312.【つ】 『爪(つめ)の垢(あか)を煎(せん)じて飲(の)む』 (2005.11.28)
『爪の垢を煎じて飲む』
優れた人の爪の垢を貰って薬として飲むという意味で、その人に肖(あやか)ろうとすること。
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「明日のうちに突き止めろ」と言われたって、そうそう旨(うま)く事が運ぶ道理はない。
お咲と太助は、田楽(でんがく)屋・「田伯楽(でんはくらく)」の近くをうろついていたが、主(あるじ)の幹次郎(みきじろう)は一度も顔を見せなかった。

>太:なあ、お咲ちゃん。
>咲:なあに?
>太:おいら、芋(いも)田楽が食べたくなってきちゃったんだけど、良いかな?
>咲:駄目(だめ)よ。顔を覚えられちゃうじゃない。
>太:だってさ、お昼の握(にぎ)り飯もあれだけだったじゃないか。
>咲:あたしの分を1つ分けてあげたじゃない。
>太:それでも、足りなかったんだもん。だってさ、お咲ちゃんの可愛らしい手で握ったんだろ? どうやっても小さくなっちゃうじゃないか。
>咲:あら、あたしの手が可愛いって?
>太:まるで紅葉(もみじ)みたいなんだな。上等なお造(つく)りの大皿に飾(かざ)ってあるやつみたいなんだな。
>咲:あら、太助どんも見る目があるじゃないの。
>太:秋刀魚(さんま)なんかが良いかな。それとも、鯛(たい)かな。
>咲:鯛よね。なんてったって鯛。それも尾頭(おかしら)付き。
>太:良いんだな。・・・そんでもって、「だるま」なんかの安酒じゃなくって、上等な下(くだ)りものが良いな。
>咲:あたしって、やっぱりそんなに上等かしら?
>太:ああ。お咲ちゃんがご馳走(ちそう)して呉れるってんなら、なんだって上等だな。

>咲:困るわねえ。あたしお嫁に行ったばっかりだし、今更(いまさら)そんなこと言われたって、蹌踉(よろめ)いたりなんかしないわよ。
>太:どうしたんだ? おいらが握り飯を食っちまったから、腹が減って蹌踉いちまいそうなのか?
>咲:違うわよ。あたしに言い寄っても無駄よってこと。
>太:食い物の話をしてるときに、おいら他のことなんか考えないんだな。
>咲:へ? ・・・何よ、全部食べ物の話だった訳? あたしの手の話じゃなくって。
>太:握り飯の話だろ。そんでもって、鯛と酒の話だな。お咲ちゃんの手の話なんか、これっぽっちも出なかったんだな。
>咲:だって「可愛い」って言ったじゃない。
>太:小さいってことなんだな。
>咲:あっそ。あたしの聞き方が間違ってたって訳ね。・・・もう知らない。芋田楽が食べたいんだったら、あっちの方の田楽屋で買って食べたら? 自分のお足でお好きなだけ食べていらして結構よ。
>太:ちょっとくらい出さない?
>咲:出さない。

太助は、もう一度縋(すが)るような目で見てきたが、すっかり腹を立ててしまったお咲は、つんと顔を背(そむ)けてしまって取り付く島もない
仕方なしに太助は、1町(いっちょう=約109m)ほど離れた田楽屋に向かって歩いていった。
身体(からだ)がひょろ長い分、背中を丸めて歩くと、一層情けない

そんな風にして夕方まで張り込んでいたが、幹次郎は結局現れなかった。
その間太助は1町先の店まで3度も往復し、お咲も見るに見兼ねて、最後の1度だけは付いていって田楽の代金を払ってやった。

>咲:今日はなんの実(みの)りもなかったんだから、「だるま」へ行ったって誰も飲ませてなんか呉れないわよ。
>太:それでも、三吉っちゃんくらいはいるんだろう? おからくらいならなんとかして呉れるんじゃないかな?
>咲:太助どん、あんた、端(はな)っからそんなつもりで飲みに行こうって訳?
>太:だって今日はお手伝いしたんだからさ。
>咲:なんの手柄(てがら)もないのは「お手伝い」って言わないの。
>太:そんなこと言ったって、只働(ただばたら)きってのはないでしょ?
>咲:だから、それは、坂田の小父(おじ)様の役に立ってあげたら、幾らでも飲み食いさせて貰えるって・・・
>太:それじゃあ、おいら、明日も手伝うんだな。
>咲:明日だって只働きになるかも知れないのよ。
>太:良いんだな。・・・だって、近頃、あんまりやることがないんだもの。
>咲:え? 瓦版(かわらばん)の方はどうなってるの?
>太:旅籠(はたご)のお爺ちゃんが、なんだか、やる気がなくなっちゃったみたいなんだな。
>咲:内房(うちぼう)のご隠居様が?
>太:偶(たま)に行くと、ちゃんとお昼の御飯は食べさせて呉れるんだけど、なんだか「はあー」って溜め息ばっかり吐(つ)くのよね。そろそろお迎(むか)えかな?
>咲:そんな縁起でもないこと言わないでよ。
>太:そうだよね。お爺ちゃんがいなくなっちゃったら、おいら、どこでお昼を食べて良いか分からなくなっちゃうもんな。そりゃ、大変だよね。
>咲:そういうことじゃないって。・・・ねえ太助どん。御飯を食べさせて貰うだけじゃなくってさ、物書きとか勘定(かんじょう)の仕方とか、何かを教わる気にはならないもんなの?
>太:おいらにはそんなの無理なんだな。
>咲:あーあ。与太ちゃんの半分でもやる気が出て呉れると良いんだけどな。
>太:うん。そうだね。出て呉れると良いね。

