158.【く】 『腐(くさ)っても鯛(たい)』 (2002/12/09)
『腐っても鯛』
腐っても鯛は鯛で、やはり他の魚と違う品格がある。本当に優れたものは、傷(いた)んで駄目になったようでも、なお、その値打ちを保つものだ。
類:●A diamond on a dunghill is still a diamond.
反:●麒麟も老いては駑馬に劣る
*********

今年は、心成しか、例年より寒さが厳しいようである。
懐(ふところ)具合いが心許(もと)ないことも、少なからず響いているようであった。
今日は朝から雨が降っており、目覚めた時点では、然程(さほど)寒さを感じなかったが、昼間の温かさは期待できそうになかった。

>八:なあ熊、内房のご隠居のところへ行ってみねえか?
>熊:お前ねえ、本気で川田様のところへ乗り込む気なのか?
>八:あたぼうよ。間違いに気付いていながら黙ってたんじゃあ男が廃(すた)るってもんだ。
>熊:聞こえは立派だがな。本心はどうだか。
>八:良いじゃねえか。ぽかりとやるってのは、駄賃みてえなもんよ。
>熊:何が駄賃だ。一番の狙いどこの癖しやがって。
>八:はは。ほんとのとこ、一番の狙いはご隠居のとこの昼飯だったりしてな。
>熊:かっ。さもしいったらありゃしねえ。・・・だが、そっちの方がお前ぇらしくって良いや。
>八:折角(せっかく)だから、五六蔵たちも一緒に連れてってやるか?
>熊:まるで集(たか)りだな。
>八:良いってことよ。ご隠居だって賑(にぎ)やかな方が喜ぶしよ。
>熊:四郎のことは無理に誘うなよ。新婚なんだからな。

確かに、ここのところ、四郎に気を使うせいか、五六蔵と三吉まで声を掛けそびれていた。

>五六:もしかして、旅篭(はたご)の昼飯が食えるんでやすか? 行く行く、行かせていただきやす。
>熊:あんまり物欲しそうな顔をするんじゃねえぞ。こっちは、手土産もなしで、話を聞いて貰いに行くんだ。
>八:茶飲み話に付き合ってやるんだ。少しくらい物を食わせたって罰(ばち)は当たらねえぞ。
>熊:それはこっちだけの都合だろ? ご隠居さんだって来て欲しくないこともあれば、聞きたくない話だってある。
>八:お前ぇ分かってねえな。これは斉(なり)ちゃんに直(じか)に関わることなんだぜ。ご隠居が嫌がる訳ねえじゃねえか。
>四:あの、上様に関わることって、厄介(やっかい)ごとなんですか?
>八:なんだ四郎、お前ぇも行きてえのか? およねちゃんのとこに帰りたきゃ、それでも良いんだぜ。
>四:止(よ)してくださいよ、そんな言い方。およねのやつは竜之介様の道場に行ってます。
>八:あ、そっか。それじゃあ帰ったってしょうがねえな。そんじゃ、若先生のとこへ行くか?
>四:からかうのは止してくださいってば。ここのところ「だるま」へもご一緒してませんし、付き合わせてください。

内房正道は、雨で出掛ける気も起こらず、旅篭の自分の部屋で書物を読んでいた。
近頃は、寒さのせいか、上様から釣りのお誘いもめっきりなくなっていた。そういえば、奉行と碁を打ったのも半年以上前のことになる。

>八:ご隠居、遊びに来ましたぜ。
>内:おお。これは八つぁん、熊さん。それに、弟弟子の皆さんまで。
>熊:大勢で押し掛けちまいまして、済いやせん。
>内:いえいえ、こんな天候でくさくさしていたところですよ。良いところに来てくださいました。・・・何か面白そうな話を持ってきてくださったんでしょう?
>八:流石(さすが)ご隠居、勘が良い。まだまだ呆(ぼ)けちゃいませんね。
>熊:こら八、失礼なことを言うんじゃねえ。
>内:良いんですよ、熊さん。・・・でも、あなたがたが揃ってお出でになるときは、決まって一騒動起こりますからね。それに、八つぁんのにこにこした顔付きを見てると、呆けていてもそれくらい分かりますよ。
>八:ありゃ、おいら、そんなににやついてましたか?
>内:それはもう、草履(ぞうり)を拾ってきた犬がお駄賃を待っているときのような顔でしたよ。

熊五郎たちは、太市のことと、お福の方が毒を手に入れたこととを話して聞かせた。
内房老人は「ほう」「ほう」と、頷(うなず)きながら、2人の話を聞いていた。

>内:八つぁんたちはご存じないかも知れませんが、太市という者は、以前ご老中の傍(そば)にいて、何かとご提言申し上げていたことがあるんです。
>八:なんですって? ほんとでやすか?
>内:本当ですとも。あたしも2・3度お会いしたことがありますよ。
>八:だって、文士崩れだって言ってましたぜ。それに、酒まで集られちまったんでやすよ。
>内:そうですか。追い出されるようにして、任を解かれましたからね。・・・それにしても、そこまで身を落としているとは。
>五六:哀れなもんでやすね。あっしなら、情けなくって田舎に引っ込んじまいやすね。
>三:帰る田舎がねえんじゃねえですかい?
>四:然(さ)もなければ、もう一度取り立てられるよう、虎視眈々と狙ってるのかも知れませんね。
>熊:なるほど、それだ。そうじゃなきゃ、竹上なんとかの策より自分の策の方が良いなんて、熱心に語りゃしねえ。
>内:ほう、竹上太蔵の名前も出しましたか。・・・実は、あたしも、竹上の策に諸手(もろて)を挙げて賛成という気になれないんです。ちょっと乱暴過ぎます。
>八:おや、ご隠居もですかい? 太市のおっさんもそう言ってましたぜ。
>内:そうでしょうとも。竹上は、ほんの少し功を焦(あせ)ってますね。慌てちゃあいけませんね。
>八:・・・ってえことは、太市の大将の言うことは、ご隠居の考えと一緒ってことですかい?
>内:あたしはその方面に兎や角言う積もりはありませんよ。一緒かどうかは分かりません。・・・ただ、時間が掛かることなんです。そこのところは太市の方が正しいようですね。

