318.【て】 『泥中(でいちゅう)の蓮(はちす)』 (2006.01.16)
『泥中の蓮』
泥の池の中にあっても清らかな花を開く蓮(はす)のこと。
転じて、煩悩(ぼんのう)の汚(けが)れの中にあっても、染まらず清浄を保っている人の喩え。
類:●濁りに染まぬ蓮●沼池にも蓮の華
出典:「
維摩経−中」 「譬如高原陸地不生花、卑湿淤乃生此華」
出典:維摩経(ゆいまぎょう・ゆいまきょう) (詳しくは「維摩詰所説経」) 大乗仏教の初期の経典。3巻。鳩摩羅什(くまらじゅう)訳。他に2訳がある。在家の居士ビマラキールティ(維摩、また維摩詰)を主人公とする。病床にある維摩と見舞に訪れた文殊菩薩との対話を軸として、空(くう)の真義とその立場に立つ菩薩の実践が明らかにされる。「維摩」。
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八兵衛が家主と頓珍漢(とんちんかん)な会話を交わしていた頃、お咲は、内房正道(うちぼうせいどう)のところを訪(たず)ねていた。
勿論(もちろん)、内緒で、である。

>咲:ねえ、ご隠居様。
>内:なんですかな、ご新造(しんぞう)さん?
>咲:その呼び方って、なんだか、くすぐったいわね。
>内:良いではないですか。直ぐに慣れますから。・・・それで? ご用というのは、あれですかな?
>咲:そうですよ。ご隠居様、分かったら教えて呉れるって言ってくだすったじゃない。
>内:そうでしたね。・・・うーん、ですがね、どうしたもんでしょうか?
>咲:それじゃやっぱり、熊さんが言ってたみたいにお旗本か御家人(ごけにん)が絡(から)んでたってこと?
>内:ほう。相変わらず熊さんも勘が良いですな。
>咲:ほんとだったの?
>内:いえ。そうではありません。が、とても近いです。
>咲:ご直参(じきさん)だったってこと?
>内:いえいえ。その辺を捕まえるとなると、数百というお侍(さむらい)が浪人になり兼ねません。そんな大それたことをしたら、世の中が益々不景気になってしまいます。
>咲:でも、捕まえたんでしょう?
>内:はい。お陰様で、咎人(とがにん)として、1人捕らえることはできました。
>咲:どこの人なの?

>内:聞いたところで、詮方(せんかた)もないことですよ。
>咲:それはそうだけど・・・
>内:そういう訳で言っているのじゃありませんよ。・・・あのですね、捕らえた者というのは身代わりなのです。
>咲:下っ端(ぱ)ってこと?
>内:まあ、そうも言います。残念ながら、その家の者ではありませんでした。銭で騙(だま)したのか、弱みに付け込んだのか、兎(と)も角(かく)、殆(ほとん)ど関わりのない浪人者でした。
>咲:何よそれ。それじゃ、ちっとも片付いてないじゃない。
>内:そんなこともありませんよ。親玉(おやだま)は謹慎(きんしん)ということに決まりましたからね。
>咲:そんなんで良いの?
>内:良いのです。もう誰もそやつに加担(かたん)する者はいません。臭いものに集(たか)ってきていた蝿(はえ)どもも、・・・あ、商人たちのことですが、その何人かは若隠居するようです。
>咲:じゃあ、あの田楽(でんがく)屋も?
>内:ああ。あれは小物ですから、お構いなしです。
>咲:そうなの。ふうん。・・・これ以上聞いても教えて貰えそうにないわね。
>内:生憎(あいにく)ですけど、そういうことです。
>咲:それじゃ、仕方ないわね。あたしもここまでにして、もう首を突っ込まないようにするわ。
>内:賢明(けんめい)ですね。お咲さんや熊さんには、銭塗(まみ)れの悪人どもとは関わって欲しくないのです。
>咲:そいつらを懲(こ)らしめる方だったら、構わないでしょう?
>内:そちらの方も、程々に。・・・あ、そうそう。美味しい塩引きが届いたんですが、2・3本手土産にお持ちください。

お咲は、飴玉1つで丸め込まれた小娘のように、好いようにあしらわれて帰途に着いた。
塩鮭(しおざけ)を3本も持たされて、歩き難(にく)いことこの上ない
お咲は、そのお荷物を、あやのところと長屋のお花にお裾分けがてら、上がり込んで憂(う)さを晴らすつもりだった。

あやに向かって散々愚痴(ぐち)を零(こぼ)して、少しは気も晴れた。
帰ろうとすると、あやから呼び止められた。

>あや:ちょっと待って、お咲ちゃん。
>咲:え? 手土産はご免蒙(こうむ)るわよ、あやさん。もう何も持ちたくないの。
>あや:そうじゃないから安心して。・・・ちょっとした頼みごとがあるのよ。
>咲:なになに? 面白そうなこと?
>あや:こんなこと言ったら怒られちゃうんだけど、ちょっとは面白いかも知れないわね。
>咲:どんなこと?
>あや:あのね、三吉さんが転(ころ)んで怪我(けが)をしちゃったそうなの。
>咲:大事(おおごと)なの?
>あや:足の骨を痛めちゃったそうだから、暫(しばら)く歩けそうにないのよ。
>咲:あたしに面倒を見ろってこと?
>あや:真逆(まさか)。三吉さんは親方のお弟子さんですもの、お咲ちゃんにそんなことは頼めないわよ。
>咲:それじゃあ・・・。あっ。お町ちゃんに?
>あや:それよ。頼んでみて貰えないかしら?
>咲:そういう話だったら喜んで力になっちゃう。・・・うふっ。なんだか面白そう。
>あや:後で、様子を聞かせてね。
>咲:合点承知之助

