第29章「調子者八兵衛の本心B(仮題)」

254.【せ】 『前車(ぜんしゃ)の覆(くつがえ)るは後車(こうしゃ)の戒(いまし)め』
 (2004.10.18)
『前車の覆るは後車の戒め』
前に進む者の失敗は、後から来る者にとって戒めとなるということ。昔の人の失敗は、後の人の戒めになるということ。
類:●前車の覆轍は後車の戒め●殷鑑遠からず人の振り見て我が振り直せ
出典:「漢書−賈誼伝」「鄙諺曰、前車覆後車戒」
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「なんだとぉ?」
「だるま」の亭主は、お花の話を聞いて素っ頓狂(とんきょう)な声を上げた。

>亭:八兵衛ってのは、"あの"八兵衛のことなのか? どっか別んとこの八兵衛の間違いじゃねえのか?
>花:間違いじゃないです。源五郎親方のところのお内儀(かみ)さんも、「良い話だと思う」って言ってくだすったもの。
>亭:そ、そりゃあ俺だって、駄目(だめ)だなんて言いやしねえけどよ・・・
>花:なんですか、その「けどよ」っていうのは?
>亭:まあ、なんだ、俺の口から言うのもなんだがよ、八公はちょいとばかし頼(たよ)りねえんだよな。どっしりとしてねえってのか、ちゃらんぽらんってのか・・・
>花:それがいけないことなんですか?
>亭:いけねえって訳じゃねえよ。八公はあんなんでも、十分に好い奴だからよ。唯(ただ)、八の野郎にお花ちゃんは勿体ねえんだよな。
>花:そんなこと・・・。親爺さん、あたしのこと買い被ってるんじゃないですか?
>亭:買い被るとかそういうことじゃねえよ。俺が八公のことを知り過ぎてるってのがいけねえんだな、きっと。
>花:知り過ぎているとそういう風に見えちゃうもんなんでしょうか?
>亭:さあな。相手にも拠(よ)るだろうよ。熊公の方はそういう風には見えねえもんな。・・・尤(もっと)も、熊公は熊公で、堅物(かたぶつ)過ぎて羽目を外さねえっていう悪いとこもあるんだがな。
>花:じゃあ、八兵衛さんはどうなんですか?
>亭:開けっ広(ぴろ)げの大股開きよ。・・・おっといけねえ、口が過ぎた。
>花:熊五郎さんと八兵衛さんってことなら、あたしには八兵衛さんみたな方(ほう)が合うみたい。だってあたしって、人の顔色を見るのが下手糞(へたくそ)なんだもの。
>亭:「下手糞」とはね。
>花:まあ、ご免なさい。あたしも口が過ぎたみたい。

「まあなんにしても、目出度(めでた)いのには違いはねえからな」と言って、亭主は仕込(しこ)みの続きに戻っていった。
お花は、縄暖簾(なわのれん)を表へ掛けた。暫(しばらく)く振りである。
都合(つごう)8日間も休んでいたことになる。お咲が「八つぁんのお嫁に来るんなら、ずうっと近くなる訳だから」などと言い出したものだから、「だるま」に戻ってくる羽目になってしまったのである。
「あたしも手伝うからさ」とは言って呉れたものの、正直(しょうじき)どういう顔をして働いたものかという不安は残る。

>咲:遅くなりましたぁ。杉田(すぎた)咲、只今参上。・・・あれ、どうしたの、浮かない顔しちゃって。
>花:世の女子(おなご)というものは、こんなふらふらした気持ちで嫁(とつ)ぐもんなのかしらって。
>咲:ふらふらしちゃってるの? 八つぁんじゃ嫌なの? なら、そう言ってね。
>花:八兵衛さんが嫌とか、そいうことじゃないのよ。自分が本当に誰かと一緒に暮らすようになるのかなって考えると、なんだかとっても不安なの。
>咲:慣れない長屋に慣れない家人(かじん)ってこと?
>花:まあ、端折(はしょ)って言っちゃうとそういうことなのかも知れないけど、それで片付けられちゃうと身も蓋(ふた)もないわね。
>咲:そんなの半月も経(た)たないうちに慣れちゃうって。あたしでしょう、松つぁんに半次さんでしょう、与太ちゃんに太助どんだもの。あ、それと、定(さだ)坊も忘れちゃいけないわね。
>花:そうね。・・・なんだかお咲ちゃんと話してると、つまらないことを心配してるのが馬鹿馬鹿しくなってきちゃうわね。
>咲:元気出た? そんじゃ、お仕事お仕事。今日も飲んだくれどもに愛嬌(あいきょう)を振り撒(ま)いちゃうわよ。

