100.【か】 『飼(か)い犬(いぬ)に手(て)を噛(か)まれる』 (2001/10/22)
『飼い犬に手を噛まれる』
「飼い犬」は面倒を見てやっている者のこと。普段から特別大事にしてやっている者から、思いがけず害を加えられること。
類:
煮え湯を飲まされる●He has brought up a bird to pick out his own eyes.(彼は自分の目をほじくり出させるために鳥を飼っていた)●One who plays with edged tools will cut himself.(刃物を玩(もてあそ)ぶ者は、自分を傷つけてしまうものだ)<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典
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与太郎が仕事の合い間に聞いてきた話では、行き倒れ寸前の状態で鞍馬屋の店先に、座り込んでいたのだという。

>与:鞍馬屋に奉公するようになったのは15年くらい前だったそうです。どこから来たのか何をやってた人なのか、詳しいことは誰も知らないそうです。先代の浩吉っていうお人は、そんな冨三郎さんを、何も聞かずに雇(やと)ったってことです。
>八:ほう。先代は正面(まとも)なお人だったんだな。
>与:ところが本人の方はあまり正面じゃなかったみたいです。何かっていうと、先代さんに突っ掛かるようなことばかりしていたみたいなんです。大福帳を誤魔化して小銭をちょろまかしたとかで、叱られたこともあるそうです。
>八:だって、婿養子なんだろ? 父親とは駄目でも娘とは巧くいってたって訳か? 居るんだよな、手の早い奴ってのがよ。
>半:ま、大店(おおだな)のご主人様も人の子だってことだな。娘に泣き付かれりゃ身代だろうがなんだろうが譲っちまう。
>与:それが、好いた好かれたって訳でもないそうです。寧(むし)ろ、嫌われてたみたいなんです。

>八:どういうことだ? それじゃあ店を冨三郎に任せる必要なんかねえじゃねえか。
>与:天明の飢饉(1783)の後って、何処も彼処(かしこ)も不景気だったでしょう? その頃、鞍馬屋さんも、傾きそうになってたらしいんです。それを立て直したのが今の旦那だったってことなんです。
>半:へえ、商才はあったってことだな。・・・で? どんなことをやって立て直したんだって?
>与:そこまでは分からないそうなんです。気が付いたら婿に納まってたそうです。
>八:娘が条件ってことか。下品な野郎だねえ。
>熊:そうじゃねえよ。身代を継ぐってのが条件で、娘を嫁に付けたのは、先代の方から望んだことだったんだろ。
>八:お店(たな)のために好いてもいねえ野郎とくっ付かなきゃならねえなんて、可哀相だよな。
>熊:しょうがねえだろ。赤の他人に丸々持ってかれるくらいなら、半分でも娘のものにしておきたかったんだろ。それに、孫ができりゃ、孫のものになるんだからな。幾らか気も安まるってもんだ。
>与:ところが、孫はできてないんです。余所に女を囲っているらしいって話ですが。
>八:まったく、雇って貰った恩義も何もあったもんじゃねえな。

冨三郎は、ここのところ頻繁(ひんぱん)に外出をし、3・4日帰らないことも屡々(しばしば)だったという。

>八:それにしてもよ、野郎、どこへ出掛けてやがるのかな? 後を付けたことはねえのか?
>与:そんなの銭湯の下足番に聞いたって分かりはしませんよ。
>八:なんだお前ぇ、鞍馬屋の女中とかから聞いてきたんじゃねえのか?
>与:だって、鞍馬屋さんってのは深川の方なんですよ。そんなとこまで行ってたら青物が萎(しお)れちゃうじゃないですか。
>八:菜っ葉を裁(さば)いちまってから行ってくりゃよかったじゃねえか。
>与:そんなこと言われたって・・・
>熊:なあ八よ、与太郎だって鞍馬屋の名前を今日初めて聞いたんだから、そんなこと言ったって始まんねえだろ。そんなことより、他に何か分かったことがねえかどうか聞く方が先だろう。
>八:そうまで言うならしょうがねえな。与太郎、さっさと続きを話しやがれ。

