234.【し】 『白羽(しらは)の矢(や)が立(た)つ』 (2004/05/31)
『白羽の矢が立つ』
1.多くの中から、犠牲者として選び出される。 
2.多くの中から、特に指名して選び出される。また、狙いを付けられる。
俗説:神に人身御供(ひとみごくう)として望まれた女の家には、白羽の矢が立った。
*********

好物(こうぶつ)の筍(たけのこ)が目の前に出されたというのに、半次は浮かぬ顔をしていた。
「だるま」の亭主の魂胆(こんたん)を熊五郎に明かすべきかどうか、迷っていたのである。

>半:なあ、熊さんよ・・・
>熊:なんだ、鰹(かつお)なんか食っちまったもんだから、箸(はし)が進まねえか?
>半:そういう訳じゃねえんだがよ。
>熊:じゃあなんだ? 松つぁんのとこの稚児(やや)を見たら、自分とこも欲しくなっちまったんだろ、え?
>半:ま、まあな。跡取りも良いけど、娘も可愛いな、確かに。
>八:良いよな、お前ぇには嫁がいてよ。
>半:なんだよそりゃ。そんなもん、自分でなんとかして呉れよな。
>八:そりゃそうだ。ご尤(もっと)もご尤も。

八兵衛が混じると、どうしても話が脇道(わきみち)に逸(そ)れてしまう。

>半:なあ熊さん、今日の八つぁんはどうかしちまったのか? 拗(す)ねてみたり、妙に物分かりが良くなったり。
>熊:いよいよ焦(あせ)ってるんだとよ。
>半:焦ってどうなるもんでもねえじゃねえか、そんなの。
>八:そんなのとはなんだ。こちとら、本気も本気、短気も損気なんだからな。
>半:なんだそりゃ?
>熊:動揺してるのよ。
>半:野郎ばっかりで飲んでるだけだってのに、どうして動揺することなんか・・・。ははあ。するってえと、あれか?
>熊:そうなんだとよ。
>半:こりゃまた。いつものことにならなきゃ良いがな。
>友:あの。・・・その「いつものこと」ってのは、どんなことなんですか?

>半:友助さんはこの「だるま」の看板娘を誰と誰がしてたか知ってるかい?
>友:お夏という方と、その前がうちの姐(あね)さんだと聞いてます。
>半:その全部に逆上(のぼ)せ上がっちまってるのさ。
>友:だって、姐さんは親方の・・・
>半:親方とくっ付くのに、半年も掛かったんだぜ。その間、淡い恋心を抱いていやがったのさ。
>八:何を言ってやがるかね。姐さんは端(はな)っから親方にぞっこんだったってのに、それを知ってておいらが横恋慕(よこれんぼ)なんかするかってんだ。
>半:でも、次はお夏ちゃんで、お夏ちゃんがいなくなったらお花ちゃんか? 分かり易い男だねえ。
>八:五月蝿(うるせ)えや。仕方がねえだろ。どういう取り合わせだか知らねえが、好い女ばっかりが来るんだからよ。
>半:そうか?
>八:そうなの。・・・なあ、三吉?
>三:お、おいらに聞きますか? ・・・ええ、まあ。でも、おいらはやっぱりお夏ちゃんが一番だと思いますよ。それから、お咲ちゃんだって。
>半:ほお、しっかりとお咲坊のことまで付け足すじゃねえか。こいつ、胡麻磨(ごます)りの骨(こつ)も弁(わきま)えてやがら。
>熊:お前ぇらなあ。そんなことをぐだぐだと言ってねえで、黙って鰹でも食ってろってんだ。
>友:やっぱり、熊五郎さんとお咲ちゃんはそういう間柄だったんですね?

結局そういう話になってしまった。
好い加減酔っ払ってきた八兵衛が三吉に命じて、お咲を迎(むか)えに行ってこいということになった。

>三:そういう話になると、いっつもおいらじゃないですか。偶(たま)には四郎にでも行かせてくださいよ。
>四:おいらは構いませんよ。行ってきましょうか?
>八:お前ぇと松つぁんは、今日の主役じゃねえか。そんなもんを使いっ走りになんか遣れる訳がねえだろ?
>友:それじゃあ、私が行って参りましょうか? まだそれほど酔ってはいませんから。
>八:そりゃぁ駄目だよ、友さん。最年長の人を使いになんか出せねえよ。
>熊:そんならお前ぇが行ってくりゃ良いじゃねえか。おいらは、今日はくたくただから一遍(いっぺん)帰ったら戻ってこられねえぞ。
>八:おいらだって、三吉の分まで働いたからくたくただぞ。・・・な? そういうことだからよ、三吉、お前ぇしかいねえの。戻ってきたらたっぷり飲み食いさせてやるからよ。
>三:分かりましたよ。八兄いのご上位(じょうい)なら仕方がねえですよね。・・・でも八兄い、今日の仕事は八兄いとおんなじくらいできましたから、2人分働いたなんてことは言わないで貰いたいですね。
>八:あれ、そうだったっけ? あそっか、今日は角蔵棟梁(とうりょう)のとこに行ってたんだっけな。忘れてたぜ。
>三:こんなんだもんな。有り難味もへったくれもあったもんじゃねえな。・・・そんじゃ、行ってきますぜ。
>八:頼んだぜ。・・・あ、そうだ。なんなら、六さんも連れてきて呉れ。傘張り浪人じゃ鰹なんか食えやしねえだろうからな。
>三:へーい。