そんなことになっているとは露知らず、八兵衛たちは「犬小屋」造りに励(はげ)んでいた。

>八:なあ熊よ。茶の湯とか言う代物(しろもの)は、若い娘が習いたがるもんなのか?
>熊:なんだよ、藪から棒に。お前ぇ、お花ちゃんが身重(みおも)だからって、若い娘にちょっかい出そうなんて言い出すんじゃねえだろうな?
>八:そんなんじゃねえや。さっき、弟子(でし)が直ぐに集まる風な話をしてやがったからよ。
>熊:まあ、玉の輿に乗りてえってのも、結構いるんだろうからな。集まるんじゃねえの?
>八:そうだよな。近頃じゃ、お殿様に見初められようってんじゃなくて、どこぞの若旦那を誑(たら)し込んじまおうってんだからな。世も末だよな。
>熊:そうかと思えば、柔術だか体術だかのお師範もやれるのに、しがねえ大工の女房に納(おさ)まっちまうのもいるってのにな。お前ぇの女房にしちゃ出来た女だよな。。勿体(もったい)ねえ
>八:何が「しがねえ」だよ。おいらだってな、行く行くは弟子を取って立派な親方になる身なんだからな。言ってみりゃ玉の輿みてえなもんじゃねえか。
>熊:言ってろ。

>八:でもよ、ひょっこりと大工の弟子になりてえって言ってくる奴はいねえもんかね?
>熊:なんだ、お前ぇ、やっぱり親方になりてえんじゃねえか。
>八:そりゃあなりてえさ。・・・なんだかよ、お前ぇんとこの「迷惑千万(めいわくせんばん)」を見てるとよ、若いもんに教え込むのも楽しみなもんだなって思っちまってよ。
>熊:そう呼ぶなってんだ。それによ、もう足手纏(まと)いでもなんでもねえんだからな。
>八:なに言ってやがる。まだまだ駆け出し毛が生えたようなもんじゃねえか。
>熊:まあ、そうでもあるがな。
>八:肩書きとかそんなもんはどうでも良いんだがよ、おいらなんだか教えることの喜びに目覚めちまったみてえなんだよな。
>熊:そんなら、当面の間は四郎で我慢(がまん)しとけ。
>八:夕顔の実をか? ・・・うーん。まあ、誰もいねえんじゃそうするより仕方ねえか。なんだか、物足りねえがな。
>熊:贅沢(ぜいたく)言ってるんじゃねえっての。

>八:あっ、そうだ。
>熊:今度はなんだ?
>八:お花が稚児(やや)を産んじまった後の話だがよ、弟子でも取らしてみようかなと思ってよ。
>熊:柔術のか?
>八:そうよ。そんでもってよ、使いもんにならねえのを大工にしちまおう。
>熊:お前ぇなあ。柔術をやろうって奴が大工になろうとするか?
>八:そんなの聞いてみなくちゃ分からねえじゃねえか。・・・うっしっし。こりゃ、わんさか来るぞ。
>熊:そんなのは千場道場にでも任しときゃ良いの。お前ぇは余計なことなんかするな。
>八:そんじゃ、猪ノ吉どんに頼んでみて呉れよ。余った弟子を寄越(よこ)せって。
>熊:武芸の道を究(きわ)めようって奴に、そんな生半可なのはいねえの。
>八:そうかなあ。おいらは、人を痛め付ける修行をするよりも、人様のために家(うち)を建てる方が良いと思うけどな。
>熊:人を痛め付けるんじゃなくって、お国を守るためなの。
>八:浪人の倅(せがれ)ばっかりでもか? 守る国なんか持ってねえんだぞ。上手く仕官(しかん)できるのだってこれっぽっちもいねえんだぞ。
>熊:うーん。そりゃそうかも知れねえが、それぞれの思いもあるんだろうよ。おいらたちが立ち入って良い話じゃねえ。
>八:早々に、見切りを付けりゃ良いのにな?
>熊:勝手なこと言うなっての。
>八:腕っ節も良さそうだし、良い大工になれるんだけどな。

相も変わらず手前勝手な男である。熊五郎は呆れ果ててしまった。

>熊:千場道場で思い出したんだがよ、お花ちゃんは骨接(つ)ぎなんか出来るんじゃねえのか?
>八:ああ、多分な。それがどうした?
>熊:三吉のこと見て貰っちゃどうだ?
>八:おお、そうか。おいらすっかり三吉のことなんか忘れてた。
>熊:お前ぇなあ。弟弟子が可愛くねえのか?
>八:可愛くなんかあるもんか。自分の弟子ってことなら話は違うんだがよ。
>熊:そんなことじゃ立派な親方になんかなれやしねえぞ。
>八:そんな訳あるか。大工の親方が孔子様みてえに偉くなきゃあいけねえなんて誰が決めたってんだ。
>熊:誰も決めちゃいねえがよ、何も孔子まで持ち出すことはねえだろ?
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