332.【と】 『東奔西走(とうほんせいそう)』 (2006.05.08)
『東奔西走』
東に西に奔走(ほんそう)すること。あちらこちらと駆け回ること。
類:●東走西奔●南船北馬
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その2日後、朝から雨が降っており、大工仕事は休みになった。
八兵衛と三吉は、「一黒屋(いちこくや)」へと出掛けていった。
三吉まで付いてきたのは、熊五郎に言わせると「心許(こころもと)ない」からである。

>八:お前ぇまで来ることなかったのによ。
>三:おいらだって来たくなんかなかったんです。熊兄いがどうしてもって言うからですからね。
>八:ご馳走(ちそう)が半分になっちまうじゃねえか。
>三:これだから困っちまいますね。ご隠居さんのとこへ来たのは、組み紐の使い道を知らないかどうかってことを聞くためなんですからね。
>八:分かってるって。こっちだって、「子供の使い」とまで言われて黙ってられるかってんだ。
>三:ほんとですね? ちゃんと聞いてくださいよ。
>八:お前ぇも諄(くど)いな。大丈夫だって。任(まか)しとけって。
>三:態々(わざわざ)昼時を狙(ねら)ってくるあたりが、どうにも任せ難(にく)いとこなんですけどね。
>八:そう気にするなって。・・・さあて、今日のご馳走は何が出てくるのかな、うっしっし。
>三:ほうらね。これだから、熊兄いが信じない訳ですわ。

一黒屋与志兵衛は、八兵衛の顔を見るとにっこりと笑い、そそくさと立ち上がって、隠居所の方を指差した。
八兵衛も慣れたもので、数次に「よっ」と声を掛けると、すたすたと先に歩き出した。

>与志:雨の中をご足労(そくろう)ですね、八つぁん。
>八:なあに。ご隠居さんと話ができるんだったら、仮令(たとえ)火の中水の中ときたもんだ。
>与志:そう言っていただけると、あたしも嬉しいですよ。
>八:ご隠居さんが元気で嬉しそうにしてるのを見ると、こっちまで力が湧(わ)きますよ。
>与志:そうですか。あたしも、この雨で客足が引いてしまって、くさくさしていたところです。
>八:そいつはいけませんね。・・・どうです、いっそのこと、ぱあっと行っときますか?
>三:八兄い。いけませんって。
>八:良いじゃねえか。聞くことさえ聞けば後はなんでも好いんだろう?
>与志:どうかしましたか?
>八:いえいえ。こっちの話ですって。
>与志:この雨じゃお仕事の方はお休みでしょう、三吉さん? ちょっとくらいなら、良いじゃありませんか。
>三:でも、そのために来た訳じゃありませんから。
>与志:まあまあ、堅いことは抜きにしましょう。
>三:でも、教えていただかなきゃいけないことは、聞いとかないと。
>与志:なんですか?
>八:まあまあ。そう慌(あわ)てなくたって、ご隠居さんは逃げやしないんですから。さ、腹ごしらえ腹ごしらえっと。

こんなことで良いのだろうかと思う三吉であったが、八兵衛も与志兵衛も、揃いも揃って上機嫌である。
あまり杓子定規に振舞(ふるま)って、そこに水を差すのも憚(はばか)られた。
為すがままに出された料理を摘(つ)まみ、越後の酒とかいう上等な酒を飲んだ。

>八:くうーっ。昼間の酒ほどの贅沢(ぜいたく)はありませんね、ご隠居様。
>与志:そうですね。一度覚えると癖(くせ)になりますね。
>八:毎日雨だったら、毎日お相手ができるんですけどね。
>三:そんなことになったら、大工は飯の食い上げになっちまいますって。
>与志:はは。そうですね。・・・そういうことでは、家(うち)のような客商(あきな)いも似たようなものです。
>八:ご隠居さんのところは大丈夫でしょう。なんてったって、頭に「超」の字が付くほどの大店(おおだな)なんですから。
>与志:そんなことはないですよ。利は薄いですからねえ。
>八:そこが良いんじゃありませんか。庶民の味方って奴ですよ。
>与志:良いこと言って呉れますね、八つぁんは。・・・さ、もう一杯行っときましょう。
>八:そうですか? なんだか、催促(さいそく)しちゃったみたいで済みませんねえ。

口ではいかにも済まなそうに言って見せてはいるが、正(まさ)に催促しているのである。
隣(とな)りで見ている三吉の方が恥ずかしくなるほどである。

>与志:それはそうと、聞きたいことというのはどういうことですか?
>八:ああ、それですね? ええと、「しふ」だか「ひふ」だかって奴は扱(あつか)ってらっしゃいますか?
>与志:「被布」ですね? 八つぁん、良く知ってますねえ。
>八:言っちゃあなんですが、おいらだって着物には気を使ってる方ですからね。
>三:どうだか。
>八:なんか言ったか?
>三:いいえ。なんにも。
>八:そんなら良いがよ。・・・で、どうなんです?
>与志:この秋ごろから扱(あつか)い始めることになりますねえ。
>八:おっ。するってえと、やっぱり当たりでやすね?
>与志:何がですか?
>八:おいらが口を利(き)いてやって売れた組み紐は、ご隠居さんのとこへ持ち込まれたってことでやすね?
>与志:組み紐ですか? いいえ。家じゃないようですね。
>八:なんですって? 違うんですかい?
>与志:はい。違います。