>与:はあ。銭湯にいたお客さんの話なんですが、麹町の方のお屋敷に入っていったって噂があるそうです。
>半:あの辺りのお屋敷ってったら、紀州様か尾張様か伊井様のどれかだろ? なんでまたそんなところへ?
>八:千両箱でも借りに行ったのかな?
>熊:その逆かも知れねえぞ。
>八:逆って?
>熊:決まってんじゃねえか、賂(まいない)だよ。袖(そで)の下
>八:なんでそんなことする必要があるんだ? そうじゃなくても材木の買い占めに、とんでもねえ銭が掛かるってのによ。
>与:・・・そうか。今分かりました。
>八:何が分かったんだ?
>与:尾張様です。木曽の木材奉行をなさってるでしょう?
>八:そうなのか? そんな上のことなんかまったく気にしたことなかったもんな。
>半:だんだん読めてきたな。
>八:何が読めてきたんだ? どっかに書いてあるのか?
>熊:まあ待ちなよ。読めてきたは良いが、尾張様と言やあ御三家だぞ。手出しなんかできる訳ねえだろう。下手をすると名前を呼んだだけだって、首が飛ぶかも知れねえんだぞ。
>八:そんなに凄(すげ)えのか?
>熊:凄いの凄くないのってぇ話じゃねえ。御三家ってのは、上様と同じようなもんなの。
>八:ひゃあ、そいつは大変だ。・・・おい与太郎、危なっかしい話なんか持ってくるんじゃねえよ。
>与:だって、話せって言ったのは八つぁんたちの方じゃないですか。

流石(さすが)に御三家の名前まで出てきては、町人風情では手に余る
かといって、まったく手を引いてしまうのも悔しい。手立ては何かないものかと思案した結果、政情に詳しそうなご意見番・内房正道に相談してみてはどうかということになった。
翌日、八兵衛と熊五郎は、親方の許しを得て、内房が隠居している旅籠(はたご)へと向かった。

>内:おや、八つぁん、それに、熊さんでしたか? 茶飲み話に付き合って貰えるんですか?
>八:ご隠居さん、生憎(あいにく)なんだけど、そんな悠長なもんじゃねえんで。
>内:込み入ったことですね? こいつは面白そうですね。
>八:面白がって貰っちゃ困っちまうんで。おいらたち大工の将来が掛かってるんだから。
>内:ほう、それは穏やかじゃないですねえ。ささ、こっちに来てお座んなさいな。

凡(おおよ)その経緯(いきさつ)は熊五郎が説明した。
「その話なら耳にしたことがありますよ」と言って、内房翁が説明したのはこんな話だった。

>内:尾張様のところでは、この夏、ちょいとしたお家騒動がありましてね。お殿様がお隠れあそばして、お世継ぎは去年養子に迎えられたばかりの8つのお方だそうなんですよ。
>八:お殿様が隠れんぼして、次の鬼が8つの子供だってことでやすか? 別に大変なことでもんえじゃねえですか? どっちかってえと微笑ましい話じゃねえですか。
>熊:お隠れになるってことは、死んじまったってことだ。新しいお殿様が年端のゆかねえ子供だって話だよ。
>八:なんだそういうことか。そりゃあ大事だわなあ。
>内:ほっほっほ。まったく愉快なお人ですね、八つぁんは。・・・江戸上屋敷の方は、殆ど空き家同然なんです。恐らく、お目付け役が居なくなったのを良いことに、不心得者が跋扈(ばっこ)しているというところですね。
>八:なんですか、そのバッコってのは?
>熊:好き放題してるってこと。
>内:・・・そうですか。聞いてしまったからには、少しばかりお灸(きゅう)を据えないといけませんね。
>八:治療してやってどうするんです。びしっとやんなきゃ駄目じゃねえですか。
>内:はは・・・。そうですね。八つぁんの言う通りですね。
>熊:あのなあ、お灸を据えるってのは、厳しく叱り付けるってことなの。
>八:そういうことなのか? 紛らわしい言葉なんか作るなってんだよなあ。

>熊:ですが、ご隠居さん。いくら悪い奴だってったって、御三家の家臣なんですよ。下手(へた)に手を出したらこっちが危ねえんじゃねえですか?
>内:役人を絡(から)めるから大事(おおごと)になるんです。上様に直接お知らせしてしまえば、そんな心配は要りませんよ。
>八:う、上様ですって? ご、ご隠居、そんなとこにお顔が利くんでやすか?
>熊:そ、そんなにお偉いお方だったんですか? こ、これは、失礼をば致しましてございます。
>内:そんなに恐縮しなさんなって。ただの釣り仲間なんですから。
>八:釣りぃ? 上様って、釣りなんかなさるんですか?
>内:そりゃあ、将軍様だって人の子ですから、釣りくらいしますよ。
>八:はあ、こりゃあ魂消(たまげ)た。おいら、将軍様ってのは神様なんだと思ってた。
>熊:お前ぇ、魂消るとこが違うんだけど・・・

>内:それにしても、お家が一大事だってときに、私利私欲に走るなんてのは、許せるもんじゃありませんねえ。留守居役を仰せ付かっておきながら、そんなことに荷担(かたん)してお家の名を汚そうなんて、罰(ばち)当たりも良いところです。国元(くにもと)の斉朝(なりとも)様が聞いたら卒倒なさいますよ。
>八:懲らしめちまいますか? おいらたちで。
>内:ほほう、そういうのも面白そうですね。
>熊:ご隠居さん? 真逆(まさか)、本気で言ってるんじゃねえですよね?

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