27.【い】  『交喙(いすか)の嘴(はし)』 (2000/05/22)
『交喙の嘴』[=嘴の食い違い]
交喙の上下の嘴(くちばし)が左右に食い違っていて合わないところから、ものごとが食い違って思うようにならないこと。
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源五郎の家に残されたあやは、てきぱきと食器を洗い終え、客間の掃除を済ませたところだった。

>雅:どうだい、源五郎の部屋でも覗いてみるかい?
>あや:良いんですか?
>雅:構やしないよ。掃除も洗い物も親任(まか)せなんだから。

源五郎の部屋は奥の方だったが、南側の障子と西側の障子窓とのお陰で客間より明るく感じられた。
お雅が「なんにもない部屋だよ」と言った通り、家具と呼べるものは机と行灯(あんどん)くらいのものだった。
机の上には木切れで作った小箱や玩具、凧(たこ)を作るのに使われるであろう竹籤(たけひご)が、剥き身の小刀共々無造作に散らばっていた。

>雅:子供みたいだろ。好い年をして凧や竹蜻蛉(たけとんぼ)でもあるまいにね。
>あや:純粋なんですよ、きっと。
>雅:あたしにゃ陰気な中年男にしか見えないがね。
>あや:誰にだって趣味みたいなものはありますから。偶々(たまたま)それが屋内ですることというだけで陰気と決め込んだら可哀相ですよ。
>雅:趣味なんて上等なもんじゃないさね。それにしてもだよ、あんな図体してるんだから表に出てりゃ良いのにって、そうは思わないかい?
>あや:表に出て町娘に色目を使ったり呑んだくれたりするよりは良いですよ。
>雅:そんなことしてたら、疾(と)っくに追ん出してるさ。程度問題だけどね、それにしても家の中で過ごす時間が多過ぎるのは間違いないよ。
>あや:仕事はきっちりこなしているんでしょうから、休みの日くらい家に居るのも良いんじゃないですか?
>雅:いつも側に居て呉れたら良いなんて思うのも今のうちだけだよ。そのうち顔も合わせたくなくなるさ。
>あや:そんなこと・・・
>雅:今のあんたにゃ何を言ったって無駄だがね。どうせ痘痕だって笑窪に見えちまうんだろう?
>あや:はい。逆上(のぼ)せ上がっちゃってますからね。
>雅:臆面もなくよく言うよ。・・・ときに、家財道具は多いのかい?
>あや:それほどでもないです。
>雅:尤(もっと)も、これだけ隙間だらけなら何を持ってきたって収まるだろうけどね。手伝いは良いのかい?
>あや:はい。熊五郎さんと八兵衛さんに手伝って貰いますから。
>雅:あの2人なら少々手荒に扱ったって壊れやしないからね。精々こき使っておやり。
>あや:はい。

>雅:・・・さあて、正月だし、あたしらも息抜きさせて貰おうかね。最中(もなか)と煎餅(せんべい)があるんだけど、どっちが好みだい?
>あや:甘いものも嫌いじゃないんですけど、塩辛い方が好きですね。
>雅:あんたもかい? 
うちで右党(うとう)は源五郎だけだね。
>あや:甘いもの好きですか。そういえば毘沙門様の後に寄ったのも甘味処でした。
>雅:食の好みばかりはどうにもならないからね。
>あや:何から何まで同じでなけりゃいけないって訳でもありませんし、却(かえ)ってちょっとくらい違っていた方が、面白味があって良いんじゃないですか?
>雅:あんたも結構楽天家だね。…だけどね、心構えだけはしておいた方が良いよ。あたしらみたいな下品な人間は、殊(こと)食べ物のこととなると異常に反応したりするからね。
>あや:何かそんなことあったんですか?

>雅:あたしがこの家に来て間もなくの頃、味付けに文句を言われてね、一月ほど碌に口も利かなかったかねぇ。あのままだったら、源五郎だって生まれてなかったかもしれないね。
>あや:まあ。
>雅:結局向こうから謝(あやま)ってきてね、それ以来尻に敷いてるよ。
>あや:まあ。
>雅:長い間一緒に住んでれば、
色んなことがあるさ。あとは只管(ひたすら)我慢。
>あや:我慢、ですね。
>雅:逃げ出しちまうのは簡単だけどさ、逃げるってことは、もう二度と会えないってことを意味するんだからね。一時の安易な選択がその後一生の後悔に繋(つな)がってるなんて、その時は誰も気が付かないんだよ。ものごとが変わる切っ掛けなんて、どれもこれもちっぽけな食い違いだったりするもんさ。あたしもさ、高々(たかだか)味付けのことでぶち切れてなくて良かったと、つくづく思うよ。
>あや:そういうのって、誰もが通る道なんですかね。
>雅:残念ながら、そのようだね。・・・さ、辛気臭い話はこのくらいにして、お茶にしようかね。

まだ膨(ふく)らみ始めていない梅の梢(こずえ)に番(つが)いの雀が停まり、お雅とあやが口に運んでいる煎餅を、暫(しばら)く物欲しげに見つめていた。
もう少し待っていればお零(こぼ)れに与(あず)かれるのではないかと期待していた雀たちだったが、「只今(ただいま)戻りやしたぁ」という、五六蔵の大声に驚いて飛び去った。
後は陽気も運勢も上がる一方で、待ち受けているのは良いことばかりだと思いたくなるような、新春の昼下がりだった。
(第2章の完・つづく)−−−≪HOME