279.【た】 『竹薮(たけやぶ)に矢(や)を射(い)る』 (2005.04.11)
『竹薮に矢を射る』
無益なこと。無駄(むだ)なこと。
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その浪人は、名を仙石(せんごく)角之進(かくのしん)といった。
そして、相手は、但馬屋(たじまや)三右衛門(みつえもん)の娘で、お円(えん)と言うという。
角之進は、甚兵衛長屋に負けず劣らずの、小汚(こぎたな)い長屋に住んでいた。
両親は共に健在(けんざい)だったが、この両親にしてこの倅(せがれ)というのが良く分かるほど、痩(や)せぎすで、頑固そうな目付きばかりが印象的だった。

>熊:あ、あの、大工の源五郎のとこのもんでやすが・・・
>角:おお。早速(さっそく)のお出まし、忝(かたじけな)い
>熊:そんでもって、こっちにいるのは、千場道場ってことで師範代をしてる柿本(かきもと)さんです。
>猪:柿本猪ノ吉です。・・・なんでも、聞けば、剣術道場の師範代を望まれているとのこと。仔細(しさい)をお聞かせいただいても宜(よろ)しいかな?
>角:はい。・・・あの、むさ苦しいところではありますが、どうぞお上がりください。

角之進は、お円との馴(な)れ初(そ)めから、ぼそぼそと語り始めた。

>角:暴漢(ぼうかん)たちに難癖(なんくせ)を付けられていたところを、助けられたのです。
>熊:助けたんじゃねえんですかい?
>角:そうです、お円さんに助けて貰ったのです。情けない話ではありますが。
>熊:お円さんって人は、武術でもやってなさるんで?
>角:そういうのではありません。その代わり、口は相当のものです。暴漢どもは、何も言い返せぬまま、すごすごと帰っていきました。胸が透(す)くとはこのことだと思いました。
>猪:聞いていると、貴公(きこう)は武術の方はあまり嗜(たしな)まれぬご様子。
>角:はい。木刀(ぼくとう)にすら振り回される始末(しまつ)です。
>猪:それなのに、どうして剣術道場などという話になったのです?
>角:拙者は、相当嫌われたようです。但馬屋の主(あるじ)とて、拙者の腕前など先刻ご承知。その上で、無理難題を押し付けてきたのです。
>熊:あちゃあ。そりゃあ大変でやすね。・・・でも、角之進さんは、それでもお円さんと一緒になりてえんでしょう?
>角:無論(むろん)です。お円さん以外は考えも付きません。

>猪:それで、歩み寄りの余地(よち)はあるのですか?
>角:今のところありません。ですから、縁結びのご利益(りやく)で評判の源五郎殿にお縋(すが)りしている訳でして。
>熊:うーん。こりゃあ、流石(さすが)の親方も手を焼くような話だぜ。・・・どう思う、猪ノ吉?
>猪:但馬屋の心変わりを待つしかあるまい。
>熊:そうだよな。・・・それで角之進さん、道場の他に、何か話になりそうなもんはねえんですかい?
>角:今のところはありません。でも、なんらかの実入りが見込めるものであれば、折り合いが付くのではないかと踏んでいるのです。
>熊:それについちゃ、何か目当てはありなさるんで?
>角:黒文字(くろもじ)なら、相応なものが作れます。
>熊:そりゃあ、楊枝(ようじ)でしょう? 内職(ないしょく)で食っていくのがやっとじゃねえですか。
>猪:話にならんな。
>角:しかし、楊枝を拵(こさ)えるくらいの器用さなら持ち合わせているということです。職人くらいにならなれませんか?
>熊:どこの世の中に、職人になるお武家がいるってんですか?
>角:しかし、現に、父も母もそのようなことで糊口(ここう)を凌(しの)いでいるのです。
>熊:そりゃそうかも知れねえですが・・・
>猪:商人(あきんど)の娘と一緒になろうとしているんだから、商人になろうと職人になろうと、構わないんじゃないか? ・・・但(ただ)し、どうにか食っていけるっていうのではいけないのであろう?
>角:はい。そういうことです。

熊五郎と猪ノ吉の頭では、良い考えは浮かびそうになかった。
やはり、親方に混じって貰って話さなければ納(おさ)まらないかも知れない。
一先(ひとま)ず、「もう少し刻(とき)をください」と言い置いて、角之進の家を辞去(じきょ)した。

>熊:こりゃあ難しいな。
>猪:熊ちゃんのとこの親方も、面倒(めんどう)な話を持ってきて呉れたもんだな?
>熊:それもそうなんだが、あの角之進さん、もうちょっとなんとかならねえもんか?
>猪:何がだ?
>熊:お円さんと一緒になりてえって気持ちばっかりが先走っててよ、自分が身を立てようって気がひとっつも感じられねえってことよ。大工だったら、もう鉋(かんな)の引き方くらい覚えてる年頃だぞ。
>猪:一概(いちがい)に大工とは比べられんがな。まあ、熊ちゃんの言いたいことは分かるよ。
>熊:八の野郎だったら「瓢箪鯰(ひょうたんなまず)と話してるみてえだ」って言ってるとこだぜ。
>猪:捕まえどこがねえって奴か。
>熊:ほんとに分かってんのかね、嫁を貰うってのがどういうことなのか?
>猪:そんなこと、分かってるもんの方が少ないんじゃねえのか? 俺だって、そんな考え方なんかしたことがねえ。
>熊:考えたことがなくたって、それとなくやっちまってるもんだろ? お前ぇだって、早くから師範代をやってたしよ。
>猪:俺の場合は、先生にその娘が付いていたってもんだからな。
>熊:謙遜(けんそん)するなってんだ。