>花:はいはい。あたしも8日振りだもんね。
>咲:その間、どうしてたの? 花嫁修業?
>花:今更(いまさら)そんなことをしたって始まらないわ。お漬物の手伝いをしたり、ちょっとばかし、お弟子さんたちと手合わせをしてみたりよ。
>咲:柔術の? ・・・じゃない、護身術ってんだっけ?
>花:八兵衛さんには内緒(ないしょ)にしといてね。
>咲:お花さんって、案外、とんでもなお転婆(てんば)かも知れないわね。

早い客が2人で入ってきた。
「あれ、お花ちゃんは大工の八つぁんの嫁になったんじゃなかったか?」と、軽口(かるくち)が飛ぶ。

>咲:うちではね、お目出度(めでた)続きで、3つも重なっちゃったもんだから、ほかの2つを待ってるの。
>客1:へえ、そりゃあ凄(すげ)えな。どこの誰なんだい、ほかの2つってのは?
>咲:一黒屋(いちこくや)に養子で入った数次(かずじ)さんでしょう。それと、あたしたちと同じ長屋の与太郎さん。
>客2:一黒屋ってあの大店(おおだな)のかい?
>咲:そうよ。源五郎親方の弟子になった友助さんの弟分なの。
>客1:確か、与太郎ってのも一黒屋で働いてたよな?
>客2:そうだよ。前は青物(あおもの)の棒手振(ぼてふ)りをしてた奴だ。あまりぱっとしなかったけどな。
>咲:見初(みそ)められたんだって。数次さんのお嫁さんの、お隣(となり)に住んでる娘さん。
>客1:へえ、そんなこともあるんだ。羨(うらや)ましいねえ。こっちにもお零(こぼ)れが欲しいもんだな。
>咲:無理無理。こんなに日の高いうちから飲み始めようっていう人たちじゃ、安心して身を任せられないわ。
>客2:良く言うよ。お咲ちゃんたちだって、そんなおいらたちが落としていく飲み代(しろ)を貰ってるんだろう?
>咲:雀の涙じゃない。偶(たま)には銚子2本ずつじゃなくって、1升くらい飲んでいきなさいよね。
>客2:そんなんじゃ、1日おきになんか来られねえじゃねえか。1回1回がちょこっとでも、頻繁(ひんぱん)に来た方が良いだろう?
>咲:そういうのはね、5日に4回来る人が言う台詞(せりふ)。たんまりと、お足(あし)を落としていってね。
>客1:敵(かな)わねえな、お咲ちゃんには。

