第3章「豪腕源五郎の純情A(仮題)」

28.【い】  『急(いそ)がば回(まわ)れ』 
(2000/05/29)
『急がば回れ』
危険な近道をするよりも、遠回りでも安全確実な道を歩いた方が結局は目的地に早く着ける。遠回りに思えても安全な手段を取った方が得策であるということ。
類:●急いてはことを仕損じる●走れば躓(つまづ)く●慌てる乞食は貰いが少ない●The longest way round is the nearest way home.(いちばんの回り道がいちばん近い帰り道)<「英⇔日」対照・名言ことわざ辞典>●More haste, less speed.
反:■巧遅は拙速に如かず
出典:柴屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)の連歌「武士(もののふ)の矢橋(やばせ)の舟は早くとも、急がば廻れ瀬田の長橋」 ・・・場面は、琵琶湖の矢橋の渡し。時代は、室町時代。
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お堀端の桜が淡(あわ)い桃色に包まれ、水面に花弁を散らし始めた日に、甚兵衛主催で恒例の花見の会が開かれた。
二日前に降った花散らしの雨にも耐えて、桜は正(まさ)に満開だった。
半月に一度くらいの割で太郎兵衛配下の権太が長屋近くをうろついたりしたが、ちょっかいを出して来るでもなく、平安な日々が続いていた。
五六蔵の調べによると、太郎兵衛は今のところ谷中の方にどっしりと構えて、これといって何かを企(たくら)んでいる風ではないとのことだった。

>甚:今日はご婦人方が腕に縒(よ)りを掛けて肴(さかな)を用意して呉れました。あたしはこの年でそうたくさんは飲み食いできないですが、若い皆さんが飲んでも足りるくらいのお酒は用意させて貰いました。どうか、思う存分(ぞんぶん)楽しんでください。前置きが長いのもなんですから、早速(さっそく)乾杯をいたしましょう。
>八:そんじゃあ、恒例通り、一番目方(めかた)のあるのおいらが一発ぶちかましやしょう。用意は良いですかい? 行きやすよ。

八兵衛はやおら立ち上がり、右腕を回し、右肩を揉(も)み、気合いを入れてから桜の幹に突進した。
降ってくる花弁(はなびら)を湯飲みに受け止めようと、長屋の連中は身体を右に左に揺さぶった。
段取りを聞いていなかったあやは、ぼうっとしていて後れを取ったが、何のことはない、何もしないうちに花弁の方から、3枚も、舞い込んできていた。

>八:それじゃあ皆さんよござんすね。せーの、かんぱーい。
>熊:1枚も取れなかった人は居やすか? なんでえ、定吉、お前ぇ今年も駄目だったのか。姉さんなんざ、ちゃっかり4枚も取ってんじゃねえか。
>八:・・・あいやー、すっかり忘れてた。
>熊:どうした?
>八:あやさんに、なあんにも講釈(こうしゃく)してなかった。
>熊:お前ぇって奴は、まったく。・・・あやさん、どうでした?
>あや:呆気(あっけ)に取られていたら花弁の方から入ってきていました。3枚です。
>八:ほぅらな、世の中なんてものはそういう風にできてるんだよ。
>熊:何がそういう風にだよ。好い加減な奴だね。
>八:あっちを取ろうかこっちにしようかってあたふたやるより、じいっとしてた方が良い結果になるってこった。
>熊:慌てる乞食は貰いが少ないってやつか? お前ぇにしちゃ真っ当なことを言うじゃねえか。なあ、定吉、勉強になっただろう。
>定:はい。ですけど、どうやらおいらにはツキってものがないようで。
>八:おいらが良いこと教えてやるよ。付きに見放されてると思ったらな、付いてる人の側(そば)にいると良い。回ってくるお零(こぼ)れを貯めていけば、いつの間にか1人前の「付いた人」になってるって寸法よ。
>熊:お前ぇ今日は冴えてるね。人が変わっちまったみてえだ。
>八:馬鹿を言っちゃいけねえよ、「
能ある鷹は角隠し」とか何とか言うじゃねえか。
>熊:お前ぇ態(わざ)と間違えてるのか?

