41.【い】  『一寸(いっすん)の光陰(こういん)軽(かろ)んずべからず』 (2000/08/28)
『一寸の光陰軽んずべからず』
僅かな時間も無駄にしてはいけない。
出典:朱熹「偶成詩」 「少年易老学難成、一寸光陰不可軽
作者:朱熹(しゅき)=朱子(しゅし) 中国南宋の儒者。1130〜1200。名は熹。字は元晦・仲晦。号は晦庵、晦翁、雲谷老人など。宋学の大成者。その学は、宋の周敦頤、程明道、程伊川、羅予章、李延平らの学と道、仏の学を総合大成したもの。日本では江戸時代に幕府の御用学となる。主著に「近思録」「資治通鑑綱目」「四書集注」「朱子語類」など。
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秋のしとしとと降り続く雨と違って、梅雨はじめじめして、じとじとしている。
現場の方へは、晴れ間が出るようなら行けば良い。
しかし、熊五郎と八兵衛は長屋で漫然(まんぜん)としてはいられずに、いつもより早く源五郎の家へと出掛けて行った。
親方の傍(そば)にいるから進展があるというものではないが、じりじり待つよりも、時間を無駄(むだ)にしないように思えたのだ。

>八:このまま雨が上がらなかったら、親方んところで夜までぼうっとしてなきゃならねえのかなあ?
>熊:止(や)まねえ雨はねえって言うし、待つしかねえんじゃねえの?
>八:唯(ただ)待ってるだけってのもなあ。
>熊:仕方ねえだろう。
>八:尤(もっと)も、何か起こっちまったらそっちの方が大変か?
>熊:止(よ)せよ、お前ぇがそう言うと良からぬことが起こりそうで・・・。おい、あれは?
>八:あれは昨夜(ゆんべ)の田ノ助とかいう桶屋(おけや)。一緒にいる爺さんはもしかすると・・・
>熊:太郎兵衛か?
>八:違(ちげ)ぇねえ。おい、行くぜ。
>熊:待て。お前ぇはまず親方に報(し)らせろ。おいらが入り口で引き止めとく。
>八:合点。

太郎兵衛たちが立ち止まり、「大工源蔵」と書かれた札を確認している間に熊五郎が声を掛け、八兵衛が家の中に駆け込んだ。

>熊:淡路屋太郎兵衛親分とお見受けいたしやす。
>太:お前さんは?
>田:親分。こいつ、源五郎の弟子の熊とかいう奴です。
>熊:へい。熊と申しやす。・・・おっと失礼いたしやした、控(ひか)えもしねえで。
>田:おい、舐(な)めてんのか? 親分はだなあ・・・
>太:良いから黙ってなさい。熊さんとやら、源五郎さんと奥方に会いたいんですが、良うございますか?
>熊:多分おいでだと思いやす。連れのもんが見に行ってやすんで、いま暫(しばら)くお待ち願いてえんですが。
>太:良いでしょう。
>熊:ときに、こんな按排(あんばい)だってのに、どういったご用向きでやすか?
>田:そいつは本人に会ってから話す。
>太:これ田ノ助、そうきゃんきゃん吠(ほ)え立てるものじゃありません。大人しく控(ひか)えていなさい。

八兵衛が玄関口から出てきて、門のところにいる3人を呼ばわった。

>八:熊、お連れしなさいってよ、親方が。
>熊:良いのか?
>八:何も差し支(つか)えはねえそうだ。
>熊:そうか。・・・じゃあ、そういうことですんで、どうぞこちらへ。

源五郎は、太郎兵衛と田ノ助を居間へ上げた。
田ノ助は流石(さすが)に入り口傍(そば)に控えていたが、神経だけは張り詰めているらしかった。然(さ)もなければ、初めて訪れる場所に馴染(なじ)もうと、きょろきょろしているだけだったかも知れない。

