345.【と】 『斗南(となん)の一人(いちにん)』 (2008.01.14)
『斗南の一人』
北斗星より南で第一の人。また、天下第一の賢人。
類:●北斗以南一人のみ●天下無双
斗南(となん) (「斗」は北斗星。北斗星より南の意で、唐の狄仁傑(てきじんけつ)が、その賢を「北一人而已矣」と称せられたという「唐書−狄仁傑伝」の故事から) 天下。<国語大辞典(小学館)>
*********

内藤のお殿様は養子だったが、先代の早世のため寛政3年(1791)16歳のときに家督(かとく)を継いだ。以来、可もなく不可もなくの地味な生活を続けている。
初代が手柄で拝領(はいりょう)した広大な下屋敷まで受け継ぎ、庭弄(いじ)りなどを好む、どちらかというと若隠居のような在りようである。

武兵衛爺さんが言うには、生真面目(きまじめ)一本槍の質(たち)で、石橋を叩いて渡るような人だという。
ただ、一旦信用されてしまいさえすれば、一生懇意(こんい)にして呉れるに違いないとのことである。

>五六:やっぱり、あっしじゃなくって、源五郎親方を連れてった方が良いんじゃありやせんか?
>武:馬鹿言っちゃいけねえ。源五郎なんぞもう四十も半ばじゃねえか。いつくたばっても可笑(おか)しかねえって奴を連れてったって仕方ねえじゃねえか。
>五六:四十半ばでくたばりそうはねえでしょう。そんなこと言ったら・・・
>武:俺なんか3回は死んでるとこだってんだろう? へっ。鍛(きた)え方が違うのよ。年食ってから女房を貰って、今頃んなって逆上(のぼ)せ上がってるようじゃ、先は知れたもんだっての。
>五六:そういうもんですかね。
>武:お前ぇたちゃ、まだ三十そこそこだろ?
>五六:ええ、まあ。
>四:そういうことなら、熊兄いや八兄いだって三十そこそこですが。
>武:ああ、八五郎か。
>四:あの、熊五郎と八兵衛なんですが。
>武:そんなことどうでも良いやな。あの八助の野郎は駄目だな。調子が好過ぎる。どこぞの商人(あきんど)の隠居所でも建ててるのが似合いだ。
>五六:腕は良いですぜ。
>武:腕は腕、柄(がら)は柄だ。余程(よほど)道楽もんでもなきゃ、相手にされねえよ、あいつぁあ。
>五六:お奉行様みたいなってことですかい?
>武:根岸のかい? あのお人だって、一徹者じゃねえか。無理無理。良いとこ、旅籠(はたご)の爺いまでだな。
>五六:そうですかい。まあ、そりゃ、そうなのかも知れやせんね。

>四:八兄いはそうかも知れませんが、熊兄いならどうなんです?
>武:熊助か? ・・・うーん、良く分からねえ。
>五六:分からねえんですかい?
>武:ああ。さっぱり分からねえ。・・・俺はよ、ああいう石頭は苦手なの。
>五六:ははあ。そういう訳で源五郎親方も嫌なんでやすね?
>武:言っとくがな、俺は生まれや質で人を選んだりしやしねえぞ。
>五六:十分にしてるようなんでやすが。

体調の良くない老人を、これ以上問い詰めたって埒(らち)もない
五六蔵と四郎は、形ばかり武兵衛に従ってみようと、目を見合わせた。

土地の名こそ「内藤新宿」と付いてはいるが、つい先頃までは芒(すすき)が生い茂る野っ原であった。
甲州からの葡萄(ぶどう)や梨といった水菓子や、蕎麦粉などの荷が頻繁に着くようになって、宿場が立ち、賑(にぎ)わってきたのは、ほんの数年前のことである。