>客2:そんで、お花ちゃん。媒酌(ばいしゃく)は纏(まと)めて源五郎親方がするのかい?
>花:いいえ。元締めがしてくださるようです。
>客2:へ? あの耳が遠い爺さんがかい? 大丈夫かよ?
>花:さあ、どうでしょう?
>咲:駄目でも良いの。どうせ親方とあやさんが介添(かいぞ)えするんだもの。筆談でしか話せない人が媒酌なんかできる訳ないじゃない。
>客1:そりゃあそうだ。でもよ、なんで駄目だって分かってる爺さんなんぞを媒酌役に立てなきゃならねえんだい?
>咲:囲碁仲間だかへぼ仲間だかに追い付きたいんですって。困った爺さんでしょう?
>客2:囲碁の勝敗を、碁会所の外にまで持ってきて貰っちゃ敵わねえよな?
>客1:一遍(いっぺん)とちりゃ、懲(こ)りるんじゃねえのか?
>咲:でもねえ。元締めの方には源五郎親方が付いてるから良いけど、一生に一遍の祝言(しゅうげん)にけちが付いちゃうお花さんの身を思うとね、ちょっと可哀想かな?
>客1:そりゃそうだな。大丈夫なのかい、お花ちゃん?
>花:あたしの方は全然気にしません。八兵衛さんなんか、却(かえ)って大喜びしちゃうかも知れませんしね。
>客1:違(ちげ)えねえ。
>花:与太郎さんとか、数次さんの方がどうかは気になりますけど。
>客2:そうだよな。なんてったって大店だ。取引先の旦那連も呼ぶんじゃねえか?
>客1:それを見て元締めの方が萎(しぼ)んじまうんじゃねえのか?
>客2:命の方まで萎んじまったりしてな。
>咲:そういう軽口は無しよ。祝言(しゅうげん)にはご法度(はっと)でしょう?

そんな話をしているところへ八兵衛たちが入ってきた。
八兵衛と、熊五郎と、三吉の3人である。

>咲:あれ、3人きりなの?
>熊:五六蔵と四郎は、仲の良いことに倅(せがれ)が風邪(かぜ)を引いたとかで帰っちまったよ。友さんは数次さんに呼ばれてった。
>咲:ふうん。少ないと寂しいわね。・・・あれ、どうしたのよ八つぁん、下を向いちゃったりして? 仕事でへまでもした?
>熊:お花ちゃんと目を合わすのが恥ずかしいんだとよ。間もなく夫婦(めおと)になろうってのに、そんなんでやっていけるのかね?
>咲:ほええ、そうなんだ。結構可愛いとこがあるんだ。・・・八つぁん、あたし八つぁんのそういうとこ好きよ。
>熊:大人を揶揄(からか)うんじゃねえってんだ。
>咲:だって初々(ういうい)しいじゃないの。良いな良いな。あたしもそういう風になれたら良いな。
>熊:老成(ませ)たことを言ってんじゃねえって。
>咲:だって羨ましいんだもん。暫くそういう風にしてても良いわよ、八つぁん。・・・お花さーん、八つぁん来たわよう。八つぁんのとこ、お銚子3ぼーん。

八兵衛は俯(うつむ)いたまま肩をぴくりと動かした。
熊五郎と三吉は目を合わせて、「困ったもんだ」というとうな顔をした。

>熊:なあお咲坊、聞いたか、元締めの囲碁仲間の話?
>咲:なになに? 教えて。
>熊:半月前くらいに媒酌の役をしたそうなんだが、とちっちまったらしいんだ。
>咲:だって、もう何十人もこなしてるんでしょう?
>熊:それがな、何十人じゃなくって、ほんとは5人なんだそうだ。
>咲:ええ? 鯖を読んでた訳?
>熊:どうもそうらしい。なんでも、咳(せき)をし始めたら止まらなくなっちまったらしくってよ、どうしようもなくなって婿(むこ)さんの伯父(おじ)に当たる人が替わってやったそうだ。
>咲:けちが付いちゃったって訳?
>熊:その伯父さんってのが口の達者な人で滞(とどこお)りなくお開きになったそうだ。
>咲:そう。それは良かったわね。元締めも同じようなことにならないように、諦(あきら)めて呉れると良いんだけどね。
>熊:そういう風に物分かりの良いお人じゃねえからな。
>咲:そうなの?
>熊:囲碁仲間の爺さん、それっきり碁会所に来てねえらしいぜ。
>咲:へぼの相手がいなくなって、しょんぼりしてるんでしょうね、元締めも。
>熊:それがよ、ちゃっかり新しい相手を見付けて、媒酌の話を吹聴(ふいちょう)してるらしいぜ。
>咲:ちっとも懲りてないのね。困ったもんだ。
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