335.【と】 『十日(とおか)の菊(きく)』 (2006.05.29)
『十日の菊』
1.菊の節供(陰暦9月9日)の翌日の菊のこと。菊の節供を過ぎたのに、仏壇などに飾られている菊。
2.転じて、時期に遅れて役に立たないことの喩え。
類:●残菊●後(のち)の菊●六日の菖蒲●六菖十菊●夏の小袖●夏の布子●夏炉冬扇後の祭り寒に帷子土用に布子
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八兵衛には、目刺しに少しばかりの飯では満足できよう筈もない。
けれども、「無い袖は振れないので御座います」と言いながら腹を擦(さす)られては、それ以上のものを所望(しょもう)することもできなかった。
早いところ話を済ませて、家に帰り次第茶漬けでも掻き込まないことには腹の虫も静かにならない。

>八:ねえ番頭さん、まだでやすかねえ?
>番頭:はい。いつもですと、もう程なく戻る筈なんですが・・・
>八:ほんとでやすね? あんまり遅いようだと、帰りますよ。
>番頭:それでは話が違います。数少ない楽しみである、晩の御飯まで差し上げたんで御座いますから。
>八:これっぱかしのもんが楽しみなんですかい?
>番頭:それはそうです。一食抜くと、力が入らないのですから。「楽しみ」というより、むしろ「命の綱(つな)」です。
>八:そんなら食えば良かったじゃねえですか。
>番頭:あなたが食べたそうな顔をしましたもので。
>八:そんな顔してましたか?
>番頭:それはもう、目がきらりと光りました。
>八:そりゃぁ、悪いことしちまったな。
>番頭:ですから、最後まで面倒を見てください。お願いします。
>八:うーん、でもなぁ、なんだか、面倒臭くなってきちまったな。
>番頭:駄目(だめ)ですって。後生(ごしょう)ですから。こっちは、一生米の飯有り付けなくなるかも知れないんですよ。
>八:他人のことまで構っちゃいらんねえよ。
番頭:人非人(ひとでなし)いっ。
>八:そんなこと言わねえで呉れよ、番頭さん。こんな食ったか食わないか分かんねえような飯じゃ、却(かえ)って腹が空(す)いちまうんだよ。早いとこなんか食わねえと。
>番頭:人殺しーっ。
>八:おいおい、穏(おだ)やかじゃねえな。誰か来たらどうするんだよ。分かった分かったって。大人しく待ってりゃいいんだろ?
>番頭:もう直(す)ぐですから。

店の主(あるじ)が戻ってくるまでに、八兵衛は「もう直ぐ」を10回以上聞かされた。
やっと帰ってきたのは、4つ半(=21時ころ)だった。

どすどすと、番頭の部屋へ向かってきて、がらりと障子(しょうじ)を開けると、見慣れない男がいたので少々うろたえたようである。
案外、小心者であるようだ。
鼻の頭を赤くして、酒の臭いをぷんぷんさせている。

>旦那:だ、誰だ、家(うち)に勝手に上がり込んでいるのは?
>八:へい。八兵衛です。・・・勝手に上がり込んだんじゃなくて、番頭さんからどうしてもって頼まれて、旦那さんのことをお待ちしておりやした。
>旦那:なんだと? ・・・専蔵さん、ほんとなんですか?
>番頭:は、はい。あの、「越前屋」さんと「一黒屋」さんからのお使いだそうです。ふ、文(ふみ)もあります。この通り。
>旦那:なんだと、「越前屋」? あの坊主が羽織を着てるみたいな、味も素っ気もねえ奴からか?
>八:そうでやす。地蔵(じぞう)が前掛けしてるみたいなのでやす。
>旦那:ほう。・・・で? 文にはどんなことが書いてあるんだ?
>八:おいらはちっとも知りません。・・・ま、大方、豊島(としま)と神田のお店(たな)には手を引かせるから、3人で懇(ねんご)ろにやりましょうやってことしょう?
>番頭:八兵衛さん。そういうことは読む前に・・・
>旦那:良いんだよ、専蔵さん。・・・成る程ね、寺社奉行所からの被布(ひふ)の話ね。厄介(やっかい)なことになるんじゃないかと思っちゃいたんだがね。「越前屋」で邪魔者を退(ど)けて呉れるってんなら、渡りに船だな。
>八:そうですかい。・・・そういうことなら、おいらの役もここまででやすね? 引き取らして貰いますよ。
>番頭:ま、待ってください。まだ、肝心(かんじん)の文を読んでいませんから。
>旦那:そうか。それじゃ、読むだけ読むとするか。なになに・・・

