが、材木が手に入らなくなったら、建具職も大変なことになるんじゃないかと思ってよ。
>町:うーん。どうなのかしら? あたしには分かんない。
>熊:そうか。そりゃそうだな。まあ、忘れて呉れ。
>町:はーい。・・・そんじゃ、お酒の追加を持ってくるわね。えーと、5人だから5本ね?

「こりゃまた顔に似合わずからっとした娘だね、こりゃ」という八兵衛の感想に、皆(みな)一様に頷(うなず)いた。
多分、そういう性格の方が、縄暖簾(なわのれん)には合っているのだろう。

そんなところへ、半次が血相を変えて現れた。

>半:おお、いたいた。やっぱりここだったか。ちょっと話を聞いて呉れよ。
>八:どうしたんだよ、半次。今にもくたばりそうな面をしてるぞ。
>半:そうもなろうってもんだぜ。お前ぇたちゃ知ってるのか? 材木の値が昨日の3層倍だぞ。どうなってやがるんだ?
>八:そんなの、うちの親方は疾(と)っくの昔に気が付いてたのさ。そんでもって、おいらたちゃ明日っから当分休みなのさ。
>半:なんだと? 知ってたってのか? どうして教えといて呉れなかったんだよ。友達甲斐(がい)のねえ野郎だな。
>八:そんなこと言ったって、おいらたちが聞いたのだって一昨日の朝なんだもん。
>熊:半次、それで、お前ぇんとこにはどのくらい応(こた)えるんだ?
>半:ちっとくらいのことなら大したこともねえんだがよ。障子(しょうじ)を16張り仕上げねえといけねえんでな。
>熊:16張りだと? そりゃあまた随分とたくさん引き受けちまったもんだな。
>半:何を言ってやがる。お前ぇらんとこが「大急ぎで」って、次から次へと回してくるから溜まっちまったんじゃねえか。
>熊:そうか。そりゃあ済まなかったな。
>半:今頃謝(あやま)られたって仕方がねえ。どうすりゃ良いんだよ・・・
>八:そういうことだったら、おいらたちのせいでもあるんだよな。それじゃあ、あんまり可哀想だ。ひとつ、親方に相談に乗って貰うとするか?
>熊:そうだな。・・・それで? 納(おさ)めはいつなんだ?
>半:5日後だ。まあ、日にちがあるからまだ良いがな。でも、材木の値なんて直ぐには下がらねえからな。
>熊:明日、お前ぇも一緒に来いよ。親方ならなんとかして呉れるだろうからよ。
>半:そうか。助かるぜ。どうなることかと思ったぜ、まったく。

お町が銚子を持ってきながら、唐突(とうとつ)に半次に声を掛けた。

>町:あら、半次さん。どうしてこんなとこに来てるの? 熊さんたちとお知り合い?
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