但馬屋の方にも顔を出そうかと熊五郎が言い出すと、猪ノ吉は「お咲ちゃんを連れて行った方が良い」と言い張った。
どうしてかと尋ねてみると、あやもそう言っていたではないかと、妙にどぎまぎしながら応じた。
が、今度も熊五郎は、あやがそう勧(すす)めたのならと、猪ノ吉の提案に従(したが)った。

長屋へ取って返し、「お咲坊、いるかい?」と声を掛けると、直ぐに障子(しょうじ)から顔を覗(のぞ)かせた。

>咲:どうしたのよ、お仕事放(ほう)ってて良いの?
>熊:親方の言い付けなんだよ。そんで、猪ノ吉にまで手伝って貰ってる。
>咲:まあ、猪ノ吉さんじゃないの。・・・何よ、そんなに大事(おおごと)になってるの?
>熊:大事ってよりも、埒(らち)が明かねえって言った方が良いのかな?
>猪:まあ、詰(つ)まるところは、縁結びであるだけだからな。
>熊:あれでも、ご当人同士は、切羽(せっぱ)詰まってるんだからな。
>猪:分かってるって。
>咲:ねえねえ、どういう話? 面白そうなの?
>熊:お咲坊が面白くったってしょうがねえだろう? 人のことなんだからよ。
>咲:そんなの分からないじゃない。お武家だったら、父上の仕官(しかん)の口を利いて呉れるかも知れないし、商家だったら何か分けて貰えるかも知れないじゃない。
>熊:まったく、女ってのはこうだからいけねえな。なんでも損得勘定(そんとくかんじょう)だ。
>咲:良いじゃない。・・・で? どんな話?

熊五郎は、掻(か)い摘(つま)んで説明した。

>咲:ふうん。浪人と商人の娘さんねぇ。身分の差を乗り越えてって奴?
>熊:なにもそんな大袈裟(おおげさ)に考えなくても良いんだよ。当人たち2人はその気になってるんだからよ。
>咲:でも、その割りに、その角之進さんとやらは、お円さんのために商いを覚(おぼ)えようって気にはならない訳ね?
>熊:だってよ、お父つぁんから、商いには向かねえってのを見抜かれちまったってんだぜ。
>咲:それでもよ。ちょっとだらしないわよね。だって、初めからなんでもできる人なんかいないんだもの。やってみなくちゃ、何も始まらないじゃない。
>熊:だってよ、楊枝削(けず)りしかやったことねえってんだぜ。
>咲:良いのよ、そんなこと。小間物(こまもの)屋でも提灯(ちょうちん)売りでも、なんでもやってみれば良いのよ。
>熊:言うのは簡単に聞こえるけどよ、お武家にそいつは酷(こく)ってもんじゃねえのか?
>咲:お武家を辞(や)める覚悟はできてるんでしょ? そんなら、なんてことないじゃない。
>熊:そうか? どう思う、猪ノ吉?
>猪:どうだろうな。俺にはなんとも言えん。・・・お円という娘と但馬屋の考えも聞いてみんことにはな。
>咲:でも、聞いてる話のまんまだと、その角之進って人はなんにもできない盆暗(ぼんくら)みたいじゃない。
>熊:そうなのよ。ありゃあどう見たって、瓢箪鯰だぜ。
>咲:そんな人に女の方から惚れるかしら? うーん。変よね。
>熊:変か? おいらには女心なんかちっとも分からねえからな。
>咲:まあ良いわ。ご当人に聞けば分かるから。あたしが聞いてあげる。さ、行きましょ。2人とも、付いてきて呉れるんでしょ?

大変な鼻息である。
下手(へた)をすると、但馬屋の次に角之進のところにまで押し掛けようという勢いである。

>熊:お咲坊、鼻息が荒いのは結構だが、お前ぇ、但馬屋ってのがなんなのか知ってるのか?
>咲:知らないわよ、そんなこと。
>熊:結構でかい縮緬(ちりめん)問屋だってことだぞ。
>咲:縮緬? ほんと? ・・・ってことは、巧く行ったら反物(たんもの)が貰えるかも知れないのね? ようし。
>熊:「ようし」って、お前ぇ、端(はな)っから欲の皮を突っ張らかしてんじゃねえぞ。
>咲:良いじゃない。・・・どうせ最後には親方とあやさんが出てきて、なんとでも纏(まと)めて呉れるんでしょ?

>熊:その親方から頼まれたんだがね。おいらと猪ノ吉がよ。
>咲:え? そうなの? ・・・変ね。
>熊:何がだ? 別に変じゃねえだろ?
>咲:変よ。これっくらいのことだったら、親方とあやさんだけで、十分だもの。
>猪:お、俺はそうは思わねえぞ。だ、だってよ、あの角之進が、商いなんてできるか? そ、そ、それに、剣術の方なんてことになったって、木刀も碌(ろく)に振れねえってんだぜ。
>咲:猪ノ吉さん、なあに、その慌てようは?
>猪:慌ててなどおらん。俺だって、師範から命じられたからこうしてここに居(お)るだけだ。
>咲:ふうん。そうなの。へーえ。

お咲は、何かが可笑(おか)しいということに気付いたようである。
しかし敢(あ)えて、猪ノ吉を問い詰めることまではしなかった。
そんなことを言い始めてしまったら、面白そうな話に混じれなくなってしまう可能性もある。反物の話も夢と消えてしまうかも知れない。
どうせ鈍(にぶ)い熊五郎は、まだ気が付いていないのであろう。
懇切丁寧(こんせつていねい)に説明してあげたところで、源五郎とあやに忠実な熊五郎には、あやたちの魂胆(こんたん)など読めやしないのだ。
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