183.【こ】 『恋は思案(しあん)の外(ほか)』 (2003/06/02)
『恋は思案の外』[=心の外]
恋は理性や常識では律し切れない。恋の成り行きは、常識では推(お)し量(はか)ることができない。
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内房正道の旅籠(はたご)の一室に、10人前の膳が並べられていた。
床の間に向かって上手(かみて)に3つ下手に3つ、そして下座に4つというコの字型が作られた。
八兵衛、熊五郎、猪ノ吉、そしてなぜか竜之介が下座に座り、右奥の3席のうち1つが空いていた。

>内:仰々(ぎょうぎょう)しいことになってしまって申し訳ありません。しかし、
世話を焼いてくださる方が多いということは、それだけ人徳が篤(あつ)いということですので、むしろ喜ぶべきことだと思います。・・・お一方(ひとかた)が所用で遅れる由(よし)で御座いますので、甚(はなは)だ勝手ながら、進めさせていただきたく思います。進行につきましても、あまり堅苦しくせず、この旅籠の作法で執(と)り行いたく思いますが、桃池(ももち)殿、宜しゅう御座いますな?
>桃:お任せいたします。・・・遅れていらっしゃるのは先様の親御さんでいらっしゃいますか?
>内:いえ、役所の上役(うわやく)の方です。親御さんから、ことの全てを任されておいでです。
>桃:そうですか。先様(さきさま)は、随分と上役の方から信望を得ていらっしゃるようですな。
>内:どうでしょうかな? まだお出ででないから言ってしまいますが、何かと棚上げする悪い癖が御座いまして、新山(にいやま)様の婚儀のことも、そこにおられる4人が骨を折ってくださらなかったら何もできなかったところです。
>桃:そうですか。猪ノ吉さんを初め、皆さん、大変ご苦労をお掛けしましたな。
>功:桃池殿、今日の会合は飽くまでも略儀ですので、婚儀として纏めねばならぬというものでは御座らぬ。娘御に押し付けるようなことは、くれぐれもなさらぬようにな。
>桃:承知しておりますとも。本人たちの気持ちに任せるというお約束でしたな。
>功:そういうのが、今風ということですので、ご理解くだされ。
>内:そういうことですな。・・・それでは、前置きも省かせていただき、場を和(なご)ませる意味で、食前酒を干していただきましょう。

新山隼人と桃池五條の双方が「あの・・・」と一声挙げた。
どちらも、できることなら酒を口にせずに終わらせたいと願っているのである。

>隼:ご老体、酒を飲まないでも良いということはありませんか?
>内:まあ、良いではありませんか。猪口(ちょこ)に1杯など、飲んだうちには入りませんよ。それに、このお酒は然(さ)るお方から特別に拝領した品です。残すなどという勿体無いことはなさいませんように。・・・五條様も、そうなさってくださいませ。
>五:はあ。そういうことでしたら、1杯だけ。
>隼:それでは・・・

それぞれが一息に呷(あお)ってしまったのを見届けてから、残りの皆もそれに倣(なら)った。

>八:うっひょう、こりゃあ美味(うめ)え。「だるま」の水っぽいのとは大違いだ。
>熊:こら。あんまり端(はし)たなくするんじゃねえ。おいらたちは刺身の妻みてえなもんなんだから、大人しく座ってなきゃいけねえの。
>八:そんなの無理だっての。ご馳走を食いながらしんみりしてなんかいたら、食った気がしねえだろ?
>内:ほっほっほ。八つぁんの言う通りです。お膳はしんみり食べるものではありませんね。ささ、どうぞ箸を付けてください。
>八:この刺身は鰹(かつお)でやすね? 「目には青葉山不如帰初鰹」ときたもんだ。
>内:おや、八つぁんは案外物識りなんですねえ。
>八:「案外」ってことはねえでしょう。おいら、これでも、箪笥(たんす)町界隈(かいわい)じゃあちょっとは名の知れた物識りなんでやすからね。
>熊:どうだか。「風呂・飯・寝る」だけ知ってりゃ十分だって言ってやがる奴のどこが物識りなんだ?
>内:ほっほ。山口素堂の句よりは、そっちの方が、どちらかというと八つぁんらしいですねえ。
>八:なんですかい、その「山伏が粗相した」ってのは?

