第6章「一徹松吉の初恋(仮題)」

55.【い】 『殷鑑(いんかん)遠(とお)からず』 
(2000/12/04)
『殷鑑遠からず』
戒めとすべき失敗の前例は、昔の文献に因らなくとも、手近なところにあるものだ。
故事:詩経−大雅・蕩」「殷鑑不遠、在夏后之世」 殷の紂王(ちゅうおう)が戒めとすべきだった鑑(=手本)は遠い昔にあったのではなく、すぐ前代の夏(か)の桀王(けつおう)が悪政で滅びたことにあったのだという詩の一説から出た語。
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暦(こよみ)が秋を告げたばかりの頃、里帰りしていた五六蔵が戻ってきた。
徹右衛門の騒ぎは川向こうまで聞こえてるよとはしゃいでいたが、強行軍が祟(たた)ったのか、戻ってから2日間ほど熱を出した。
鬼の霍乱だな」と揶揄(からか)われるのも、懐(なつ)かしく有り難いことに思えた。
五六蔵は妹を1人連れてきていた。名を菜々と言い、雀斑(そばかす)顔だが、愛嬌(あいきょう)のある娘だった。
菜々は、甲斐甲斐しく寝込んでいる兄の面倒を見、心配顔で訪れる三吉・四郎とも直(す)ぐに打ち解けた。

>八:なあ菜々ちゃん。曾祖父(ひいじい)さんは大往生したのかい?
>熊:なんてえ聞き方するんだ。そういうのを不躾(ぶしつ)けってんだ。
>菜:良いんですよ。・・・それがね、五六兄ちゃんが帰ってきた日の晩に丁度。安心したんじゃないかって。
>八:死に目に会えたのか? 良かったな。
>熊:それで? 親父さん、敷居を跨(また)がせて呉れたのかい?
>菜:始めはけんもほろろって感じだったけど、曾祖父ちゃんが顔を見たいから上がらせろって言ったもんで・・・
>八:勘当(かんどう)は解けたのかい?
>菜:「嘘を吐(つ)いてるかどうか確かめたらな」って。それであたしが見に来たわけ。
>八:どうだい、嘘じゃぁねえだろ? ちゃんと大工として真っ当に生きてる。
>菜:そうみたい。・・・でもね、ほんとのこと言っちゃうと、あたしが出されたのって、口減らしなのよね。
>熊:信州の実家ってのはそんなに大変なのか?
>菜:それ程じゃないんだけど、二十(はたち)を過ぎたのにいつまでも家に居るなってことみたい。
>八:どういうことだ?
>熊:江戸で亭主を探せってことだよ。
>八:それじゃあ何かい? 五六蔵の野郎、菜々ちゃんに旦那を世話(せわ)する役目を言い付かってきたってことか?
>菜:そういうこと。でも、五六兄ちゃんじゃ期待薄だから、誰かに頼んじゃった方が良いみたい。
>八:そりゃそうだ。ここはひとつ親方に頼んでみるか?

そうして菜々は源五郎に引き合わされ、取り敢えずお雅の元で嫁入り修行を兼ねて働きなさいということになった。
源五郎も、心当たりがない訳ではないが、そう慌てることでもないだろうから気長に進めようと、纏(まと)め役を引き受けた。

>源:八と熊だってまだ独り身な訳だし、どこでどう転がるか分かったもんじゃねえからな。
>八:止(よ)してくださいよ、菜々ちゃんを貰うってことは五六蔵の義弟(おとうと)になるってことですよ。誰が好んで・・・
>源:そんなのそんときになってみねえと分からねえじゃねえか。本人次第ってことよ。・・・まあ良い、三吉だって四郎だっているんだしな。
>熊:三吉か四郎ねえ、まあ、それこそ菜々ちゃん次第ですかね。
>八:可愛い弟子のことをあんまりじゃねえか? そりゃあ熊にはお咲坊がいるからな。良いよな、まったく。
>熊:何を言ってやがる。勝手に決めるな。

そんなこんなで、時は巡り、霜が降りる季節になっていた。
菜々は江戸での生活にも慣れ、いよいよ愛嬌を振り撒(ま)き始めた。4人の姉妹のうち菜々だけが行き遅れているというのが不思議なくらいだった。

>八:よう菜々ちゃん、精が出るねえ。きっと良い嫁さんに成れるぜ。おいらがもう十も若かったら放(ほ)っときゃしないな。
>菜:なに言ってるのよ。八兵衛さんだって全然若いじゃないの。親方の心当たりっていうのが駄目だったら、あたし八兵衛さんによろめいちゃおうかしら。
>八:かーっ、可愛いこと言ってくれちゃうねえ。おいら本気にしちゃうぞ。
>菜:嬉しいわ。・・・でも、あたし知ってるのよ。八兵衛さん、五六兄ちゃんの義弟になるのがやだって言ってたそうじゃない。
>八:あいたたた。痛いところを突いてくるねえ。
>菜:それに、だるまのお夏ちゃんにぞっこんだって話も聞いてるのよ。
>八:こりゃ参った。女子(おなご)連(れん)の耳には気を付けなきゃいけねえな。

