192.【こ】 『呉下(ごか)の阿蒙(あもう)』 (2003/08/04)
『呉下の阿蒙』[=旧阿蒙(きゅうあもう)]
「阿」は相手を親しんでいう言葉。昔ながらで進歩のない人物。学識がないつまらない者。 例:「呉下の阿蒙に非(あら)ず」
類:●呉下の旧阿蒙
★「阿」は発語<大辞林(三省堂)>
故事:三国志−呉書・呂蒙伝・注」 昔、中国の呉の魯粛が(ろしゅく)が呂蒙(りょもう)に遇って談議し、呂蒙のことを武略に長じただけの人物と思っていたが、今は学問も上達し、嘗(かつ)て呉にいた時代の君ではない、と言った。 
出典:呉書(ごしょ)→ 三国志(さんごくし) 中国の正史。65巻。西晋の陳寿(ちんじゅ)撰。魏・呉・蜀三国の歴史。魏志30巻、呉志20巻、蜀志15巻から成る。魏志の「東夷伝−倭(魏志倭人伝)」は日本に関する最古の文献の一つ。
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次の雨の日、「御用聞きに出掛けてきやす」と源五郎に断(こと)わってから、熊五郎は長屋へ取って返した。
お咲の元へは、丸に「金」の焼き鏝(ごて)が捺(お)された桐箱(きりばこ)が2つ届けられていた。

>熊:安兵衛父(とっ)つぁんも、なんだかんだ言いながら、良くやって呉れたもんだな。見てみろよ、蓋(ふた)がぴたっと嵌(は)まってるだろ? 並みの腕じゃ、こうはいかねえな。
>咲:死に損(ぞこな)いなんて言ったら、罰(ばち)が当たるわね。八つぁんったら、口が悪いにも程があるわ。
>熊:まったくだ。そのうち痛い目に遭うな、ありゃ。
>咲:・・・父上、ちょっと頼まれ物を届けに行ってくるわね。
>六:傘貼りの娘がどうして桐箱など扱わなければならんのだ? それに、昨夜の得体(えたい)の知れぬ男はなんなのだ?
>咲:そんなこと、話が長くなって大変だから、今度落ち着いたときに講釈してあげるわ。
>六:熊さん、昨夜(ゆうべ)からこの調子なのだ。熊さんからも何か言って呉れぬか?
>熊:へ? あ、あのですね。昨夜の男というのはですね、坂田太市様という方でして、内房のご隠居と縁(ゆかり)のあるお人なんです。ちょいとばかし訳ありでして。ご当人が届ける訳にはいかねえってことで・・・
>六:曰(いわ)くありげな言い方だな。後ろ暗いものではあるまいな?
>熊:真逆(まさか)。そんなもの引き受けやしませんって。
>六:本当であろうな? こちらが気付かないうちに、賂(まいない)の片棒を担(かつ)がされたりはせんだろうな?
>熊:大丈夫ですって。太市の旦那は、天地が引っ繰り返っても悪事なんかできないお人ですから。
>六:そうは言ってもな。年頃の娘を持つ身になってお呉れよ。心配で心配で、仕事にも身が入らぬのだ。
>咲:父上ったらもう、そんなこと言ってたら、あたし、いつんなったってお嫁にも行けないじゃない。
>六:うむ。いっそのこと嫁になど行かずにここで暮らしてはどうか?
>咲:そんなことできる訳ないじゃないの。・・・さ、出掛けましょ、熊さん。

六之進は潤(うる)んだ目をして、娘と熊五郎の背中を見送った。
そんな調子では、今日の傘貼りはあまり捗(はかど)らないに違いない。
熊五郎たちは、先ず「金太楼」に寄って「大金餅」を4つ買って、桐箱に納(おさ)めて貰った。もう1つの桐箱には、八兵衛が拵(こしら)えた木の切り餅4つが納められていた。

