83.【お】 『小田原評定(おだわらひょうじょう)』 (2001/06/25)
『小田原評定』
いつになっても結論が出ない会談や相談。
類:●小田原談合●小田原相談
故事:天正18年(1590)。豊臣秀吉が小田原城の北条氏を攻めた際、城中で和戦の意見が対立し、徒(いたずら)に日時を送った。 
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八兵衛が脚色して喋(しゃべ)った『五六蔵・一太郎物語』を聞いて、野崎屋杉太郎は、おいおい大きな声を上げて泣いた。
世知辛い世の中で、こんな美談(びだん)久しく聞いたことがない」と、大層な入れ込みようである。

>野:こいつは売れますよ。絵草紙や芝居が弾圧を受けるようになってからこっち、江戸の庶民は感動に飢えているんです。お侍(さむらい)のちゃんちゃんばらばらも良いんですが、あたしはこういう泣ける話が一等好きですね。
>八:なんだったら、おいらが喋るのをそのまま書きやすか?
>野:いえいえ、それには及びません。瓦版には瓦版独特の書き方ってもんがありますから。
>八:七五調かなんかで喋れば良いんでしょ? そんなの訳ねえけど。
>野:そりゃあ確かに、読み歩くのには調子の良い方が良いんでしょうが、そんなことより、お決まりの言い回しとかがあるんですよ。どちらかというと芝居の台詞回しに近いでしょうかねえ。
>八:へえ、そうなんで。おいら芝居なんか見たこともねえから、そうなっちゃ無理だな。
>野:大丈夫ですよ。うちで抱(かか)えてるお方が、絶妙(ぜつみょう)に書き上げてくださいますから。
>八:それじゃあ、その人の前でもう1遍喋って聞かせやしょうか?
>野:それも大丈夫ですよ。あたしから巧く伝えられますから。
>三:本当に大丈夫なんですかい? 又聞きの又聞きになるんですぜ。
>野:なあに、壺(つぼ)さえ押さえておけば良いんですよ。読む方は泣ければ良いんですから。
>三:そんなんで良いのかな?
>八:まあ良いじゃねえか。任せようぜ。・・・あ、そうだ。五六蔵の話も聞きに行かせるんでしょう?
>野:いえいえ、それも必要ありません。生(お)い立ちやらなんやかやは、文士の先生がぴったりなのを決めますんで。
>八:そんなもんなの?
>野:そういうもんなんです。細工は流々。皆さんは出来上がったものをお読みになるだけです。

野崎屋と八兵衛の遣り取りをちょっと離れて聞いていた熊五郎は、なんだか不安になってきた。
野崎屋は過去に3回瓦版を出していたが、どう贔屓目(ひいきめ)に見ても出来が良いとは言えない代物(しろもの)ばかりだった。
大店(おおだな)の番頭の密通(みっつう)だとか、三毛(みけ)に白い仔猫が生まれたとか、下駄(げた)占いで天候を10日間当て続けた子供だとか。
そんな箸(はし)にも棒にも引っ掛からないものを題材に使っているようでは、文士の先生も碌(ろく)なものじゃない

>熊:だから止(よ)せって言ったんだ。
>八:何がだ? やっと売れそうなものが出るじゃねえか。おいらは物凄(ものすご)く期待しちゃってるぞ。
>熊:おいらはとんでもない滅茶苦茶なものができるような気がするんだがな。
>八:良いじゃねえか、売れりゃあよ。
>熊:捏(で)っち上げでも良いってのか?
>八:捏っち上げにゃあならねえだろ? おいらがあんだけ喋ってやったんだから。
>熊:お前ぇの話だって7割方が出任せだろ?
>八:おいらの話のどこが出任せだってんだ? 大筋は在りの侭(まま)じゃねえか。

数日後、太助が読み売りした瓦版の内容は、元の話とはかなり懸け離れたものになっていた。
五六蔵の名前がコロ助になっていて、一太郎が英一、熊田という敵(かたき)役まで登場する有様(ありさま)だった。
コロ助は、身体(からだ)こそ丈夫だが、謂(い)われなく両親を殺され、7人の弟妹(きょうだい)を養(やしな)う、貧しく心優しい武士として書かれていた。

>八:なんだこりゃ?
>熊:だから言っただろ?
>八:こんなので良いんだったら、おいらだって文士の先生になれるぞ。
>熊:そういう話じゃねえだろ。・・・そもそもだな、ものごとを正しく早く伝えるってのが、瓦版の役割りとは違うのか? 出任せばかり書いてて、世間様が信じ込んじまったらどうするんだよ。
>八:一太郎って奴の供養をして呉れるんなら有難(ありがて)えことじゃねえか。
>熊:一太郎じゃねえんだぞ。英一なんだぞ。それになんだこの熊田ってえ親の敵は? 志(こころざし)半ばにして死んだ英一の仇(あだ)討ちまでするんだぞ。次号じゃあ、五六蔵が白装束(しょうぞく)で刀を持つんだぞ。
>八:次のも売れそうだな。
>熊:だから、そんな話じゃねえだろうっての。