>八:そうなんですか? こりゃ、とんだ見込み違いでやしたか。・・・参(まい)ったな。
>与志:なんだかお役に立てなかったようですね。
>八:いえいえ。・・・内房のご隠居が噛(か)んでれば、こちらに違いねえと思ったんですけどね。違うってんなら仕方ないですねえ。
>三:それじゃ、もう失礼しましょうよ、八兄い。
>八:まあ待ちなって。まだ魚が半分も残ってるじゃねえか。
>三:意地汚いって嫌われますよ。
>与志:そんなことはありませんよ。全部食べて貰うのが、焼いた者への心遣いというものですからね。
>八:そうですよね? 流石(さすが)ご隠居さんは分かってらっしゃる。
>与志:いえいえ。あたしなんかも、どちらかというと意地汚い者ですから。ま、「酒飲みの常」という奴ですかな。
>八:違ぇねえ。・・・そんじゃ、いっただきまーす。
>三:まったく、困ったお人らだこと。

>与志:内緒ですが、教えてしまいましょうか?
>八:なんですかい? 造り酒屋の話ですか?
>与志:そうじゃありませんよ。組み紐のことです。
>八:へ? なんですかい? もしかして、本当は頼まれたなんて言うんじゃないでしょうね?
>与志:そうじゃありません。確かに「一黒屋」では頼まれてはいません。ですが・・・
>八:なんですかい?
>与志:話が持ち込まれたお店(たな)がどこかということなら知っています。
>三:なんですって?
>八:知ってるんですかい? ・・・だって、内緒の話なんじゃないんですか?
>与志:ちっとも。・・・呉服屋の間じゃ知らない者はいないほどのことですからね。
>八:そうなんですか?
>与志:そういうものです。思い切ったことを考えるお人なんですね、家島様というお人は。
>八:そこまで知ってらっしゃるんですか? こりゃ凄(すげ)えや。
>与志:少なからず、あたしのところへも助力の頼みが来ていますからね。高価そうに見えて、実はそれほど高くない生地(きじ)をお分けしています。
>八:そりゃあ凄えや。で、どこなんですかい?
>与志:ちょっと遠いですよ。行きますか?
>八:ここまできちまったら乗り掛かった船ですからね。行っちまいますか。
>与志:それでは、文(ふみ)を書きますから、序(つい)であたしの方の用も足(た)してきて貰えますか?
>八:お安いご用ですって。

与志兵衛の話では、その「越前(えちぜん)屋」という大店は、日本橋の近くにあるという。
なんでも、上等なものばかりを扱うという評判の店である。

>八:するってえと、お城の堀をぐるっと回った向こうの方ってことですね?
>与志:そうです。
>八:雨の中を歩くには、ちょいとばかし遠いですね。
>与志:そうですね。駕籠(かご)でも呼びましょうか?
>八:め、滅相もない五体満足なのに駕籠になんか乗っちゃ、罰(ばち)が当たるってもんです。
>与志:そうですとも。若いんですしね。・・・では、お酒はそのくらいにしておいて貰わないと大変ですね。
>八:へ? そんなことはないでしょう? 高々日本橋ですぜ。近いもんですって。
>与志:それがですね、そうでもないんですよ。
>八:そんなこたぁねえでしょう? おいらたちはまだまだ若いですからね。
>与志:実はですね、日本橋の次に行って貰わなきゃならないところがあるんですよ。
>八:「次」ですかい?
>与志:はい。ちょっと大変ですが、豊島(としま)まで戻って貰わなきゃなりません。
>八:戻るんですか?
>与志:はい。そしてその後、神田の目鏡(めがね)橋へ。そして本郷までです。
>八:なんですって? また向こうっ側なんですかい? ・・・それって、嫌がらせかなんかですかい?
>与志:いえいえ。ものごとには段取りというものがあるのです。順番を変えることはできません。
>八:そんなに歩いたら日が暮れちまいますよ。
>与志:仕方ないですねえ。そういう決まりですから。
>八:そんなら、おいらはもう良いや。・・・三吉、お前ぇが行って来い。
>三:おいらが1人でですかい? そりゃあなんだか筋が違いやしませんか?
>八:元々筋なんて代物(しろもの)はねえんじゃねえの?
>与志:いえいえ。生憎(あいにく)ですが、引き受けたのなら八つぁんに行っていただかないと。あたしが困ってしまいますから。

>八:どうしてもですかい?
>与志:はい。どうしてもです。・・・頼みましたよ。
>八:そんなこと、おいらに頼まれたって・・・
>与志:だって、知りたいんでしょう、八つぁんは?
>八:いや、あ、あの、知りたがってるのは熊の野郎でして・・・
>与志:でも、引き受けたのは八つぁんでしょう?
>八:そりゃそうですが、おいらは昼飯を・・・
>与:お昼はご馳走しましたよ。だから行ってきてください。文には、「被布」についてはどうか手を引いて呉れって書きます。4軒のうち
の2つくらいを端折(はしょ)れれば言うことなしなんですがね。
>八:そんなことまでやらなきゃならないんですかい?
>与志:そういうことにならないと、安くは売れないのです。・・・これは、あたしの勝手なお願いです。

>八:「勝手な」って、あまりに勝手過ぎやしませんか?
>与志:いえいえ。あたしは、いたって謙虚(けんきょ)ですよ。・・・だって、お店を畳(たた)むように仕向けるとは言ってませんもの。
>八:半(なか)ば言ってやしませんか?
>与志:細かいことは気にしないでください。そういうところが八つぁんの良いところなんですからね。
>八:なんだか、良いように丸め込まれてるような気がするんですが。
>与志:商(あきな)いというのは、時折りそういうこともしなければならないものなんです。
>八:分かりましたよ。外(ほか)でもないご隠居さんの頼みじゃね。ですがね、お酒をもう1杯くらい・・・
>与志:いけません。商い話は駆け引きですからね。酔っていたりしたら気を悪くさせてしまいます。
>八:そりゃぁないですよ、ご隠居。
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