157.【く】 『臭(くさ)いものに蓋(ふた)をする』 (2002/12/02)
『臭いものに蓋をする』
失敗や醜聞(しゅうぶん)・悪事などが外部に洩(も)れないように、安易で、しかも一時凌(しの)ぎの手段を取ること。
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文士崩れの太市は、3合ばかりで酔っ払い、絵に描いたよう千鳥足を踏みながらご機嫌で帰っていった。
帰りがけにお夏に手を振って挨拶(あいさつ)したが、その時ばかりは、落胆の色が伺(うかが)えた。

>八:「また明日」なんて言ってたが、あの様子じゃあもう来ねえかも知れねえな。
>熊:来るさ。ああいうのは女に色目を使われるより、自分の話を聞いて貰う方がよっぽど好きなのさ。
>八:そういうもんかね。おいらはお夏ちゃんの方がよっぽど嬉しいがな。・・・なあ、鴨の字もそうだろ?
>鴨:あ、ああ。そうだな。
>八:なんだよ、元気ねえな。文士先生がいなくなって寂しいのか?
>鴨:そんなんじゃねえや。
>熊:鴨太郎はな、お前ぇみたいに女なら誰でも良いっていうのとは違うのさ。
>八:何を今更高潔振ってやがる。要はこっちに目を向けて呉れるかどうかってことだろ? 好いて呉れるってんなら、おいら誰だって良いと思うがな。
>熊:お福ちゃんでもか?
>八:止せやい。そんな縁起でもねえ名前なんか出すんじゃねえ。ぶるっと来ちまうじゃねえか。
>熊:だろ? これと決めたら一筋。そういう男なのさ、鴨太郎はよ。
>八:それが偉いのか? そこら中の娘から「鴨太郎さーん」って色目を使われてもそんなこと言ってられるのか?
>熊:言えるんだよ。な? そうだろ?
>鴨:お前らな、人のことを酒の肴にするなってんだ。放っといて呉れ。
>八:いつまでもそんなこと言ってると、いつんなっても嫁なんか来やしねえぞ。
>鴨:構うもんか。
>八:お? 開き直りやがったな?

八兵衛はげたげたと下品に笑い、お夏に銚子の追加を注文した。

>鴨:今話に出た「お福ちゃん」ってのは誰なんだ? なんだか近頃聞いた覚えがあるんだが。
>熊:ああ。昔この辺に住んでた娘だ。大きい声じゃ言えねえが、今じゃ「お福の方」って呼ばれてるんだとよ。
>鴨:何? それじゃあ、例のお福の方なのか?
>熊:「例の」ってのはどういうことだ?
>鴨:自分の子供を、どうあってもお世継ぎにするんだって画策してるって話だぜ。
>熊:画策ってったって、案外上様が気に入ってるって話だったぞ。放っとけばお世継ぎになるのだって夢じゃねえだろ?
>鴨:それがな、近頃はそうでもねえらしいんだ。
>熊:何かやらかしたのか?
>鴨:まだだ。今のところはな。・・・だが、問題は、お福の方本人ってよりも、上様の方にあるんだよ。別のお方様に豪(えら)くご執心らしいんだ。
>熊:ってことは、お福ちゃんは見向きもされなくなっちまったってことか?
>鴨:そこまではっきりとしたもんじゃねえらしいんだがな。そうなる日もそう遠くないかもしれねえな。・・・なにしろ、男と女なんていうもんは、そういうもんなんだからよ。
>熊:なるほど。
>八:一回離れちまった気持ちなんてものは、戻るもんじゃねえ。これでお福ちゃんも終わりだな。へへ、様を見ろだ。
>熊:お前ねえ、人様の不幸を笑うもんじゃねえぞ。
>八:何が不幸なもんか。そもそもお方様になったことの方が不思議なんだ。大人しく、元の暮らしに戻りやがれってんだ。
>熊:まったく。本当に根に持ってやがるんだな。・・・だがな、元の暮らしの戻るってことは、この辺に戻って来るってことだぞ。お前ぇ、それでも良いのか?
>八:戻ってきちまうのか? それだけは勘弁して呉れよ。桑原桑原・・・

銚子を運んできたお夏が、そんな八兵衛の様子に興味を持ったらしく、「どうかしたの?」と熊五郎に聞いてきた。

>熊:お夏坊は八とお福ちゃんの経緯(いきさつ)ってのは耳にしたことがあったよな。
>夏:ええ。でも、八兵衛さんの話しっ振りだと、とんでもない力持ちの人みたいに思えちゃうんだけど。
>八:そりゃあもう馬並みの馬鹿力さ。おいらの首根っこを掴んだまま引き摺り回すんだからな。
>鴨:そんなに凄い女がいるかよ。
>八:いるんだって。おいらのことなんかお手玉の玉みたいにひょいひょい投げて遊ぶんだぜ。
>熊:大袈裟過ぎだぜ。そんなこと、うちの親方ぐらいしかできねえよ。
>八:喩え話だよ。それほど恐かったってことさ。
>夏:それで? そのお福さんがどうしたの?
>熊:上様のご寵愛がなくなって焦(あせ)ってるんだとよ。
>八:暇を出されてここいらに戻ってくるかも知れねえんだとよ。本当に戻ってきたらどうしよう。
>夏:よっぽどのことでもない限り戻ってきたりはしないわよ。だって、上様の子供の産みの親なのよ。そんな人が町屋に住むと思う? きっと良いところに屋敷でも建てて貰って何不自由なく暮らす筈よ。
>八:そうか。そうだよな。・・・ほれ見ろ。戻ってなんか来るもんかってんだ。ああ良かった。冷や汗掻いちまったぜ。さ、飲も飲も。安心したら腹も空(す)いてきたな。お夏ちゃん、何か見繕ってくれるかい?
>熊:まったく、調子の好い野郎だ。