「一黒屋」の方の文には、確かにそのような内容のことが書かれてあったようである。
が、「越前屋」の方のを読むと、急に顔から血の気(け)が引いた。

>旦那:えーと、「近江(おうみ)屋殿。染物の依頼あり。請(う)け書きをこの者に持たされたし。手間賃は無用。その代わり、評判の寿司(すし)でも振る舞われてはいかがか」だと? なんだこれは?
>八:寿司ですって? 食わして呉れるんですかい?
>近江:そんなものはない。
>八:ないんですか? ちぇっ。
>近:いや、ないことはない。しかし、お前ごときに
出すのは惜(お)しい。
>八:そんなに上等なもんなんでやすか? うっひょう。食いたい食いたい食いたい。
>近:だから、駄目だと言うのだ。
>八:だって、お地蔵さんが食わせろって言ってるんでしょ? そんなら良いじゃねえですか。
>近:5年ものだぞ。どこの馬の骨とも分からぬ奴になど食べさせられるものか。
>八:なんですって? 「5年もの」? 食えるんですかい?
>近:言うに事欠(ことか)いて「食えるか」とは、なんという言い種(ぐさ)。お前は鮒(ふな)寿司のなんたるかも知らないのか?
>八:知りやせん。なんですかい、そりゃ?
>番頭:八兵衛さん、鮒寿司というのはですね、「熟(な)れ寿司」というものでですね・・・
>近:そんなことも知らんのか。まったく、だから江戸の奴らは田舎(いなか)者だというんだ。
>八:そう言う旦那さんだって江戸の人じゃねえんで?
>近:あたしは近江の生まれ。誰が江戸生まれなものですか。
>八:相当嫌ってますね?
>近:悪いか。・・・だからあたしは、この専蔵さんも5代目越前屋も信じないんです。
>八:でも、後継ぎさんはどうなんで? 江戸生まれでやしょう?
>近:倅(せがれ)などおらん。そのうち、国許(くにもと)から甥(おい)を呼ぶ。
>八:あれま。そりゃぁ念の入(い)ったこって。

「越前屋」の文にはまだ続きがあった。
こんな内容である。「どうせ今夜も寄り合いだろうから、明日、この者に届けさせるよう。期日を過ぎたなら、また別の者が来るようなら、この件はなかったこととし、その上、今後の取り引き金輪際(こんりんざい)願い下げである。」
近江屋の旦那は、八兵衛に頼むしかなくなってきた。

>近:名はなんといったかな?
>八:八兵衛でやすよ。大工の八兵衛。
>近:請け書きを用意するから、明日、「越前屋」に持っていって呉れんかね?
>八:寿司抜きででやすかい?
>近:寿司は勘弁して呉れんかね。他のものなら・・・
>八:おいらなんだか、その鮒寿司ってのが、無性(むしょう)に食いたくなっちまったな。さっき食ったのは物凄く少なかったし、腹が空いたなぁ。
>近:そう旋毛(つむじ)を曲げずとも良いではないか。
>八:曲がってるのは、旋毛じゃなくて、(へそ)の方なんだけどなぁ。ぐうって鳴いてるの聞こえやせんか?
>近:聞きたくもない。
>八:あ、そうでやすか。そんならおいら、もう帰りますよ。雨も上がってるようですしね。・・・まあ、どっちにしろ、明日は仕事ですから、日本橋なんかにゃ行けませんがね。
>近:それは困る。行って貰わないと、「越前屋」との取り引きがなくなってしまう。
>八:羽織の坊主なんかどうでも良いんでしょう?
>近:そうもいかんのだ。あそこと付き合いがあるというだけで箔が付くのでな。
>八:でも、おいらは仕事ですから。・・・明後日が雨だったら、行かねえでもねえですがね。

>近:どうしても明日でないといけないんだよ。明後日では駄目だと書いてある。
>八:仕事を休めなんてことは言えねえでしょう? なんてったってこっちには、鬼瓦(おにがわら)みてえな怖い親方がいますからね。話を付けて呉れるってんなら、どうにかなるかも知れませんがねえ。
>近:仕事はどこでやってるんだね?
>八:飯田町ですよ。来ますかい?
>近:専蔵さんを行かせます
よ。そうすれば、一緒に行って貰えるでしょう?
>八:昼時に、寿司を持ってですかい?
>近:寿司のことは・・・
>八:ああそうですかい。そんじゃどうも。

立ち上がろうとした八兵衛を押し留め、近江屋は渋々鮒寿司を渡す約束をした。
八兵衛はにんまりである。
熟れ寿司というものがどういうものなのかは、本当に知らないようであった。

翌日になって、「頼むからこのまま持って帰って呉れ」と頼むことになろうとは、知る由(よし)もなかった。
「他のもの」の方を所望しておけば良かったと考えても、後の祭りである。
つづく)−−−≪HOME