258.【せ】 『善(ぜん)は急(いそ)げ』 (2004.11.15)
『善は急げ』
善いことをするのに躊躇(ちゅうちょ)するなということ。善事は機会を逃がさずに、直ちに実行せよ。
類:●善事は急ぐ●思い立ったが吉日
反:●悪は延べよ急(せ)いてはことを仕損ずる
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「日取りをすぐに決めて、ご報告に上がりますよ」とは言ったものの、一黒屋与志兵衛からの使いが来たのは4日後だった。
式は、更に3日後だという。
お花は約束通り、昨日(きのう)には長屋に引っ越してきていた。

>源:やっと決まったか。長かったな。大店(おおだな)ってのは、何かと面倒でいけねえな。
>八:おいらは構いませんよ。どうせ、もう一緒に暮らし始めちゃってるんですからね。
>源:そう言っちまったら身も蓋もねえじゃねえか。1つの区切りだよ。
>八:それもそうですよね。実家のお父つぁん、お母さんの楽しみでもありますしね。
>源:楽しみって言やあ、そうかも知れねえが、親にしてみりゃ子育ての総決算だからな。これを済ませねえと肩の荷が下りねえってこった。
>八:するってえとなんですか? 親方は40年も肩の荷を下ろさせなかったんですかい? そりゃあ・・・
>源:喧(やかま)しいや。そんなことを言ってる暇があったら、もっと腕を磨いて、女房子供を食わせていけるくらいになりやがれってんだ。
>八:嫌だなあ、親方。子供だなんて、気が早(はえ)えですよ。
>源:だから、今のうちから気張ってねえと、弟子を持つ身にゃなれねえぞってこった。いつまでも今のまんまって訳にゃいかねえんだからな。
>八:へーい。精々(せいぜい)気張らせていただきまーす。
>源:こいつは、ほんとに一家の長だっていう自覚を持ってんのかねえ。

祝言(しゅうげん)の日取りが決まったと聞いて、友助も一安心というところである。
源五郎から許しを貰って、数次(かずじ)の世話焼きに出掛けていった。
当の源五郎は、曲がり形(なり)にも媒酌(ばいしゃく)をして呉れる元締めに、挨拶(あいさつ)に出掛けた。

>五六:八兄い、良かったですね。宙ぶらりんってのは、はっきりしないで嫌なもんですからね。
>八:そうか? おいらは別になんともねえけどな。・・・唯(ただ)、ここんとこなんだか糞(くそ)の出が悪かったけどな。
>熊:朝っぱらから汚(きたね)え話なんかするなってんだ。
>八:だって、そうなんだから仕方がねえ。
>五六:そりゃあ、あんまり食(しょく)が進まねえせいじゃねえんですかい?
>八:ん? そう言われりゃ確かに飯が少ねえな。
>熊:気になって飯が咽喉(のど)を通らねえってんじゃねえだろうな?
>八:おいらがか? 真逆(まさか)。・・・あ、そう言や、酒の肴(さかな)をあんまり食ってねえな、近頃。
>熊:ほれ見ろ。やっぱり心配だったんじゃねえか。