あっはっはと、少し大き過ぎの甲(かん)高い声が挙がった。五條の笑い上戸が発症したのである。
真向かいの隼人は目を丸くしたが、自分でも気付かないうちに、銚子から猪口に酒を注ぎ、立て続けに2杯飲んでいた。
ただ、五条の笑い方はとても自然な笑い方で、見方によると武家の娘の慎(つつし)みに欠けると見られるかも知れないが、同席した面々には好ましいものとして受け取られていた。
唯一人、父親の桃池だけは、娘の様子と隼人の顔色とを交互に伺いながら、只管(ひたすら)はらはらしていた。

>五:山伏粗相、山伏粗相・・・。あっはっは。可笑しい。千場の小父(おじ)様ったら、面白いお知り合いをお持ちなのね。
>桃:これ、五條。端たなく笑うものではない。
>五:だって父上、可笑しいときに笑わなかったら、いつ笑えというのです? それに、笑うことは健康にも良いと申します。
>桃:それはそうだが、時と場所というものも弁(わきま)えなさい。
>隼:いいえ、桃池殿、五條殿の言われる通りです。拙者など、喜びを顔に出すことも下手で、声を上げて笑うことなど、できた例(ためし)もないのです。私など、私など・・・
>桃:隼人殿? 泣いておられるのか?
>五:あっはっは。殿方の癖に泣いておられる。
>桃:これ、五條。失礼であろう。
>五:そんなこと言ったって、可愛いんですもの。
>桃:何? 「可愛い」とな?
>五:抱き締めちゃいたいくらい。・・・あら? こんな感じって、あれ? やだ・・・
>桃:隼人殿。娘が失礼なことを言っているようでしたら、ご勘弁ください。普段はこのような・・・
>隼:いいえ。私は、このような軟弱者で御座りますれば、どうとでもお責め下され。・・・このような体たらくだから、いつになっても妻帯もできないのです。お笑いください。

まだ飲み始めてから、然程(さほど)の時間も経っていない。
心行くまで酒肴を堪能しようと、俄然張り切っていた八兵衛が、あんぐりと口を開けたまま、2人の動向に目を奪われていた。
口元まで持っていった猪口が宙に浮いたまま留(と)まっている。

>五:もし、隼人様。
>隼:は、はい。なんで御座いましょう?
>五:隼人様は、お酒を飲まれると、いつもそのような風になられるのですか?
>隼:はあ。恥ずかしながら。
>五:娘たちやら婦人方やらとご一緒のときにもそのような風になってしまわれるのですか?
>隼:そのような場面はまずありませんが、相手が誰であろうとこの癖は変わりません。それがいけないと申されるのですね?
>五:ええ、いけませんとも。
>桃:これ、五條。
>隼:黙っておいでくださいませ、父上。・・・隼人様を責めているのではありませぬ。
>桃:それではいったい何を申したいというのだ。
>五:あの、申し上げても宜しゅう御座いますね?
>隼:ええ、なんなりと。
>五:女の癖に端たないと言われるかも知れませんが、わたくしの婿殿となられるお方であれば、女子(おなご)どもの前で、そのようなあどけなさ気(げ)な風をされては困ります。
>隼:はあ。
>五:焼餅が焼けて困ります。そういう潤んだ目はわたくしの前だけでしていただかなければ嫌です。・・・困ります。

