209.【さ】 『三顧(さんこ)の礼(れい)』 (2003/12/01)
『三顧の礼』
目上の人が、ある人物に礼を尽くして仕事を頼むこと。また、目上の人が、ある人物を特別に信任したり、優遇したりすること。
類:●三顧
故事:「蜀志(三国志)−諸葛亮」 中国の蜀の劉備(りゅうび)が諸葛孔明の庵を三度訪れ、遂に軍師として迎えた。
人物:諸葛亮(しょかつりょう)・孔明(こうめい) 中国、三国時代の蜀漢の宰相。181〜234。亮(りょう)は名、字は孔明。諡(おくりな)は忠武。襄陽の隆平に隠れていたが、蜀漢の劉備の三顧の礼に応じて仕え、戦略家として活躍し、天下三分の計を説き、孫権と連合して赤壁の戦に曹操を破った。後、五丈原で司馬懿(しばい)と対陣中病没。著「諸葛武侯文集」。
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八兵衛が酔っ払ってしまわない内に普請奉行・藤木について話し合っておこうと、伝六が提案した。
酔っ払っていなくても、逆上(のぼ)せ上がってしまっている八兵衛では、どちらにしろ
役に立たなかろうがと、内心で呟いていたのだけれど。
それじゃあ自分の方から説明を始めようかと、伝六が咳払いしたところに、鹿之助が現れた。

>鹿:やあ済まぬ済まぬ。予想以上に手間取ってしまって、出るのが遅くなってしまった。
>猪:お前が来るとは思っていなかったがな。
>熊:端(はな)から期待してなかったぞ。
>鹿:そりゃあないよ、熊さん。鴨太郎からあれだけ念を押されてしまっては、手伝わない訳にもいかんだろう。
>猪:お前が本当に協力するとはな。変われば変わるもんだな。
>鹿:妹から「お負け」呼ばわりだけはされたくないからな。
>猪:ほう。見上げた根性だな。
>熊:お夏坊ほど役に立つかどうかは分からんがな。
>鹿:そう舐(な)めて掛かられては困る。これでも少しは役所では顔が利くのだからな。
>熊:小役人の癖に。
>鹿:もう小役人ではない。
>猪:おいおい、そのくらいにしておけ。酒が不味(まず)くなる。・・・そうだろ、八つぁん?

>八:あん? ああそうだな。
>熊:なんだよ。気のねえ返事しやがって。もうちょっとしゃんとしやがれ。
>八:おいらのどこがしゃんとしてねえってんだ?
>熊:全部だ。何処も彼処も、丸々全部だよ。
>八:蛸(たこ)の徹右衛門じゃあるめえし。くねくねしてなんかいねえぞ。
>熊:ああそうだな。分かった。もう言わねえ。・・・鹿之助、こいつのことは放っておいて、早速(さっそく)話に掛かろうじゃねえか。
>伝:それじゃあ、先ずおいらの方から、大雑把(おおざっぱ)にお話ししやしょう。栗林の旦那は、足りねえとこを補ってくだせえやし。
>鹿:承知した。

伝六が語ったのは、藤木嘉秋を巡る人間関係の複雑怪奇について、である。
梅雨の時期に関わりのあった勘定組頭・林田主税(もんど)と勘定吟味役・亘理(わたり)信之助から始まって、川田塩十やその他老獪(ろうかい)の錚々(そうそう)たる名前が挙(あ)がった。
猪ノ吉は、聞いたことのある名前を耳にする度に、「へえ」や「ほう」という声を漏(も)らしていた。

>熊:そんなに凄(すげ)えことなのか?
>猪:当たり前だ。代々幕府から覚えの目出度(めでた)い家柄ばかりじゃねえか。
>鹿:そうだ。上手く立ち回りさえすれば、幕府の転覆(てんぷく)だって夢じゃない。
>熊:そ、そんな大それたことなのか?
>鹿:仮定の話だ。そう考えていたかどうかは知らん。
>伝:こいつも噂なんでやすが、若年寄とも繋(つな)がりがあったようなんでやす。
>咲:堀田摂津守(せっつのかみ)?
>鹿:知っておるのか?
>咲:勿論(もちろん)よ。随分と、陰でこそこそやってるみたいじゃないの。
>鹿:その通りだ。・・・これは、拙者たちの間では、口にしてはいけないことになっている話なのだ。
>咲:口止めされてるの?
>鹿:そうじゃない。誰も己(おのれ)の立場が大事なのだ。上から睨(にら)まれたら、お終(しま)いだからな。
>咲:悪事と知ってて見逃してるってこと?
>鹿:恥ずかしいことだが、その通りだ。
>咲:それじゃあ・・・
>鹿:そう責めないで呉れ、お咲ちゃん。役人というのは、そういう性格の生き物なのだよ。