>八:そうじゃねえって。一昨日(おとつい)出された里芋(さといも)がよ、なんだかちっとばかし糸を引きやがるなって思ったんだよな。
>三:だって、「美味(うま)いからお前ぇたちには食わさねえ」って全部食っちまったのは八兄いじゃないですか。
>四:当たっちゃったんですか?
>八:さあ? どうだろう? なんだか、直(す)ぐに腹が張っちまうんだよな。
>熊:お前ぇ、腹を壊(こわ)してるかどうかも気が付かねえのか?
>八:ちっとも。・・・でもよ、なんだか余計に屁(へ)ばっかり出やがってよ。
>熊:なんだよ、馬鹿馬鹿しい。そのくれえならなんてことねえじゃねえか。
>八:ところがよ、なんだ、お花ちゃんの前だとよ、なんだか遠慮しちまうじゃねえか。
>熊:自分の嫁だろう?
>八:そりゃそうだ。でもよ、ぶうぶうやられるのて良いもんじゃねえだろう?
>熊:だからって、何も我慢するこたねえだろ?
>八:だからよ、なるべく音のしねえように・・・
>熊:透(す)かすのか? そりゃあ却(かえ)って臭(くせ)えぞ。
>八:分かってるって。だから、我慢するんじゃねえか。
>五六:そりゃあ良くないでしょう。「出物腫(は)れ物」ってんでやすから。
>八:だからよ、昼間のうちに透かしてるのさ。どうだ? 表で透かしてたら、そんなに臭(にお)わねえだろう?
>熊:お前ぇか、やっぱり。おいらまた、どっかの長屋で肥(こ)え汲(く)みでもしてるのかと思ってたぜ。傍迷惑(はためいわく)な野郎だな、まったく。

心に引っ掛かっていることが1つ解決した訳だから、腹具合いなど直(じき)に治るだろうということで、話を切り上げ、今日の現場へと向かっていった。

>八:そう言やよ、三吉。お前ぇの見合い話の方はどうなった?
>三:あ、あの、それがですね、8人のうち7人から断わられちまいまして・・・
>八:なんだと? 残り1人じゃねえか。
>三:へい。こっちはこっちで下手(したて)に出てるんですがねえ。
>八:下手に出ろとは言ってなかったんじゃなかったか?
>三:でもねえ、残りがどんどん減ってきちまいますと、何かおいら自身が気付いてない悪い癖でもあるのかななんて、心配になってきちゃうんです。
>八:丸5年も付き合ってるけど、そんなとこなんか何もねえぞ。・・・なあ、熊?
>熊:ああ。大丈夫だ。それを言うんなら、四郎の方がよっぽど悪い癖を持ってる。
>四:確かに。
>熊:お前ぇ、言い返さねえのか?
>四:だって、ほんとのことですから。おいらだって、もしおよねがいなかったら、今頃人の親になんかなっていませんよ。
>熊:へえ。四郎にしちゃ、さばさばしちまったもんだな。
>三:おいらには、そういうさばさばしたところがねえってことなんでしょうかねえ?
>八:確かに、今日日(きょうび)の娘は、粘(ねば)っこい野郎のことはあんまり好きじゃねえんだろうな。
>四:で、でも。そういうのって、一緒になっちゃえば、嫌でも応(おう)でもそういう風になっちゃうもんなんじゃないんですか?
>熊:しかしな、誰でもそういう風になるんだってことを、まだ知らねえ娘たちには、人様の亭主ばかりが良く見えるってことだな。上手い具合いに行かねえな、まったく。
>三:そうでしょう? 参(まい)っちゃうでしょう?
>八:世の中がみんなお亀ちゃんみたいなのだと良いんだけどな。
>三:それだって、ちゃんとおいらの方に向いて呉れるかどうか分かったもんじゃありませんけど。
>八:そう悪い方にばっかり考えるなって。

>熊:それで? 最後の娘にはいつ会うことになってるんだ?
>三:ええ。あの、おいらがあんまりだらしないからって、お咲ちゃんが向こうの娘さんと話を付けて呉れまして。今日だそうです。お午(ひる)のご飯どきに飯田町(いいだまち)の蕎麦(そば)屋に来いって言われました。
>熊:今日だと? 随分と急(せ)かすじゃねえか。
>三:こういうことはぐずぐずしてちゃ駄目よ、だそうです。
>熊:お咲坊の奴、何か企(たくら)んでるんじゃねえのか?
>三:さあ。おいらには何も言って呉れませんでした。
>八:まあ、そういうことはどうでも良いとしてだ。なんでまた、蕎麦なんだ? 色気も何もあったもんじゃねえ。
>三:それが、なんでも、名物の栗おこわが出始めたから丁度良いんだってことでして。
>八:おっ、栗おこわか? 美味そうじゃねえか。
>熊:お咲坊本人が食いてえだけなんじゃねえか? 三吉の銭で食わして貰おうって魂胆(こんたん)なんじゃねえのか?
>八:そんなのどうだって良いじゃねえか。それで話が纏(まとま)りゃ安いもんだ。それに、お咲坊がいて呉れた方が心強いじゃねえか、なあ?
>熊:どうだか。引っ掻き回されてお終(しま)いってことにならなきゃ良いけどな。

