87.【お】 『鬼(おに)が笑(わら)う』 (2001/07/23)
『鬼が笑う』
実現性がないことや見通しがはっきりしないことを言ったときに、揶揄(からか)う言葉。 例:「来年のことを言うと鬼が笑うぞ」
類:●Don't count your chickens before they're hatched.
★「笑う」は、あざ笑う意味。但し、現在では、いかめしい顔をしてとても笑いそうもない鬼でさえ笑う、という解釈も許容される。
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太助が下手(へた)をすると解雇の憂(う)き目に会うかも知れないと聞かされて、お夏も協力できるものなら協力したいと思った。
しかし、おいそれと良い思い付きが出てくるものではない。

>夏:瓦版の次のネタねえ・・・
>八:具合い良く大火事でも起こりゃしねえかな。
>熊:人様の不幸なんか願うもんじゃねえ。
>八:まあ、堅いこと言うなって。火事と喧嘩は江戸の花って言うじゃねえか。
>四:・・・あのですね、役者の裏事情とか、役人の悪事みたいなのがあれば、結構評判になるんじゃないでしょうか?
>八:なるほど。誰もが知ってる名前が出てくりゃ読んでみようかって気になるわな。
>熊:下世話ものか? おいらはあんまり感心しねえな。
>八:売れなきゃしょうがねえんだろ? だったらそういうのが一番良いんじゃねえのか? なあお夏ちゃん?
>夏:そうねえ。・・・でも、役者さんを論(あげつら)ったりしたら、絵草紙売りっていう商売柄、差し障(さわ)りがあるんじゃないの?
>八:流石(さすが)お夏ちゃん、細かいとこまで気が回るな。太助、どう思う?
>太:はあ。やっぱり役者さんについては、あんまり悪く書かない方が・・・
>八:そうだよな。じゃあ、お役人だな。五六蔵、お前ぇら、近頃そういった話、聞いちゃいねえか?
>五六:八兄い、あっしらはもう疾(と)っくに足を洗ってるんですぜ。そういうことだったら、お咲ちゃんとか与太郎さんとかに聞いた方が良いんじゃねえですか?
>八:そうか。すっかり忘れてた。与太郎、なんかねえか?
>与:そんなこと言われても、あたいたちは下っ端(ぱ)の下っ端ですから、そんな立ち入ったことまでは・・・
>八:そうか。それもそうだよな。あーあ、駄目だなこりゃ。
>四:いやにあっさり諦(あきら)めちゃうんですね。
>八:人間諦めが肝心って言うじゃねえか。
>熊:何が「任しときな」だ。この役立たずが。

>夏:そう言えば、この間、養生所で耳にしたんだけど、南町の根岸様って、凄(すご)い評判らしいわよ。
>八:誰だい? その根岸さんってのは。
>夏:八兵衛さん知らないの? 3年前に南のお奉行様になった人じゃない。大岡様にも負けないくらいの名奉行よ。
>八:そうなのか?
>与:お奉行様の噂話なら、あたいも聞いたことあります。元々は町人だったって話です。
>八:どういう冗談だ? 町人がお奉行様になんかなれる訳ねえじゃねえか。
>夏:あら、そうとも限らないわよ。養子縁組とかかも知れないし、ご落胤(らくいん)だったかも知れないし。
>八:なんだか、野崎屋が聞いたら直ぐにでも飛び付きそうな話だな。
>与:まだありますよ。若気(わかげ)の至りとかで、刺青(いれずみ)をしてるって噂です。
>八:なんだと? そんなのにお裁(さば)きを任(まか)しといて大丈夫なのか?
>夏:庶民の人情に通じてるから、立派なお裁きができるんですって。
>八:ふうん。益々以って、野崎屋の喜びそうな話だな。
>咲:野崎屋さんだけじゃなくって、安孫子(あびこ)なんとかっていう文士も飛び付きそう。

>太:書物になっちゃうんじゃ、また手代さんたちの扱いになって、おいらにはなんにも足(た)しにならないじゃないですか?
>熊:そうでもねえぞ。
>太:どうしてですか?
>八:どういう訳だ?
>熊:作り話じゃなくて、実話を書けば良いんだよ。面白可笑(おもしろおか)しく書く必要なんかねえのさ。今日起こった騒動を、お奉行さんがどう裁いたか書いて、明日配れば良いんだ。本来の瓦版の役目のその儘(まんま)じゃねえか? 話が新しいから意味があるんで、古くなった話じゃ読みたいとも思わねえ。