>菜:気の多い人は駄目だわね。あたしだけを見てて呉れるような人が良いな。
>八:成る程。ま、親方に任(まか)しせときゃ間違いねえだろ。おいらよりずっとぴったりなのを探して呉れるさ。
>菜:そうだと良いんだけど。・・・それはそうと、親方といえば、お内儀(かみ)さん、お目出度(めでた)かも知れないわよ。
>八:お内儀さんてえと大女将さんかい? 何が目出度えんだい? 富籤(とみくじ)でも当てたか?
>菜:鈍(にぶ)いわねえ。若女将さんの方よ。稚児(やや)よ。稚児を授かったみたいなの。
>八:ほんとか? 親方の子か?
>菜:何を言ってるのよ。当り前じゃないの。ねえ、お内儀さん似の娘だったら良いと思わない? 可愛いわよ、きっと。
>八:親方似のごつい倅(せがれ)ってのも良いな。
>菜:そうね、きっと良い後継ぎになるわ。
>八:けどよ、親方似の女の子だったら?

八兵衛は早速熊五郎たちのところへ行き、あやが身篭もっているらしいということを話して聞かせた。

>熊:そうかい、そいつは目出度えな。今度それとなく聞いてみようぜ。
>八:親方ったら、鬼瓦みてえな顔を恵比寿さんみたく歪めちまうんじゃねえのか?
>熊:幾らなんでもそいつは無理だろう。
>八:そうだよなあ。やっぱり鬼瓦は鬼瓦だよな。
>熊:なんだよその言い様は。
>八:いやなにね、もしも生まれてくるのが親方そっくりの子だったらどうするのかなって思ってな。
>熊:別に良いじゃねえか。逞(たくま)しそうでよ。
>八:そうじゃねえんだよ。娘だったらどうするってことだよ。
>熊:・・・。あ、いや、その辺はな、そう決まった訳じゃねえしな。
>八:な? 心配だろ? おいらが親だったら行く末があんまり可哀相で、どっかへ里子(さとご)に出しちまうな。
>熊:そんな親いるかってんだ。軽弾(かるはず)みなこと言うもんじゃねえよ。
>四:心配と言えば、稚児は5月(いつつき)に入るまでは気が抜けないってことですよ。あんまり早い内からお目出度うございますって言わない方が良いって聞いてます。
>熊:そうだな。暫(しばら)くは気が付かない振りをしていた方が良いかも知れねえな。
>八:それを考えると五六蔵のところは8人もぼこぼこと、よく生んだね。
>五六:田舎は腹の子に障(さわ)るようなことは少ねえですから。あっしの直(す)ぐ下の妹も、もう3人産んでやすし。暮らし向きは楽じゃありやせんが、里子に出すなんてことはしませんって。
>八:口減らしはするけどな。
>五六:へへ。面目(めんぼく)ねえ

なぜかそういった話に詳しい四郎が、妙な話を切り出した。


>四:・・・あの、鬼子母神(きしぼじん)様のこと知ってますか?
>八:入谷(いりや)のかい? 安産にご利益(りやく)があるっていう。
>四:はい。500人もの子供を産んだそうです。
>八:五六蔵の母ちゃんより上手(うわて)だな。
>四:今でこそ安産の仏様ですけど、前は人の子を食らう夜叉(やしゃ)だったそうです。
>八:それで? 今はなんで仏様なんだ?
>四:お釈迦様が末の子供を隠したそうなんですが、半狂乱になっている鬼子母神にこう諭(さと)したといいます。「500人のうち1人いなくなっただけでそんなになるんなら、子を取られた母の気持ちがどうだったか分かるだろう」って。
>八:それで改心したって訳か。
>熊:分かったろ? 子供を里子に出しちまおうなんて親はいやしねえって。
>八:そんなの鬼子母神の話を持ち出すまでもねえさ。・・・教えてやろうか? おいらが餓鬼だった頃、あんまり母ちゃんが怒るもんだから、自分から隠れちまったことがあるんだ。
>熊:へえ、それでどうした?
>八:次の朝んなって、腹が減ったもんだからって帰った。
>熊:そんなことだろうと思ったぜ。それがどう繋(つな)がりがあるってんだ?
>八:勿論(もちろん)こっぴどく殴られたさ。そんでよ、今度は2日間家出してやるって思ったがよ、隣のおばちゃんから「えらい取り乱しようだったのよ」って言われたときは、ほんとに反省した。・・・ほんとだぜ。
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