>鴨:・・・だがな、ちょっと気になることがあるんだよな。
>八:なんだよ。脅かそうったってその手にゃ乗らねえよ。
>鴨:まだ裏が取れてる話じゃあねえんだが、闇で毒薬を手に入れたらしいんだ。
>熊:お、おい、矢鱈なことを言うもんじゃねえよ。相手は大奥にいる人なんだぞ。間違いでしたじゃ済まされねえ。
>鴨:分かってるさ。だから慎重に調べてるんじゃねえか。まともな役人なら引き受ける仕事じゃあねえわな。
>熊:目付とか大目付とかがやる仕事じゃねえのか?
>鴨:誰がやるかってんだ。自分は知らなかったことにして下へ下へ盥(たらい)回しよ。どちら様も御身大事ということさ。
>夏:それで鴨太郎さんのところまで下ってきたってことね。まったくお人好しなんだから。
>鴨:仕方がねえだろ? 俺には盥を回す先がねえんだからよ。

>夏:それで? 調べは進んでるの?
>鴨:ああ。疑わしい医者が2・3人挙(あ)がってきてる。
>夏:御殿医?
>鴨:真逆(まさか)。御殿医は清廉潔白、実直この上ないお人だ。とても毒を他人に渡すようなお人じゃあねえ。
>八:医者は人様の病気を治す人だろ? 毒なんか持って歩いてるのか?
>夏:一口に毒って言ってもね、八兵衛さん、薄めて使えば病気に利くものもたくさんあるのよ。だから、大抵の医者なら持ち歩くことはあるのよ。
>熊:分量を間違って使えば殺すこともあるってことか。
>夏:そうよ。だから、そうならないようにちゃんと研究して、間違わないように努めているのよ。
>八:へえ、医者ってのは頭が良くないとできねえことなんだな。
>夏:当たり前でしょ? 1年や2年じゃ身に付かないの。・・・もっとも、態(わざ)と間違えるような不心得者は、いくら頭が良くたって駄目なんだけどね。

>鴨:その不心得者が3人も挙がってきてるってことが、問題なんだよな。
>夏:許せないわね、本当の話なら。
>熊:そいつらって、やっぱり、銭に目が眩(くら)んだせいでそんなことやらかすんだろうな。
>鴨:目が眩むほどの大金を持っているやつらが、貧乏医者の足下を見るってこともあるだろう?
>八:なんだよ。ここでも景気の話か? おいらもう今夜はそういう話は沢山だぜ。
>夏:でも、いくら足下を見られたからって、毒を売っちゃあ駄目よ。医者の風上にも置けないやつね。
>八:いっちょ、懲らしめてやろうか?
>夏:鴨太郎さん、その疑わしい医者たちに会わせて貰えない?
>八:そう来なくっちゃ。ぽかりとやるんだな?
>夏:そうじゃないの。医者は何をすべきかを思い出して貰うの。
>八:そんなんで良いのか? なんだか物足りねえな。
>夏:あたし思うんだけど、人の命を救って「良かったあ」って喜ばない医者なんて、1人だっていやしないんだからね。
>鴨:もしそうだとしてもだ、罪は罪だからな。医者の心を取り戻すってったって牢屋に打(ぶ)ち込むからな。
>夏:そりゃあそうよ。でも、罪を償ったら養生所預かりか何かにしてあげて。
>鴨:それは上の方の人が決めることだ。俺はそんな特別扱いはしたくねえがな。

>夏:でも、どうせお福の方の罪だって闇から闇なんでしょう? 自分の都合悪いことだけ知らん振りで、買った方の罪は表へ出ないのに、売った方だけ咎(とが)めるのって変じゃない?
>鴨:そういう遣り方が、役人の間じゃあ当たり前なの。俺にはどうしようもねえ。
>八:そうしないと偉くなれないところなら、却って偉くならない方が良いのかもね、鴨太郎さん。
>鴨:そりゃあ嫌味か?
>夏:誉(ほ)めてるのよ。
>熊:誉められたぞ。嬉しいか?
>鴨:そんな誉められ方したって、乏(とぼ)しい禄は増えねえよ。
>夏:良いじゃない。あたしが医者になった頃、鴨太郎さんがまだ貧しい暮らしをしてるようだったら、あたしがちょっとはお米を回してあげる。
>熊:お夏坊、本気か?
>夏:何よ、熊お兄ちゃんまで。あんまり本気に受け取らないでよ。小娘の戯(ざ)れ言よ。

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