105.【か】 『蛙(かえる)の面(つら)に水(みず)』 (2001/11/26)
『蛙の面に水』[=小便]
蛙の顔に水を掛けてもまったく平気なことから、どんなことをされても平気でいること。何をされても応(こた)えないこと。
類:●蛙の面に小便●水を以って石に投ず
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源五郎親方は、八兵衛が将軍様と喋ったという話を、頑(がん)として聞き入れようとしなかった。
棟梁・源蔵の方は、内房老人との話の中で話題に上ってきていたので、頭から疑(うたぐ)って掛かるという訳でもなかった。

>源:上様の側用人(そばようにん)だと? きっぱり断っただと? 馬鹿馬鹿しい。そんな話、誰が信じる?
>八:おいらはほんとのことを言っただけですって。そう怒らないでくださいよ、親方。
>源:俺はな、嘘と熱いお茶が大っ嫌いなんだ。それ以上御託を並べてるとおっ放り出すぞ。
>八:親方あ・・・。
>熊:まあまあ、親方もそう熱くならねえでくださいよ。万が一本当だったら親方の方だって引っ込みが付かなくなっちまいやすぜ。少し頭を冷やして最後まで話を聞いてやってくださいまし。
>棟:良いじゃねえか。本当だったときは、源五郎に裸踊りかなんかをさせれば良いんだろ? 面白(おもしれ)えじゃねえか。
>熊:棟梁までそんなことを言い出しちゃ困ります。こいつは報らせの為の集まりで、何かの余興って訳じゃねえんですから。
>源:そりゃあ、俺だって、弟子のことを疑いたい訳じゃねえさ。でもな、話があんまり突飛過ぎんだろ。信じろって方が無理だ。
>八:ご尤もで。
>熊:それじゃあ、親方も内房のご隠居に会ってみますか? 八兵衛よりは確かですから。
>源:そうだな。話が本当なら、材木の値段が高騰するのを止めて呉れたお人だもんな。礼の1つも言っとかねえとな。
>熊:そうですよ。ここで、くだくだ話してたって埒が明くもんじゃねえですから。

そういう次第で、昼飯を急いで掻き込んで時間を作ろうということになった。
丁度、半端仕事に納まりが付いた五六蔵たちも戻っていることだしと、後を3人に任せて、内房の旅籠(はたご)へと向かった。

>内:おおこれは八つぁん、昨夜はご苦労様でしたねえ。
>八:ご隠居ぉ、親方に説明してくださいよ。どうあっても上様と会ったことを信じてくださらねえんですよ。
>内:ほっほっほ。そりゃあ信じちゃあ貰えないでしょうねえ。表向きにはお城を抜け出してないことになってますからねえ。
>源:ご隠居さん。・・・あの、あっしは、こいつらの上に居る源五郎と申しやす。今回の件じゃあ、随分世話になっちまったそうで。
>内:これはこれは。すると、棟梁の倅(せがれ)さんですね?
>源:へい。なんだか八の野郎が熱に浮かされちまったようで、何やらとんでもねえうわ言を言い出しやがるもんで。
>内:八つぁんには、随分と活躍して貰っちゃいました。大助かりですよ。それに、然(さ)るお方も殊の外(ことのほか)上機嫌でお帰りになりました。わたしも暫くは諌言(かんげん)しないでも済みそうです。
>源:・・・ってことは、本当に?
>内:はい、本当ですとも。近い内にお忍びで抜け出してくるからと、皆さんのところにご案内するよう申し付かっています。
>源:お忍びでって・・・。来るんですか? いや、いらっしゃるんですかい?
>内:はい。こうと決めたら直ぐに実行するお方ですから、2・3日中にでも。
>源:なんですって? ・・・これは。えーと、どうすりゃあ・・・
>内:はは。大丈夫ですよ。お忍びですから、「斉(なり)ちゃん」とでも呼んでやれば、却って喜びますよ。
>源:な、斉ちゃん? そんな、め、滅相もない

内房翁は、八兵衛がどんな風に役割をこなし、どんなことを将軍様に奏上したのか、事の成り行きを話して聞かせた。

>八:ね? 嘘なんか吐(つ)いてねえでしょう、親方?
>源:ああ。そうらしいな。それにしてもなあ、上様とはねえ・・・。下手したら、首なしで帰ってくるところだったじゃねえか。
>八:そうなんですか? おいら、全然そんな気はしませんでしたが。
>源:暢気(のんき)で良いよな、お前ぇは。
>八:でもま、万事丸く納まったんですから、言うことなしじゃねえですか。
>源:まあ、そういうことにしとくか。