そんな訳で、どうやら目処(めど)が立ってきた。
伝六を通じて鴨太郎に掛け合ってみれば、取り敢(あ)って貰える公算(こうさん)も高い。なんといっても、大岡奉行のとき、瓦版が飛ぶように売れたという実績があるのだ。

>八:なあ太助、2・3年後に手代になるって話も満更(まんざら)じゃなくなるかも知れねえな。
>太:そんなこと・・・
>熊:あんまり喜ばせるようなことばっかり言うもんじゃねえよ。まだ、なんにも決まっちゃいねえんだからな。
>八:何を言ってやがる。もう決まったじゃねえか。後はおいらがちょちょいと文面を書けば良いだけだろ?
>熊:お前ぇは書くな。
>八:なんでだ? 安孫子なんとかより巧く書くぞ。
>熊:駄目だ。事実だけを有りの儘書かなきゃならねえんだぞ。お前にそんなことできる訳ねえじゃねえか。
>八:そんなことねえさ。試(ため)
しに1回だけやらせてみねえか?
>咲:駄目よ、八つぁん。あたしは認めない。とんでもな滅茶苦茶なものになりそう。
>夏:あたしもそう思う。
>八:お夏ちゃんまでそんなこと言うのか?
>熊:だってよ、お前ぇ、例えばだよ、「市中引き回しの上張り付け獄門」ってどういう意味だか分かるのか?
>八:なんだそれ? お経の文句か?
>熊:ほれ見ろ。なんにも分かってねえじゃねえか。

>太:瓦版にして売れるような見事なお裁きって、そうそうあるもんじゃないんじゃないでしょうか?
>熊:どうだろうな?
>咲:でも、ちょっとした騒動なんか、1日に何件も持ち込まれる訳でしょ? 半月とか1月の間なんにもないなんて考えられないわ。
>太:そうでしょうか?
>咲:そうよ。大丈夫。それにね、1回凄いのを読ませれば、みんな興味を持つから、2回目からは随分と楽になるわよ。
>八:夫婦喧嘩の仲裁とかで、お茶を濁しても大丈夫だな。
>咲:幾らなんでもそれは極端(きょくたん)
過ぎ。
>八:そうか。
>熊:でもよ、今さっき初めて聞いたおいらたちだって、もうこんなに興味深々(しんしん)なんだぜ。捨てたもんじゃねえぞ、きっと。
>咲:あら珍しい。渋ちんの熊さんにしては随分と甘い評価を出したものね。
>熊:誰が渋ちんだと?

>八:渋ちんって、しみったれだってことだよな?
>咲:そう。しみったれの渋ちん。そんなんだからいつまで経っても、一本立ちできないのよ。
>熊:大きなお世話だ。
>八:お前ぇがそうやって捻(ひね)くれてる間によ、おいらが嫁を貰って、一本立ちして、弟子を取って、「親方ぁ」なんて姉さんが親方のこと呼ぶみてえに呼ばれてよ、「なんだい?」なんて答えたりなんかして・・・
>熊:勝手に逆上(のぼ)せてろ。
>八:あ、お前ぇ、妬(や)いてやがるな?
>熊:呆(あき)れてものも言えねえってやつだ。
>八:おいらが棟梁になったとき、お前ぇがまだ下働きしてるようだったら、特別に仕事を回してやるからよ。
>熊:何が「棟梁になったら」だ。先がどうなるかなんて分かる筈ねえじゃねえか。馬鹿らしくって臍が茶を沸かすぜ。
>八:なんだ熊、お前ぇにそんな芸当ができるのか? 大工なんかやってねえで、見世物小屋にでも行った方が良いんじゃねえのか?
>熊:そういう意味じゃねえだろ。
>八:お前ぇの沸かす茶はよ、渋ちんだけに、よっぽど渋かろうよ。
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参考・人物:根岸鎮衛(ねぎしやすもり) 江戸後期の江戸の南町奉行。1737〜1815。肥前守。少年時に絹商をしながら塙保己一(はなわほきのいち)とともに江戸に出て、出世後の再会を約したという俗説がある。著、随筆「耳袋(みみぶくろ)」。 上に戻る