そんな風にして、花見の会は始まった。

>あや:1枚も取れなかったら何をするんですか?
>八:飲み潰(つぶ)れた人があったら、長屋まで負んぶしてかなきゃならねえんで。
>あや:あら、それは大変そうね。それじゃあ定吉さんは去年も誰かを背負って帰ったんですか?
>熊:去年は六さんでした。そりゃもう酷(ひど)い荒れようで。
>六:あ、いや、去年は少し風邪気味だったからだ。今年は体調万全、準備万端、細工は流々だ。
>咲:何が細工は流々よ。出掛けに納豆を掻き込んで来たぐらいで下戸(げこ)は治らないのよ、父上。
>六:下戸ってほどの下戸じゃないぞ。
>咲:でも、この中じゃ1番が父上で、2番が大家さんだって、皆が知ってることじゃないの。
>甚:おいおいお咲ちゃん、あたしの名前まで出すことないんじゃないのかい?
>咲:ご免なさい。ちょっと、一気に飲んじゃったんで、酔っ払っちゃったのかしら。
>六:咲、お前、酒を飲んだのか? 子供は飲んじゃ駄目だと言っているであろう。
>咲:子供じゃないもん。それに、あたし、父上より強いから平気。定ちゃんだってお酒だもんね。
>杉:定吉っ、水じゃなかったのかい。
>定:はい。お咲さんに注(つ)がれちゃいまして。

>杉:まったく、どうなってるんですかね、この長屋の面々は。大家さんもこんな店子(たなこ)ばかりで情けなくなるでしょう。
>甚:あたしゃ嫌いじゃないですよ、こんなのって。
>咲:お爺ちゃん、話せるう。もう一杯どう?
>甚:いやいや、あたしゃ2番目に弱いそうだから大概にしとくよ。さてと、そこいらをそぞろ歩いてきますかね。あやさんや、ちょいと付き合って貰えないかね。
>あや:はい、お供します。
>咲:お爺ちゃんたら、あやさんばっかりね。あたし妬(や)けちゃうわ。
>熊:子供とじゃ散策にならねえとよ。
>咲:何よその言い種(ぐさ)。良いわよ、今日はとことん飲んでやる。
>六:おいおい、親より先に酔い潰れたりするのではないぞ。
>八:定吉、お咲坊なら負んぶし甲斐(がい)あんだろうよ。
>定:はい、付きが回り始めたかも知れません。
>杉:これ、老成(ませ)たこと言ってんじゃないの。
>八:こりゃ効果覿面(てきめん)だ。大家さんも、帰ってくる頃には、付いて付いて付き捲って、手の施(ほどこ)しようがなくなってるんじゃねえのか?
>熊:こら八、縁起でもねえ言い回しをするもんじゃねえ。

お堀端は、どこもかしこも花見客で溢(あふ)れ、まるで世の中全部が春爛漫(らんまん)ででもあるかのようだった。
この雑踏(ざっとう)なら、少しくらいなら、立ち入った話をしても大丈夫そうだった。

>甚:あやさんや、もう法要は済ませたんでしょう?
>あや:はい。先(せん)だって本郷の方へ行って参りまして、墓にも参ってきました。
>甚:それじゃあ、もうそろそろ話を進めさせて貰っても構わないね。
>あや:ええ、それはそうなんですが・・・
>甚:なんだい? 急いては事を仕損じる、ですか?
>あや:そういうことでもないんですが。
>甚:大丈夫ですよ。源蔵なら諸手を挙げて賛成しますよ。
>あや:暫(しばら)く、わたしのやりたいようにやらせて貰っても構わないでしょうか?
>甚:本人の遣りようは止められないですがね、いつまでものらりくらりというのじゃ適(かな)わないですからね。
>あや:ちょっとだけです。
>甚:ま、結果が同じなら道筋がどうだろうと構わないですがね、精々(せいぜい)良い報告をしてくださいよ。
つづく)−−−≪HOME