お咲も、それ以上鹿之助を責められなかった。
しかし、情報源として一番頼りになりそうな鹿之助がそれでは、今後の先行きが
覚束(おぼつか)ない

>猪:なあ。それじゃあ、これからどうするんだ?
>伝:おいらは引き続き、普請奉行が出掛けた家や料亭なんかを調べやす。お咲ちゃんには、おいらの手伝いをして貰うつもりです。・・・良いだろ、お咲ちゃん。
>咲:合点(がってん)承知の助
>猪:それは良いとして、俺たちがどうするかってことだな。
>熊:嘉剛(よしたけ)のことを使っちゃどうだ?
>猪:あいつなんかじゃ、どうにもならねえよ。会えても親父(おやじ)の嘉道が関の山だ。あの親父は、奉行の使い走りすらさせて貰ってねえだろうよ。
>熊:駄目か。

>鹿:私がなんで後れてきたのかなんて、考えたこともないだろうな、熊さん。
>熊:ん? どういうことだい?
>鹿:根回しに決まってるだろう。
>熊:根回しってえと?
>鹿:藤木の誘いを断ったという実直な人がいると聞いてな。頼みに行ってきたのだ。
>熊:鹿之助がか? はあ。ほんとに人が違ったようだぜ。
>猪:それで? 協力して呉れるというのか?
>鹿:最初は断(ことわ)られた。昼飯時なら掴まるだろうと思って行ってみたんだが、話だけは聞いて呉れた。それで、この人なら必ず協力して呉れると思ったので、夕刻にもう一度頼みに行った。
>熊:請(う)けて呉れたか?
>鹿:散々粘ったのだが、首を縦に振っては呉れなかった。
>猪:なんだよ。結局駄目なんじゃねえか。
>鹿:そうじゃないよ。成果がなければここに来たりするものか。
>猪:それじゃあ・・・
>鹿:屋敷まで押し掛けたのだよ。分かってくださった。あまり表立っては無理だが、なんらかの手伝いはして呉れると約束してくださった。
>熊:やって呉れたな。見直したぞ、鹿之助。
>猪:なんとかいう唐(から)の国の話に、こんなのがあったな。
>熊:『通俗三国志』か? 市毛道場の若先生に聞いたら、半日喋(しゃべ)り続けるぞ。
>猪:そいつは遠慮しとく。・・・しかし、まるでその話みてえじゃねえか。
>鹿:持ち上げ過ぎだよ。そっちは、将軍様が一介(いっかい)の学者に3回も頭を下げたってのだろう? 拙者のような一介の役人に当て嵌(は)めては、あの方に失礼というものだ。
>猪:ほう。一丁前に謙遜(けんそん)しやがるじゃねえか。

>熊:それはそうと、その方はなんというお方なんだ?
>鹿:家島様と仰(おっしゃ)る。寺社奉行所の与力をなさっている。
>熊:なんだと? 家島様なのか?
>鹿:知っているのか?
>熊:知ってるも何も、なあ、八。
>八:なんだ、鹿の字はそんなことも知らねえのかい? その人の兄貴ってのが、昨夜(ゆうべ)話してた小豆(しょうど)の旦那じゃねえかよ。
>猪:なんだって? それじゃあ、まるっきり無関係って訳じゃねえんじゃねえか。
>熊:そういうこったな。義理とはいえ、甥(おい)っ子が難儀してるんだ。助けてやるのは縁者として当然のことだな。
>鹿:では、その小豆様の屋敷で会うということなら、不自然なことじゃないのだな?
>熊:そういうことだ。
>八:へへ、段々話が面白くなってきやがったな。そう来なくちゃな。
>熊:それじゃあよ、近々おいらと八とで小豆の旦那のところに行ってくるからよ。家島様との連絡は、小豆の旦那にやって貰うことにする。そして、集まる日取りが決まったら、猪ノ吉と伝六に知らせを出す。こんなとこでどうだ?

>猪:決まりだな。
>鹿:そうすると、私の役目はもう終わりか?
>熊:立派な人を探し当てて呉れたじゃねえか。もう十分だ。
>猪:上から睨まれたら、生きていけねえ生き物なんだろ?
>鹿:それでは、鴨太郎との約束が・・・
>猪:もう十分だって言っただろ? 鴨太郎だって文句は言わねえさ
>鹿:だが、夏に対する兄の面目(めんぼく)というものが・・・
>熊:そんなの、端からねえんだから構うこたぁねえって。
>鹿:しかし・・・

鹿之助はしょんぼりしてしまった。
そんな鹿之助を見て熊五郎は、家島に頼んで、花を持たせるように計らって貰おうかと、考えていた。

>八:なあ、おいら思うんだけどよ。小豆の旦那と家島様が揃(そろ)うと知ったらよ、内房のご隠居が混ざりたいって言い出すんじゃねえかな?
>熊:お前ぇが呼びてえんだろ?
>八:なんてったって「臭(くさ)い仲」だからな。
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