31.【い】  『一言(げん・ごん)以(も)って之(これ)を蔽(おお)う』 (2000/06/19)
『一言以って之を蔽う』
たった一言(ひとこと)で全体の意味を言い尽くす。また、その言葉。
出典:論語−為政」 「詩三百、一言以蔽之、曰、思無邪」
出典:論語(ろんご) 中国の経書。20編。各編冒頭の文字を取って編名とした。四書の一つ。孔子の言行や弟子・諸侯・隠者との対話を記したもので、孔子の生前から記録され、その没後、門弟によって編纂されたと推定されている。人間の最高の徳として「仁」を措定し、そこに至る道を、礼と楽とを学ぶことに求める。儒教の原初的な理念、また周代の政治、社会情況を窺い知る上でも、最も基本的な資料。日本には応神天皇16年(285)、百済(くだら)から伝来したという。「円珠経」。
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お雅は待ち構えていたらしく、一声懸けただけですぐに玄関に走り出てきた。

>雅:待ち草臥(くたび)れちまったよ。お前さんたちいつまで花見してるんだい?
>あや:お待たせしました。今晩からご厄介(やっかい)になります。
>雅:まどろっこしい挨拶(あいさつ)は端折(はしょ)っちまっておくれ。もう他人じゃないんだからね。
>あや:はい。
>雅:熊さん、八つぁん、早速頼むよ。さっさと片付けと呉れ。
>熊・八:へい。

極端に家具のない源五郎の部屋には、似つかわしいとは決して言えない、真新しい鏡台が置かれていた。
今日の昼間、源五郎たちと入れ違いに届いたものだと、お雅は説明した。

>八:女将(おかみ)さんも粋なことをなさいますね。
>雅:安さんに作って貰ったんだけどね、不思議そうに顔を眺めるもんで、「あたしが使う訳じゃないから安心おし」って言ってやったら、勝手に恐縮して良いものを作ってきて呉れたよ。
>熊:へえ、こいつは中々立派なもんだ。良い仕事をしてやすねえ。
>あや:お義母(かあ)さん、こんな上等なもの。
>雅:なあに、ぐうたら息子を引き取って貰うんだ、まだまだ足りないくらいさ。
>八:流石(さすが)女将さん、気風(きっぷ)が良いや。
>雅:お前さんたちは、口を動かしてる暇があったら手足を働かしな。それから、運び入れが終わったらちょいと勝手場に行って、台の上にあるものを持って帰ってお呉れ。

勝手場には「寿(ことぶき)」と書かれた角樽(つのだる)が2つ置いてあった。
熊五郎と八兵衛は大八車にご祝儀(しゅうぎ)を積んで、ほくほく顔で長屋へ帰っていった。
あやは居間の卓にお雅と向かい合って座り、用意されていあやのための湯飲みでお茶を飲んだ。

>雅:あたしが嫁に来たとき、前の女将さんからこう言われた。「お前は源蔵の嫁になるためじゃなくて、大工の女将さんになるために来たんだと考えなさい」。
>あや:浮わついてるんじゃないってことですか?
>雅:あたしも小娘だったから、随分ご無体(むたい)なことを言うじゃないかって思ったさ。でもね、言う通りだったよ。亭主に逆上(のぼ)せてる暇なんかありゃしないんだから。
>あや:そんなに大変なんですか?
>雅:いや、それほどじゃないさ。あんたには持って生まれた才能があるから。あたしは何の才能もない、そこいらの小娘だったからね。先(ま)ず最初にすることは誰でも一緒さ。家族のことを覚える。次に出入りの職人のことを覚える。そして棟梁の仕事に纏(まつ)わる一切合財(いっさいがっさい)のことを覚える。最後に、その全部をひっくるめて大工の一年間を組み立てる。
>あや:そこまでやるんですか?
>雅:そうさ。棟梁は仕事が順調なほど外に出る機会が増えるからね。仕事以外の職人たちの家(うち)の内証の些事(さじ)は女将に集まる。だけど、どこかの家で厄介ごとが持ち上がったからといって、家のことを蔑(ないがし)ろにしちゃぁいけない。
>あや:自信なくなっちゃいますね。
>雅:完璧を求めればってことさ。それを全部巧くこなしちまったら、亭主は盆暗(ぼんくら)になっちまう。十のうち七か八くらいできれば上等。
>あや:それだって巧くできるかどうか・・・

>雅:と、ここまでは代々伝わっていること。これからのがあたしからの助言。「大工のおかみさんはでしゃばりくらいの方が丁度良い」。・・・お武家の奥方じゃないんだから、奥床しくなんかしてたら職人の家計が干上がっちまう。
>あや:それならできそうな気がします。
>雅:そりゃそうだ。よっぽど太い神経でもしてなかったら、亭主に内緒で輿入(こしい)れなんかしやしない。
>あや:まるで心臓に毛が生えてるように言いますけど、これでも物凄くどきどきしてるんですよ。
>雅:分かってるさ。平気そうにしてたら、こんな話をここで持ち出しやしないさ。
>あや:いくらか女将の自覚みたいなものが出てきたような気がします。少しは落ち着きました。親方から「出てけ」って言われたらどうしようって、そればかり考えちゃいまして。
>雅:そんなこと言ったら源五郎の方をおん出してやるさ。一晩頭を冷やしてこいってね。
>あや:そう言って頂けると随分気が楽になります。
>雅:あたしも、小娘時分以来、ときめいちまってるんだよ。尤(もっと)も、こっちは飽くまでも他人事で、わくわくしてるって方が近いんだけどね。
>あや:ちょっと悪趣味ですね。
>雅:ちょいとくらい喜ばせて貰ったって罰(ばち)は当たらないだろう? 亭主にだって黙っていたんだ、そのご褒美(ほうび)さ。
>あや:もうどうでも良いです。せいぜい出汁(だし)にしてください。
>雅:そうさせて貰うよ。
>あや:もう、意地悪なんだから。
>雅:あと半時(=約1時間)もしたら帰ってくるだろうから、湯でも使っておくかい?
>あや:そうさせて頂きます。
>雅:棟梁への挨拶は明日で良いからね、せいぜい源五郎を可愛がってお上げなさい。
>あや:もう、お義母さんったら。

あやは湯に浸かりながら「嫁ではなく、大工のおかみさんになるために来たと考えなさい」という言葉を思い出していた。
職人の妻というものは、想像したよりも大変なことなのだと改めて感じていた。

お雅の言う通り、半時ほどして源五郎たちが帰ってきた。
居間で茶を啜(すす)っていたお雅はそれぞれに「お帰りなさい」と言っただけで、いつもと変わらぬ風を装っていた。
戸を開けた源五郎が三つ指を突くあやを見て絶句する頃には、湯飲みと急須(きゅうす)を片付け始めていた。
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