そんな内藤新宿の店々を見ながら、武兵衛、五六蔵、四郎が歩いていく。

>武:言っちゃあなんだが、お殿様が凄いって訳じゃねえんだよな。どっちかってぇと、盆暗だな、ありゃ。
>五六:そんなこと言っちまって良いんですかい?
>武:良いってことよ。どうせ聞こえやしねえさ。
>四:壁に耳ありって言いますが・・・。
>武:そんなのは迷信よ。耳も染みもあるもんかって。
>四:染みだらけですが。
>武:黙らっしゃい。減らず口を叩いてる暇があったら、漆喰(しっくい)でも捏(こ)ねて、塗り直しでもなんでもしたら良い。
>四:し、済みません。
>武:でよ。その内藤様の家を切り盛りしているのが、福井安赳(やすたけ)様という家老でな。このお人は立派だよ。
>五六:どう立派なんですかい?
>武:親子二代で内藤様に仕えてきてるお人なんだがね。面(つら)は、そうさな、糸瓜(へちま)に目鼻をくっ付けたようでな。
>五六:褒(ほ)めてんですかい、貶(けな)してんですかい?
>武:黙って聞いてろってんだ。これから褒めるんだからよ。・・・のらりくらりと、上手くこっちの話を交わしやがってよ。
>五六:はあ。
>武:こっちの失言ってのか、言い間違いを誘うのよ。
>五六:なんだか、取っ付き難そうなお人でやすねえ。
>武:そうでもねえさ。笑うときなんぞ、にへらーって笑うぞ。
>五六:気持ち悪(わり)ぃですね。
>武:そこが良いのさ。あっちにへいこら、こっちにへいこらしねえってことは、筋が一本通ってるってことじゃねえか。下らねえ破落戸なんぞ、一人たりとも出入りさせねえぞ。
>五六:なんだか、心配になってきやしたぜ。
>武:大丈夫だって。俺に任しとけ。


武兵衛が、勝手知ったるという様子で勝手口から入っていくと、出入りの商人らしき者が土の上に座らされていた。
それを見下ろしているのが、糸瓜顔の皺々
の男である。
勿論、この人が内藤家の金庫番、福井安赳である。

>福:・・・昨年の物より相当に味が落ちておる。しかも、購(あがな)って2日で黴(かび)が生えるとは如何なることですか。神妙に話しませい。
>商人:は、はい。申し訳御座いません。ど、どうやら、古い卵が混じっていたようで御座いまして・・・。
>福:古いとは、どれほど古いものですか?
>商人:はっ。その辺のところは、お店(たな)に戻りまして、手代と丁稚(でっち)を問い詰めまして・・・。
>福:では、その方は、いつのものだか知らないで使ったと申すのですか?
>商人:はい。勿論で御座います。
>福:それで咎(とが)を免(まぬか)れるとでも思うているのですか?
>商人:い、いえ、滅相もないことで御座います。
>福:それでは、大藤(おおふじ)屋。そちは向こう5年の間、当家には出入り禁止といたします。良いですな?
>大藤屋:ははあ。寛容なるお裁き、痛み入りまして御座います。

>福:・・・して? 此度(こたび)の代金は如何いたしますか?
>大:は、はい。当然お返しいたします。
>福:それから?
>大:は? 「それから」と申しますと?
>福:古い物と知らずに食してしまった儂(わし)への詫びはどうするのかということです。
>大:そ、それにつきましては、ご家老様の好物である「小判煎餅」をば・・・。
>福:賂(まいない)を贈って寄越すというのですか?
>大:いえ。そのような趣旨では御座いません。せ、煎餅に卵を使っているかどうか、一度お確かめ願えればと思いまして、味見をですね・・・。
>福:「毒見」ではありませんね?
>大:それはそうで御座います。舌の肥えた福井様にしかできないことで御座いますとも。
>福:そういうことでしたら、仕方ありませんね。

武兵衛爺さんは、にやにやしながらその光景を眺(なが)めている。
(なんだか相当扱(あつか)い難い爺様だな)と、五六蔵は思った。
つづく)−−−≪HOME