お咲にはお咲の魂胆があったのである。
その娘は、名を「お町(まち)」といって、三吉には勿体無いほどの器量好しであった。
2人は、三吉が来る半時も前に「金太楼(きんたろう)」で待ち合わせていた。

>咲:あたし、一目見たときにぴーんと来たのよね。
>町:何が?
>咲:お町さんこそ、看板娘に相応(ふさわ)しいって。
>町:看板娘? ぶっ掛け飯屋かなんかの?
>咲:うーん、まあ、似たようなもんかな? お仕事はあたしでもできることなんだけど、ほら、あたしってまだ小娘じゃない? 客あしらいが下手なのよね。それに引き換え、お町さんなら、立派な大人(おとな)だもん。あたしなんかより上手にこなせるわ。それに、器量もずば抜けて好いし、きっと評判になるわ。
>町:あたしなんかのことを雇(やと)って呉れるところがあるのかしら? どこもかしこも不景気不景気だってのに。
>咲:それがあるのよね。縄暖簾(なわのれん)だから、夜のお仕事になっちゃうんだけど。
>町:遠いの?
>咲:そんなことないわ。お町さんのところからだと、目と鼻の先よ。
>町:お手当てはそこそこ?
>咲:悪くないわ。それにね、お客の殆(ほとん)どは、独(ひと)り身の職人。
>町:ほんと? 好い男もいる?
>咲:うーん、それは期待し過ぎない方が良いわね。・・・でも、評判になれば、新しいお客が次々来るわ。看板娘見たさにね。

>町:あたし、やる。ね、お願い。口を利(き)いて。
>咲:そう来なくっちゃ。前の看板娘が3日後に祝言を挙げるの。お客さんと一緒になるのよ。
>町:ほんと? 良いなあ。あたしにもそういう素敵な人が現れないかしら。
>咲:言っとくけどね、顔とか身体付きじゃないわよ。お花さん、お花ってのは前のその看板娘の名前なんだけど、お花さんの相手ってのがね、見て呉れはそれほどじゃないんだけど、行く行くは弟子を持つようになるっていう腕の良い大工さん。
>町:素敵。うちのお父つぁんも建具師(たてぐし)だから、会ったことがあるかもね。
>咲:そうかもね。気の好い人だから、お仕事も回して呉れるかもよ。
>町:そうなれば、あたしも立派な孝行娘じゃない。お誂(あつら)え向きよね。・・・で、いつからなの?
>咲:お町さんの都合(つごう)で良いんだけど、なるべくなら早い方が良いかな? なんてったって祝言が3日後だから。
>町:そうよね。あたし、早速(さっそく)お父つぁんに話してみる。

お咲は、にっこりと笑った。勿論、心の中では、「にやり」と笑っていた。

>咲:それでね、この後会って貰う人なんだけど、そこの縄暖簾の常連さんの1人なの。あんまり冷たくあしらわないでね。
>町:任(まか)しといて。こう見えても、その辺の遣(や)りようは、お手の物なんだから。
>咲:それは心強いわ。これであたしも毎晩お手伝いに駆り出されなくて済むわ。
>町:全然来なくなっちゃうの?
>咲:そんなことないわ。あたしだってお小遣いが欲しいから、お呼びが掛かればいつでも大丈夫。・・・一緒に頑張りましょう。
>町:宜(よろ)しくお願いね、お咲ちゃん。
(第29章の完・つづく)−−−≪HOME