経緯(いきさつ)は兎(と)も角(かく)、瓦版は売れに売れた。野崎屋では第三刷まで出して、相当な売上げ金を稼(かせ)いだ。
売り手である太助は、内容に疑問を抱きつつも、やっと職務らしい職務を全(まっと)うできた喜びの方が大きく、大いに満足げであった。
『コロ助物語』の続編が出るときに生駒屋本郷店の案内を書かせてはどうかという、お咲の提案も、富郎は難なく了承した。

>太:それがですね、番頭の鍋恒さんが急に色気を出しまして、後日譚(たん)も出すからその両方組で載(の)せさせたらどうかって言い出したんです。それで、文士先生に急いで書かせるから、筋書きが仕上がるまで待つよう伝えたらって・・・
>咲:何よそれ。こっちは試しに1回切りで良いのよ。やってみて効験(こうけん)が出たらまたやるってことで良いじゃない。
>太:はあ。
>熊:まあまあ、太助が悪いんじゃねえんだから、そう噛み付くなよ。
>咲:それはそうだけど・・・。でも、そんな決まりごとだったら、考え直せって行ってこなきゃ。
>熊:野崎屋さんは、考えを変える気はねえのか?
>太:はあ。手代の茂長さんと貞吉さんが欲を掻かないでこつこつやった方が良いって言って呉れたんですが、旦那の方は結構強気でして。外伝っていうことでもう1つ書かせようと画策(かくさく)してるみたいです。それで、生駒屋さんが駄目なら、呉服商の「一黒屋」さんに持ち掛けるって言ってました。
>八:一黒屋って、安いものをたくさん売るってことで繁盛(はんじょう)し始めたとこか?
>太:はあ。
>八:なるほど、景気が良さそうだから話に乗ってくるかも知れねえな。
>熊:安売りで客を集めてるところが、人寄せに銭を掛けたら、安く売れなくなっちまうじゃねえか。無理だな。
>太:無理なんですか?
>八:無理なのか?
>熊:ああ。無理だ。
>太:それじゃあ、うちの旦那は、頼み込んででも生駒屋さんに載せて貰わなきゃいけないじゃないですか。
>熊:間に合えばな。

案の定、野崎屋は生駒屋の富郎に3回抱き合わせの条件で申し入れを済ませていた。
富郎には、売れると限らない後日譚や外伝に大枚(たいまい)を叩(はた)く気など更々(さらさら)ない。それに、競合商品がいつ出回り始めるかも分かったものじゃないから、のんびり構えてなどいられないのだ。

>野:なんだって、太助どん。一黒屋はこの話には乗ってこない?
>太:はあ。どこか余所(よそ)を当たっておいた方が良いんじゃないかってことです。
>野:別のところってったって、今更思い付くもんじゃないよ。
>太:それなら、続編だけでも良いから生駒屋さんにお願いしちゃった方が良いんじゃないでしょうか?
>野:それじゃあ、それを当て込んで支払ってしまった文士先生の給金(きゅうきん)はどうしたら良いんだ?
>太:そんなことあたしに言われても・・・
>野:それはそうだが。
>太:やっぱり、生駒屋さんにお願いに行った方が良いのでは・・・
>野:それしかないか。生駒屋さんにまで外方(そっぽ)を向かれたら大赤字になってしまうからな。

野崎屋本人が手土産を携(たずさ)えて出向いたが、富郎は別の瓦版に載せると決めてしまった後だった。

>富:柳の下の泥鰌かもしれませんが、美談を載せるという瓦版がありまして、問い合わせましたところ是非にと言われましたので、即決してしまいました。
>野:そんなぁ。
>富:商(あきな)い敵(がたき)のお店(たな)の動向もありますし、早いに越したことはないものですから。実は、野崎屋さんにという然(さ)るお方の薦(すす)めもあったのですが、今回は話が巧く折り合いませんでしたので。・・・もう少し早くお話が出来ていたらお願いできていたのですけれど。
>野:そうなんですか・・・
>富:でも、余所(よそ)様の瓦版で思うような効験が認められましたら、本家の方にも薦めるつもりでいますので、そのときにはお願いしたいと思っています。外伝とかという出涸(でが)らしみたいなのじゃなく、綺麗な町娘かなんかが登場する読み物ができましたら、ご一報くださいまし。
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