>源:真逆(まさか)来るとは思いやせんでした、それも親分さんが直々(じきじき)に。ご足労でございやした。
>太:いえいえ、あやさんとのこと何も気付きませんで、失礼しているのはこっちですよ。それに、たいそうな内容の文(ふみ)まで貰っておいて梨の礫(つぶて)じゃ仁義に悖(もと)る。
>源:魂胆(こんたん)はお在りなんでやしょう?
>太:はい。あの文の中身同様、中々のご推察ですね。唯、手土産(てみやげ)だけは今回のこととは別ですから、納(おさ)めといて貰いたいんですが、良うございますね? ・・・田ノ助、お出ししなさい。
>源:それは、こいつが決めることです。
>あや:「明後日お咲ちゃんに持たせて欲しい」などと言って突き返したら、今日の親分さんの沽券(こけん)に関わるんでしょう?
>太:いやはや、相変わらず察しが良い。尤も、お咲さんにはちゃんと別のものを持たせますがね。そちらの方は、こちらの勝手に任せていただきます。
>源:太郎兵衛さん。祝儀(しゅうぎ)は祝儀、道理は道理ですから、その辺の混同は無しにしていただきやすよ。
>太:これは手厳しい。はいはい承知しております。こういう立場にいますと、少々道を外れたこともしますが、約束は守りますよ。
>源:それなら結構。では、早速(さっそく)本題をお聞きしやしょう。
>太:事が済んだ後(あと)、あたしのことをどうするのかってことです。
>源:文にも書きやしたが、関わらなかったってことにしやすよ。生憎(あいにく)、捕(と)り方やお役人の知り合いもありやせんからね。
>太:仮にですよ、二助さんが無傷(むきず)で戻らなかったら?
>源:恐れながらと訴(うった)え出るって書きやしたが、きっと、そうはしないでしょう。

>太:どうなさいます?
>源:淡路屋さんと、泉州屋さんと、鳴門某(なにがし)のところへ直接お伺(うかが)いするでしょうね。
>太:話し合いになど応じないと言ったら?
>源:話し合いに行く積もりじゃありやせんよ、潰(つぶ)しにです、潰しに。
>太:皆さんで? 大工が10人程度揃(そろ)ったって、こちらには命知らずが何人もいるんですよ。
>源:そんな危なっかしいところに可愛い弟子を連れてったりはしやせんよ。独(ひと)りで行きやす。
>太:とんだお笑い種(ぐさ)です。そんな化け物みたいな人間の話なんて今まで1回しか聞いたことがありませんよ。
>あや:木場の辺りのことじゃありません? 衣笠屋さんっていうお店(たな)の。
>太:な、なんで知ってるんです。
>あや:どうしたんです? 顔色が変わりましたよ。
>太:あ、あんた、あんときの大工か? そう言やあ、こんな顔してやがった。
>あや:言葉遣いまで変わりましたよ。
>太:・・・おっといけねえ。・・・大工の源でしたかね。参りましたな。こんなところにいたとはね。
>源:見物人の中にでもいなすったんですかい?
>太:いやいや、投げ飛ばされた1人ですよ。捕り方から逃げ果(おお)せたのはあたしだけでした。まだ誰も戻ってきていません。この年まで生きてきて、何が恐ろしかったって、あれが一番恐ろしかったですよ。あんたがここにねえ・・・

>あや:わたし、居たんですよ。
>太:居た?
>あや:衣笠屋さんで奉公してました。あなたがたに縛(しば)り上げられた内の1人です。
>太:そいつは・・・
>源:そうか。そうと聞いちゃあ、考えなきゃならねえな。
>太:ど、どうするってんです?
>源:今直(す)ぐ淡路屋へ出向いても良いってことでやすよ。
>太:ま、待っと呉れ。二助は無事だ。お咲さんも今日の内に返す。な、文面の通り、関わらなかったことにしと呉れ、な。
>源:それで? 泉州屋のことはどうしやす?
>太:あたしは手を引く。泉州屋と鳴門にも止(や)めるように言っておく。それで綺麗さっぱり忘れちゃあ貰えないか?
>源:なあ、どうする?
>あや:もうこれ以上わたしたちに関わらないでいただけますね?
>太:分かった。・・・こら、田ノ助、素っ頓狂な顔してないで帰るぞ。時間が勿体ない

太郎兵衛たちは、這(ほ)う這うの体(てい)で帰っていった。

>八:どうなってんだいこりゃ?
>熊:よっぽど怖い思いだったんだろうな。
>八:でもよ、なんだか物凄(ものすご)く面白いものを見ちまったな。
>熊:長屋でごろごろしてねえで良かったな。
>八:まったくだ。「青年老(ふ)け易く、良縁成り難し」だな?
>熊:お前ぇ、そんなこと誰に教わったんだ?
>八:お前ぇがお咲坊を好いてるって教えてやったら、お夏っちゃんがな・・・。もたもただらだらしてるなっていう意味だとよ。
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