>咲:ねえ、親爺(おやじ)さん。1箱100文(=約2千円)で売れたら、半分は親爺さんに返すからね。
>店主:ひゃ、100文ですって? どっからそんな法外(ほうがい)な値(ね)が出てくるんですか? 大福のお代はたったの16文なんですよ。そんなに高く売れる訳ないじゃありませんか。
>熊:お夏坊は1箱50文って言ってなかったか?
>咲:だって、この箱とっても良くできてるんだもん。安兵衛さんに50文払ったって罰は当たらないわ。それとも何? 八つぁんみたいに、死に損ないなんて言うんじゃないでしょうね?
>熊:そうは言わねえさ。しかし、100文でなんか買うのか?
>咲:買うわよ。なんてったって評判の「大金餅」なんですもの。ねえ、親爺さん。
>店主:それにしてもですよ。そんな高価なものにしてしまったら、他のお客様が来なくなってしまいます。
>咲:あら。だって、1個4文ってのまで変えたりはしないでしょう? ご贔屓(ひいき)さんたちからは、今まで通りのお代を取れば良いのよ。
>店主:はあ。
>咲:でも、100文の方を欲しがる客が増えたりなんかするかもね。
>店主:真逆(まさか)。
>咲:そういう噂って、物凄い勢いで広がるって言うもんね。
>熊:「悪事千里を走る」か。然(さ)もありなんだな。
>咲:「豪華大金餅詰め合わせ、1箱100文」ってのも、貼り紙しといた方が良いかもよ。
>店主:そんな、滅相もないことですよ。そんなもの貼れますか。

駿河台小川町界隈で、擦(す)れ違った棒手(ぼて)振りを呼び止めて、林田と亘理の両家の様子を聞いてみた。
近頃、両家とも金回りが良くなったらしく、「気前良く買い取って貰ってやすよ」とのことだった。
特に林田の内儀(ないぎ)は、化粧品や小間物を買い漁(あさ)っているらしい。「言っちゃあなんだが」と前置きしながら、「まったく、年を考えて呉れってんだ」と、半ば呆れている風だった。

>咲:決まりね。あたし、勘定組頭・林田のお内儀のところに行く。
>熊:何も今日の今日に売り付けなくたって良いんだからな。組頭ご当人に会う段取りだけ付きゃあ、それで十分なんだぜ。
>咲:分かってるわよ。・・・でも、欲の深いお内儀様だったら、桐箱の意味にも気が付くでしょう? そういうことなら、もうこっちのものよ。
>熊:危なくはねえのか?
>咲:大丈夫よ。生駒屋の白粉(おしろい)を1包み持ってきてるの。きっと、池の鯉みたいに口をぱくぱくさせながら乗ってくるわ。
>熊:なんなら、一緒に付いていくぜ。
>咲:大工の半纏を着て? それこそ怪しいでしょ? お夏ちゃんが言った通り、雨漏(あまも)りの直しでもしといて。

饅頭屋の御用聞きなど聞いたことがないと、お内儀は怪訝(けげん)そうにお咲を招(まね)き入れた。
お近付きの印にと、下女に持たせた白粉が効(き)いたのである。

>咲:奥方様は「大金餅」と「小金餅」という名前の大福餅のことを、お聞きになってはいらっしゃいませんでしょうか?
>内儀:おお、聞いたことがありまするぞ。この辺りでは遠いこともあり、まだ誰も食べたことはないようであるが、いずれ人を遣って買ってこさせようと思っていたところです。
>咲:そうで御座いますか。評判がこの辺りまで届いているとは、感慨も一入(ひとしお)で御座います。
>内儀:それを担いで売っておるというのですね? それでは、試しに1ついただいてみましょうか。
>咲:いえ。実はですね、今日お持ちしておりますのは、これから商(あきな)い物として売り出すもので、まだ誰にもお売りしていないものなので御座います。
>内儀:なんと? 特別な代物(しろもの)を入れておるのか?
>咲:そういうことでは御座いません。先(ま)ずはこれをご覧ください。
>内儀:おお、これはなんとも見事な箱造りでありますね。
>咲:有難う存じます。腕の確かな指物師(さしものし)に作らせました。「豪華大金餅詰め合わせ」で御座います。
>内儀:ほう。大層な名前でありますね。
>咲:お恥ずかしゅう御座います。何分(なにぶん)にも、店主が無粋(ぶすい)の者ですので。ですが、この箱は、特別仕立てのものでして、大福餅を食べてしまった後、何かと役に立つように設(しつら)えて御座います。
>内儀:ほう。それはどういうことでありましょうや?