>熊:・・・しかしなんでやすね、ご隠居。今回は、偉い方々が動いてくだすったから、簡単に片付いちまいましたが、放っておいたら大変なことになってましたね。
>内:そうですね。あなた方がここに来て呉れてなかったら、まだまだ山火事は続いていたでしょうし、今頃材木の値段は跳ね上がっていたでしょうね。
>熊:悪巧みとか喧嘩とかってのは、誰かが間に入らないと、決まりの付かないもんなんですかねえ?
>内:そうですね。ご当人たちは頭に血が上っちゃってますからね。第三者が桶の水でも浴びせ掛けないことには、正気には戻れないんでしょうね。
>八:おいら、水をぶっ掛けられるって分かってんだったら、悪巧みも喧嘩もしたくねえな。
>内:ご当人たちは、後先のことなんか考えてられない人になっちゃうんでしょうね。「法の網目なんか粗いものだから、巧く立ち回りさえすれば、自分一人くらい見付からずに抜けられるだろう」って思ってしまうんですね。・・・錯覚なんですがね。
>八:「仏様はお見通し」ってことですね? そんでもって、「因果は応報する」ですよね?
>内:おや、八つぁん、随分と学が有りますね。
>八:いえいえ、おいらなんざ、まだまだでやすよ。
>内:ほほう。その上、慎み深いときてる。上様が気に入られるのも尤もですね。
>熊:・・・まあ抜け抜けと。呆れ果てちまって、説明するのも馬鹿らしくなるぜ。

八兵衛は、内房老人から誉められて、嬉々としている。ともすると、熊五郎の薀蓄(うんちく)をその儘(まま)受け売りしていること自体にも、気が付いていないようだった。

>内:そうそう、上様が帰り掛けにこんなことを仰いました。「木の葉も色付いてきたから、紅葉(もみじ)狩りの会でも致そうか」。
>八:へえ、優雅で結構でやすねえ。きっと、お歴歴(れきれき)が勢揃いして、美人連(れん)が侍(はべ)って、豪勢な仕出しが並んで、盛大になさるんでしょうね。
>内:違いますよ。
>八:へ? 違うんですか?
>内:場所と料理を手配するのはあたしで、呼ばれるのは皆さんです。二本差しは一人も呼びません。
>八:だって、上様がやりたがってるんでしょう? おいらたちだけがどんちゃんやらかしちゃあ、なんだか申し訳ねえようですねえ。
>内:違いますったら。町人姿の上様が無礼講の会をしたいと、そういうことなんですよ。
>八:なんですって? おいらたちと一緒なんですかい?
>内:はい、無礼講です。八つぁん斉ちゃんと呼び合いたいそうです。
>八:嘘でしょう?
>内:本当なんです。・・・あの、親方。
>源:は、はい。
>内:何かとご予定もあろうかと思いますが、明後日、午(うま)の刻(12:00ころ)に、豊島の飛鳥山に15人ほどお連れ願いたいのですが。

>源:なんですか? もう刻限まで決まっちまってるんですかい?
>内:いやあ、申し訳ありません。何分(なにぶん)あたしがせっかちな質(たち)でして、もう万端(ばんたん)整ってしまっているんです。そのくらいの人数なら、親方のお顔で直ぐに集められますよね?
>八:あの親方、おいらが集めても構わないですよね。
>源:お前ぇ、本当に請(う)けちまって良いと思ってるのか?
>八:だって、上様の達(たっ)ての願いとありゃあ、何を置いても聞いて差し上げるのが庶民の務めってもんでしょう?
>源:お前なあ、殊(こと)食いもんのこととなると、俄然張り切りやがるな。
>内:親方、ちょっとした戸惑いもあろうかとは思いますが、ここはこの老体の顔を立ててお引き受けください。なんでしたら、棟梁宛てに書状と、当日に駕籠を10丁ばかしとを用意できますが?
>源:と、とんでもねえ。親父にはあっしの口から伝えやすし、現場には徒歩(かち)で行きやすから、ご配慮は無用になすってくださいやし。
>内:そうですか。請けてくださいますか。それは大助かりです。

>八:やったあ。ご馳(ち)だご馳だ。
>源:そう浮かれるな。下手なことを仕出かしたら、今度こそ、首なしだからな。
>八:大丈夫ですよ。無礼講ってのは、そういうの抜きでってことなんでしょう? なら、何も心配なんかいらねえじゃねえですか。「斉ちゃん」って呼んで、注(さ)しつ注されつすりゃあ良いんでしょう? どうってことねえですよ。
>内:そう、その調子ですよ、八つぁん。
>熊:大丈夫かよ?
>源:参ったなこりゃ。
>内:そうそう、飛鳥山というところですが、8代将軍の吉宗様が、千本の紅葉を植えなさったというところでして、それはそれは見事なものだそうですよ。
>八:あの、ちょいと確認させて貰っても良いですか?
>内:なんです?
>八:その吉宗様ってのもやっぱり、神様じゃなくって、人間様だったんですよねえ。
>内:はっはっは。そうですとも。神様ほどご立派な名君で在らせられました。
>八:成る程。やっぱりねえ。神無月(かんなづき)ってのは、神様が居なくなる月って訳でやすね?
>熊:だから、昨日今日人間になったって訳じゃねえってんだ。将軍様に向かって「人間になられて良う御座いました」なんて言ってみろ、只じゃ済まされねえぞ。
>八:へへーんだ。仏様が見通してて呉れなさるんだ、そんなことできる筈はねえさ。なんてったって、上様より仏様の方が上なんだからな。
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