先ほどからあまり話に加わろうとしていなかった松吉は、三吉の出て行ってからもだんまりを続けていた。

>熊:どうしたんだよ、松つぁん。寝不足か?
>松:ん? ああ。そういうことじゃねえんだよ。・・・なあ、稚児の名前ってのはどういう風に決めるもんなんだ?
>熊:そうだな。親や爺(じい)ちゃんの名前の一字を取ったり、贔屓(ひいき)の役者や相撲取りの名前を貰ったり、然(さ)もなきゃ、世話になってる親方に名付け親になって貰うとか、そんなもんじゃねえのか?
>松:そうだよな。おいらんとこは、女だから難しいよな。「松」じゃ変だし、数の「五」「六」に、字こそ違うが「なな」だぞ。別に、決まった親方がいる訳でもなし、役者とか相撲なんか見たこともねえ。考えりゃ考えるほど行き詰まるんだよな。
>熊:そんなもんかね。うちの棟梁なんか、20も30も考えたっていうぜ。分けて貰っちゃどうだ?
>松:30もか? 
そいつは凄(すげ)えな。・・・ってことは、四郎んとこの倅(せがれ)ってのは、棟梁が名付け親か?
>熊:そういうことだ。
>四:「元吉」って付けていただきました。
>松:へえ。中々好い名前じゃねえか。
>熊:謂(いわ)れを聞かなきゃぁな。
>松:なんか変な訳でもあるのか?
>熊:い、いや。元吉の為だ。そればっかりは聞かねえで呉れ。おいらに喋(しゃべ)らせねえで呉れ。
>松:そんなに凄(すげ)えのか? ・・・そんじゃあ、止(や)めとく。
>熊:もしかすると、菜々ちゃんが考えてるかも知れねえじゃねえか。決めて貰え、な?
>松:だがな。菜々が言うには、稚児の名前は父親(てておや)が決めるもんでしょう? だとよ。
>熊:なんだよ、考えてもいねえのか。・・・うちの大女将(おおおかみ)とは豪(えら)い違いだな。爪の垢(あか)でも・・・
>四:熊兄い、それ以上は言わない方が・・・。噂をすれば影が射すとか言いますし。
>熊:あの人がこんなとこに来る筈はねえだろ、幾らなんでも。
>四:でも、地獄耳だそうですから。

「鰹」と聞いて、お咲と六之進は勇(いさ)んで駆け付けた。
なんといっても、初鰹は、江戸の者にとっての「粋(いき)」なのである。

>六:ど、ど、どうして、このような小汚いところに初鰹が出回っておるのか?
>八:なんだよ、六さん、そんなんでも武士の端くれなんだろう? 見苦しいぜ。
>六:そんなことはどうでも好い。1切れ、いや、できれば2切れ摘(つ)まませて呉れ。
>熊:どうぞどうぞ。今日は、親方から多少の飲み代(しろ)を貰ってきてるんだ。鰹の一尾(び)や二尾、どうってこはねえ。
>六:本当だな、熊さん。良いんだな? 武士に二言はないな?
>熊:おいらたちは武士じゃねえってんだ。
>六:この際、そのようなことはどうでも宜(よろ)しい。さ、咲、お前もいただきなさい。
>咲:はーい。・・・それじゃあ、お花さーん、お銚子4本くらい出してーっ。
>熊:なんだ、飲むのか?
>咲:決まってるじゃない。お祝いなんだもの。
>熊:いやはや。次には五六蔵んとこのが控(ひか)えてるってのに、またこんなことになっちまうのかな?
>咲:え? 五六ちゃんのときもお祝いの会をやるの? あたしも出る。明日? 明後日(あさって)?
>熊:そんなもんは聞いてみなきゃ分からねえが、多分、明日になるだろうよ。
>咲:凄い凄い。二日も続けて鰹が食べられるの? どこかのお大名様みたいじゃない。

>松:なあ、六さん。頼まれちゃ呉れねえか?
>六:頼みごとか? 今、忙(いそが)しいのだ。後にして呉れぬか?
>松:後でもなんでも良いんだが、うちの娘の名付け親になっちゃ呉れねえか?
>六:なんと。
>熊:おい松つぁん、そりゃあ・・・、いや、そんなんで良いのか?
>咲:「そんなの」とは何よ。
>熊:あ、いや。言葉の綾(あや)ってやつよ。別に深い意味はねえ。
>松:おいらの知り合いの中で、一番正面(まとも)に考えて呉れそうなのは六さんしかいねえんだ。なあ、頼むよ。
>咲:あたしも手伝ってあげる。
>熊:それは止(よ)せってえの。
>咲:なんでよ。
>熊:こういうもんは何人もで考えると、こんがらかっちまうもんなの。
>咲:そうなの? つまんないな。
>半:俺は、六さんに任せるってのに賛成するぞ。・・・なあ、頼まれてやんなよ。
>六:そうか? そうまで頼りにされては無下(むげ)には断れぬな。良かろう。引き受けるとしよう。
>松:助かるぜ。これで今夜は枕を高くして眠れるな。

>八:だがよ、六さん。飲み過ぎて何を頼まれたか忘れちまったなんてことにはなるなよな。さもなきゃよ、二日酔いが酷(ひど)くって、人のことなんか考えちゃいられねえってことになるんじゃねえのか?
>六:何を抜かすか。こう見えても、少しは酒も強くなっておるのだ。
>八:そんじゃ、飲み比べでもしてみるかい?
>六:半(なか)ば酔っ払いだからとて、手心など加えぬからな。舐(な)めて掛かる痛い目を見るぞ。
>八:面白(おもしれ)えじゃねえか。・・・お花ちゃーん、銚子を6本ばっかり出して呉んな。

そうして案の定(じょう)、八兵衛も六之進も、べろべろに酔っ払い、それぞれ熊五郎と松吉に背負われて帰った訳である。
つづく)−−−≪HOME