>咲:このような用途でお使いになれる方というのは、そうざらにはいらっしゃいません。こちらのような、特別にご立派なお宅でしか使い道がないかも知れないのです。もう1つの箱をご覧くださいませ。・・・良いですか? 開けますよ。
>内儀:こ、これは・・・
>咲:お望みの方には、10箱一揃(そろ)いで、1箱辺り100文でお分けしたいと考えておりますが、いかがで御座いましょう? こちらの旦那様のお役に立つとはお思いになりませんか?
>内儀:わ、わたくしの一存ではなんとも・・・。しかし、きっと、きっと・・・
>咲:2、3日中に残りの8つをお持ちできると思います。奥方様の方からもお口添えいただけると有り難いのですが?
>内儀:分かりました。では先ず、この2箱はわたくしが食べたいと思いますので、一先ず200文だけお支払いしましょう。・・・それから、これはここだけの話ですが、当分の間、他の屋敷には売りに参られぬよう頼みたいのですが、いかがでしょうか?
>咲:承知いたしました。次の10箱を作るのは、半月後ということにいたします。

巧く事が運んだと聞いて、熊五郎は、その足で鴨太郎のところへ回ることにした。
鴨太郎は、今日も番所で鼻毛を抜いていた。

>熊:そんなに毎日鼻毛を抜いてたら、鼻がすーすーして風邪を引くぞ。
>鴨:お? おう、熊じゃねえか。なんだ、大工は開店休業か?
>熊:何を言ってやがる。こっちはこれから大仕事に掛かろうってのによ。お前ぇがそんな唐変木だからお夏坊が苦労してるんじゃねえか。
>鴨:なんだ? お前ぇも勘定組頭たちの一件に関わろうって言うのか? 止せ止せ。大工風情(ふぜい)が関わってどうにかなるような相手じゃねえ。
>熊:悪事を放っておけるほど、おいらたちはお人好しじゃねえんだよ。お前ぇはなにか? 奉行所同心をやっていながら、悪事を取り締まりもしねえのか?
>鴨:町奉行所がやることじゃねえんだよ。下手(へた)に手を出しゃ、こっちの首が飛ぶってんだ。
>熊:そんなこと言ってるから、お夏坊が気持ちの踏ん切りを付けられねえんじゃねえか。罷免(ひめん)でもなんでも覚悟して手伝ってやれってんだ。今夜「だるま」へ来い。話して聞かせてやるからよ。

このくらい焚き付ければ、少しは真剣になるだろうと、熊五郎は障子(しょうじ)を後ろ手に閉めた。
源五郎の家に帰り着くと、八兵衛が怪訝(けげん)そうな顔で、首を捻(ひね)っていた。

>熊:どうしたんだよ。ひょっとこみてえな面(つら)をしやがって。
>八:お夏ちゃんがよ、今夜はどうしても太助を連れてきて呉れって言うんだよな。
>熊:どういうこった?
>八:おいらの方が聞きてえぜ。選りに選ってどうして太助なんだ? あんな図体(ずうたい)ばっかりでけえだけの大飯食らいのどこが良いってんだ?
>熊:さあな。
>八:真逆、図体のでかいのが好みだ、なんてことじゃねえだろうな?
>熊:そうかも知れねえぞ。葱(ねぎ)みてえにひょろっとしてる方が良いのかもな。
>八:冗談じゃねえぜ。こちとら、もう30だぞ。これから背を伸ばせってったって、そいつは
無理な相談ってもんだぜ。・・・でも、ものは試しだ、五六蔵とお前ぇでちょこっと引っ張ってみちゃあ呉れねえか?
>熊:そんな馬鹿なこと言ってるんだったら、いっそのこと、梁(はり)に縄を掛けて首からぶら下がってみちゃあどうだ?
>八:おう、成る程。その方が
手っ取り早いな。いっちょ、やってみるとするか。
>熊:馬鹿は死ななきゃ治らねえってのはこのことだな。
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※お詫び:時代考証を誤っています。
「開店休業」という言葉は、どう考えても現代の言葉です。「お茶を挽(ひ)く」あたりを使った表現が、妥当だと考えられます。