>八:はあ。するってえと、あの太市の旦那は、やっぱり凄いお人なんでやすね?
>内:ほんの一頃とはいえ幕府の台所のことに口を出した人ですからね。頭は回ります。
>八:そりゃあ凄(すげ)え。銚子2本も奢(おご)ったんだから何か良いことあるかな?
>内:それは無理ですよ。大工に集るようじゃ、なんの稼ぎもないんでしょう。
>八:だって、それだけお頭(つむ)が良いんだったら、どこだって使って呉れるんじゃねえですか?
>内:論が立つというのは、扱い難いものです。例えばですよ、八つぁんがやることなすことに、「こういう風にした方が正しいですよ」なんて一々言われてご覧なさい。もう明日から来なくて良いっていう気になるでしょう?
>八:そりゃあそうですよ。こう見えたって大工の腕は確かなんでやすからね。親方からだって注意されたくないですよ。
>内:そういうことです。
>八:それで、あんなに貧乏してたんでやすか。
>内:しかし、赤貧にあっても世の中を良くしようとする気持ちがあるということは、大したものです。・・・一度、連れてきてください。お話を聞いてみたいものです。
>熊:南蛮の商業とか、大掛かりな普請とかですかい? 頭が痛くなりますぜ。
>内:せいぜい、年寄りにも分かるように噛み砕いて話して貰いますよ。

大工相手に嬉々として喋る太市であれば、内房に会えると聞いただけでも、俄然元気を出すかもしれない。

>内:それはそうとして、塩十を張り倒しに行こうという話は、中々面白そうですね。
>八:ご隠居、張り倒すだなんて人聞きが悪いですぜ。軽くぽかりとやりゃあ気が済むんでやすからね。
>内:ほうほう、そうでしたね。・・・たしか、檜山杉良のときは、踏まれた蛙みたいにべちゃりと畳に張り付きましたね。
>五六:八兄い、そんなに思いっ切りぶん殴ったんですかい?
>八:なあに、斉ちゃんが、「苦しゅうない」なんて言うもんだから、つい・・・。まあ、良いじゃねえか。
>五六:それで? ご隠居。本当にぶん殴りに行けるんでやすかい? できることでしたら、あっしも一発・・・
>八:こら五六蔵、おいらの楽しみを取るんじゃねえ。
>五六:だって、良く言うじゃあねえですか。喜びは2人で分ければ2倍楽しくなるって。
>八:そうか? そこまで言うんなら仕方がねえけどよ。
>熊:お前らな、大工がお武家様を引っ叩いて何か良いことがあるっていうのか? おいらはお勧めできねえな。
>内:まあ良いではないですか。あの年寄りはちょっとばかし、思い上がり過ぎなんです。ちょっとくらい懲らしめて、2度目の隠居生活に戻った方が、幕府のためです。
>熊:良いんですかい?
>内:良いですとも。きっと、太市が巧い具合いに懲らしめて呉れることでしょう。
>八:一緒に連れてくんですかい?
>内:見物(みもの)ですよ。・・・いっそのこと、竹上も同席させましょう。どういう態度に出るでしょうね?

内房老人は、子供のような悪戯っぽい笑みを浮かべていた。

>内:もう1つの件はご飯でも食べながらお話しましょうか?
>八:「もう1つの件」って言いますと?
>内:お福の方のことですよ。
>八:お福ちゃんのこと、ですかい? ・・・あの、できたら、食後か、酒を飲みながらにしていただけませんか?
>内:どうしてです? 冗談みたいで、食事中の話には
持ってこいなんですがね。
>熊:冗談みたいってどういうことでやすか?
>内:まあ、お楽しみに取っておきましょう。・・・ですが、八つぁん、どうかしたんですか?
>熊:子供の頃の辛い思い出から抜けられてねえんですよ。
>内:トラウマ
(※)ですか?
>八:そうなんですよ。まるで虎に睨まれた馬みてえに、竦(すく)んじまうんです。
>四:それを言うんなら「蛇に睨まれた蛙」なんですけど。
>八:どっちだっておんなじだろ? 飯を食ってるときにする話じゃねえんだからよ。
>内:まあ、どういうことになっているのか、聞いてみてくださいな。今でこそ悩み多きお方様ですが、一時でもご寵愛を受けた方です。きっと、大奥の作法が抜け切れなかったのしょうね・・・
>八:ご当人はどうか知りませんが、おいらにとっちゃ、子供の頃の、あのお福ちゃんのままなんでやすよ。
つづく)−−−≪HOME

※お詫び:時代考証を誤っています
ギリシャ語の「傷」が語源の、トラウマ(trauma)は、ドイツ語の心理学用語で、フロイト(1856−1939)が定着させたとされています。この物語の時代の日本では使われていません。