周りで聞いている者たちが、目をぱちくりさせて互いに顔を見合わせた。

>八:と、いうことは、五條さんは隼人さんを気に入ったでことなんでやすかい?
>熊:さあ。
>竜:正(まさ)に、そういうことである。「酒癖が悪い者は駄目」が聞いて呆れる
>猪:これ、竜之介。折角良いように運んでおるのだ。水を注すようなことを言うでない。
>八:そうすると、後は、隼人さんが五條さんを気に入ったらもう決まりじゃねえですか。こんなに簡単で良いんでやすかい?
>猪:円満に決着するのであればそれが一番に決まってんだろ?
>八:そりゃそうだ。それじゃあ、もう遠慮もなんにもなしに飲み食いして良いんだな? うっひょう、食うぞ、飲むぞ。
>熊:こらこら、その隼人様の方の気持ちってのがまだだろ?
>八:良いのよ、そんなこたぁ。こんなお綺麗なお嬢さんから「他所(よそ)の女にゃ渡さねえ」って言われてみろ。それで嫌だなんて言ったら、それこそ罰が当たるぞ。そうじゃねえのか?
>竜:正に、八兵衛殿の言う通りである。
>猪:これ、竜之介、お前、飲み過ぎだぞ。酔っているのか?
>竜:酔ってなどおらぬ。・・・五條殿は女子にしておくのが勿体無いくらいの女傑(じょけつ)であると見た。我(われ)が劉備であったなら、1軍を指揮させているところである。・・・むにゃむにゃ。
>猪:あーあ、寝ちまいやがった。こんなので良いんだろうか? どう思うよ、熊ちゃん?
>熊:ご隠居さんがこういう風になるのを分かっていたのかどうかは疑わしいがよ、なんだか知らねえけど、
万万歳なんじゃねえの?

2人の様子をにこにこしながら眺めていた内房老人は、しっかり熊五郎たちの会話を聞いており、透かさず声を掛けてきた。

>内:「疑わしい」とは安く見られたものですな、熊さん。
>熊:あ、いや、その、だって、五條様が勝手に。そ、それに、隼人様の・・・
>内:確かに、熊さんの言うことも間違ってはいませんかね。あたしはね、成り行きがどうなるかまでは知りませんでしたが、こういう結果になるような気がしてたってことです。
>熊:気がしてたで済ます問題ですか? 一歩間違えば・・・
>内:だから、間違わないように奥の手を後から出そうとしたんじゃないですか。もう四半時もしたら来ますよ、後見人が。
>熊:へ? 方便じゃなくって、本当に呼んじまってるんですかい? お奉行様を。
>内:一番良いところを見逃してしまって、ご当人も残念がるでしょうね。ほっほっほ。
>八:流石(さすが)はご隠居さんだ。まったく、年取った狸はよっぽど巧く人を騙(だま)すそうでやすからねえ。
>内:あたしは古狸ですか?
>熊:八、そういう風に言葉を使い間違ってばっかりいると、そのうち本当にご隠居様を怒らせちまうぞ。
>八:なんだ? おいら何か間違ったこと言ったか?
>熊:ご隠居様を狸呼ばわりなんかするなってことだ。
>八:何言ってやがる。おいらとご隠居さんの「臭い仲」は、そんなことくらいで壊れちまうちゃちなもんじゃねえのさ。ねえ、ご隠居?
>内:臭い仲ですか? そうは言わないと思いますよ、八つぁん。お奉行の耳に入ったら疑われてしまいます。
>八:だってよ、初めて会ったのが厠(かわや)なんだから、やっぱり臭い仲でやすよ。なあ、熊?
>熊:おいらは端(はな)っから違うって言ってるじゃねえか。まったく、人の話を聞かねえ野郎だ。人様が
気に障りそうなことは言うなってことだ。酷(ひで)え目にでも遭わなきゃ分からねえのか?
>八:構うもんか。へへーんだ。今更膳を片付けられたってもう遅いってんだ。見てみろ、もう全部食っちまった。
>熊:お前ぇにとっての酷えことってのは、それだけかよ。まったく世話がねえな、お前ぇは。
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