結局、「おから1杯分だけよ」という条件付きで、「だるま」へ行くことにされてしまった。
のらりくらり言い紛(まぎ)らされて、行く羽目に落ちるのである。
お咲は、坂田の遣(つか)いに進捗(しんちょく)状況を伝えるために、一旦家へ帰った。

>八:おっ、なんだよ、太助じゃねえか。読売りがたんまり売れたか?
>太:今日は太市の旦那のお手伝いなんだな。読売りなんか売ってないんだな。
>八:そんじゃ、なんか分かったのか? 田楽の裏の奴とか?
>太:田楽の裏にはなんにもないんだな。味噌が付いてるだけ。
>八:そういうことじゃねえよ。田楽屋のなんとかいう野郎の裏で糸を引いてる奴が誰だか分かったのかって聞いてるの。
>太:そんなの分からなかったんだな。
>八:なんだよ。それじゃあ、空(から)っ穴(けつ)なのか?
>太:そう。懐(ふところ)具合いなのに空っケツとはこれ如何に?
>八:なあに下らねえこと言ってやがるかね。そうじゃなくって、坂田の旦那にお知らせすることはねえのかってことだよ。
>太:ない。これっぽっちもないの。そんでもって、銭もないの。
>八:そんなら何しに来やがったんだよ。とっとと帰れ。
>太:そりゃあないんだな、八つぁん。おいら、明日もお手伝いするから、その分、前借りしたいんだな。
>八:前借りってったって、お前ぇ返せもしねえんだろう?
>太:うふっ。太市の旦那に返して貰うんだな。
>八:それじゃ、まるで集(たか)りじゃねえか。ちゃんと方が付くかどうかだって見えねえってのによ。
>太:良いって良いって、気にしなくても。
>八:いっつもこれだ。まったく能天気な野郎だぜ。

>太:あれ? 熊さんはどうしちゃったのかな?
>八:恋女房んとこへ帰ったよ。今日はおいらと三吉の2人だけだ。
>太:なんだ、そうなの。無駄足になっちゃったんだな。
>八:なんだと?
>太:後からお咲ちゃんと一緒に来るんだな。おいらにおからを食わして呉れるんだ。
>八:そんなことになってるのか? 困った野郎だぜ。
>三:・・・あの、それはそれで良かったんじゃないんですか? おいら、明日も手伝えそうにないし。
>八:あ、そうか。親方からもう1日待てって言われちまったんだっけな。
>三:そういうことだから、太助どん。明日も手伝ってやって呉れよな。
>太:どーんと任(まか)せろってことだな。・・・これだけお手伝いすれば、お酒も2本くらい大丈夫そうだな。
>八:勝手に測(はか)るなってんだ。まったく、どういう育ち方をしてるんだか。
>太:教えない。
>八:聞いちゃいねえってんだ。

太助は、そんなことには構わず、おからの大盛りと銚子を注文した。

>八:やい太助。今日はなんにも分かっちゃいねえんだから、ちっとは遠慮しとけよ。
>太:そんなことないんだな。分かったことだってあるよ。
>八:何が分かったってんだよ。
>太:1町離れたとこにある田楽屋より、「田伯楽」の方のがちょっとだけ甘い味噌を使ってるんだな。
>八:それがどうしたってんだよ。
>太:あれって水飴じゃなくって、白い砂糖なんだな。
>八:嘘だろ? 目が飛び出るほど高いんじゃねえのか?
>太:そうでもないんだな。近頃じゃ、阿波(あわ)とか土佐(とさ)あたりなら、たくさん作ってるんだな。
>八:へえ。お前ぇ、見掛けに拠らず物識(ものし)りなんだな。
>太:どうだ参(まい)ったか。
>八:するってえと何か? お上の許しを貰ってねえで仕入れているってことか?
>太:どうでしょう? おいらの鼻じゃ、そこまでは嗅(か)ぎ分けられません。
>八:そんなの嗅ぎ分ける奴なんかいるかってんだ。
>三:でも、それだったら、抜け荷(に)だってことも有り得るんですかね?
>八:そうかも知れねえな。・・・こりゃ、面白(おもしろ)くなってきやがったぞ。
>太:そんなのが面白いんですか?
>八:面白いの。・・・熊が来やがったら、早速(さっそく)話してやらねえとな。
>三:ですが、太助どんの鼻だけじゃ、なんの証(あかし)にもならないんですけど。
>八:だからよ、砂糖を運んできたとこをふん捕(づか)まえて、縛(しば)り上げて、お頭(つむ)をぽかりとだな・・・
>三:またそれですか。

>八:悪いかよ。
>三:悪くはありませんけど・・・
>八:何をもごもご言ってやがる。・・・大体だな、お前ぇには太助みてえな取り柄(え)もなんにもねえじゃねえか。ちっとは見習って鼻を鍛(きた)えてみろってんだ。
>三:大工が鼻を鍛えてどうしろってんですか。滅茶苦茶ですよ、八兄いは。
>八:そうか? うーん、そんじゃ、どこを鍛えようか?
>三:おいらは八兄いと違って、ちょっとくらいの酒でお説教(せっきょう)なんかしません。その辺のことは、見習ってください。
>八:なんだと? お前ぇみてえになれってのか? そりゃあ無理ってもんだ。
>三:そうじゃなくって、説教酒とか絡(から)み酒はしないようにしてくださいってことです。
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