232.【し】 『食指(しょくし)が動(うご)く』 (2004/05/17)
『食指が動く』
1.食欲が兆(きざ)すこと。 例:「とろけそうな大トロを見て食指が動いた」
2.何かをしてみたい気持ちが起こること。また、広く、ものごとに興味や関心が湧(わ)くこと。
 例:「現品限りと聞いて食指が動いた」
故事:春秋左氏伝−宣公四年」「子公之食指動、以示子家曰、他日、我如此、必嘗異味」 中国、春秋時代、鄭(てい)の子宋が霊公に呼ばれた時、自分の人差し指が動いたのを見て、ご馳走にありつける前触れだと子家に言った。その通り鼈(すっぽん)の料理が出されたが、その話を聞いた霊公は意地悪して子宋に食べさせなかった。この恨みで、やがて霊公は子宋に殺されることになる。
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午飯(ひるめし)を食べ終えると、源五郎と友助は角蔵棟梁の現場の視察に出掛けていった。
四郎は、気が緩(ゆる)んだのか、こっくりこっくりと舟を漕(こ)ぎ始めていた。
こんな調子じゃ四郎の手伝いはあまり当てにはならないなと、熊五郎は溜め息を吐(つ)いた。

そんなところへ半次が現れた。

>半:あれ? 今日はやけに人が少ねえじゃねえか。どうしちまったんだ?
>熊:おお半次か。八と三吉は頼まれて別のところへ行ってる。
>半:そうか。・・・ごろつきの五六蔵は?
>熊:そんな呼び方するなってんだ。もう4年も経(た)つんだからな。
>半:何年経とうが、俺にとっちゃあいつはごろつきの五六ちゃんなの。・・・で、どうした?
>熊:お三千(みっ)ちゃんが産気付いたようだっていうんで帰らせた。
>半:なんだそうだったのか。折角(せっかく)知らせに来てやったってのによ。
>熊:ってことは、生まれたのか?
>半:さっきな。女の子だ。うちの母ちゃんが魂消(たまげ)るくらいの安産だったとよ。
>熊:そうか、そりゃあ良かった。・・・なあ、五六蔵の長屋へ知らせに行ってやっちゃ呉れねえか?
>半:そうだな。物の序(つい)でだ。行ってくるとするか。
>熊:ときに、お前ぇ、仕事はどうしたんだ?
>半:そんなことやってられるかよ。母ちゃんとお八重が菜々ちゃんに掛かりっ切りでよ、その上、松つぁんの奴がそわそわしちまって「一緒にいて呉れよ」なんて泣きを入れやがるんだからよ。
>熊:へえ、そうかい。お前ぇにしちゃ上出来じゃねえか。案外、友達甲斐(がい)なんてもんも持ち合わせてるんだな。

>半:けっ。そんなもん、食ったこともねえや。じゃあな、俺は行くぜ。
>熊:有難うよ。今晩「だるま」に来いよ。祝杯を上げようじゃねえか。四郎のとこも今朝生まれたんだ。
>半:なんだと? おんなじ日なのか? こりゃあ凄(すげ)えや。・・・もしかして、五六蔵んとこも一緒だったら面白(おもしれ)えな。
>熊:そう巧(うま)くいくかってんだ。
>半:そりゃあそうだな。・・・それにしても、この情けねえ四郎が人の親ねえ。
>熊:こう見えても、ちょっとは父親(てておや)らしくなったんだぜ。
>半:そうか? どれ? ・・・こら、四郎、餓鬼ができたってのに居眠りなんかしてるんじゃねえ。
>四:は、は、はい、済みません。・・・あれ? 半次さん。こんなところでどうしたんですか?
>半:熊公にでも聞け。そんじゃ夜にな。美味(うま)い筍(たけのこ)の煮付けでも出てりゃ良いな。俺は、筍には目がねえのさ。特に、根っこんとこの硬いのが良い。

半次は、急ぐでもなしに五六蔵の長屋の方へ向かっていった。
半次が辻を曲がっていくまでの短い間に、四郎はもう、立ったまま前後に揺(ゆ)れ始めていた。
「手が必要になったら叩き起こすから、暫(しばら)く寝てろ」という熊五郎の言葉に、素直に従ってその場に横になった。

そうは言ったものの、起こすのを憚(はばか)っているうちに、7つ(16時頃)時分になってしまっていた。
やってみれば、1人でもなんとかなるものである。
残りの半時(はんとき)ばかりを手伝わせたら引き上げようかと、熊五郎は四郎を起こした。

>四:あ、あれ? こんなに寝ちゃったんですか? 済みません。
>熊:なあに、良いってことよ。その代わり、日が暮れるまでがんがんやって貰うからな。
>四:はい。分かりました。なんでも指図(さしず)してください。

その頃、角蔵の現場の方では、最後の工程も仕上げに差し掛かっていた。

>八:親方、どうです、あっという間に出来上がっちまったでしょう?
>源:ああ。流石(さすが)だな。1人1人の大工が分かってなくても、角蔵棟梁に掛かりゃ、きちんとしたものが出来上がる。
>八:まったく大(たい)したお人でやすね。
>源:大工たちの方も結構な腕前だぜ。お前ぇたちよりよっぽどな。
>八:そうですかい? それほど違いやしませんけどね。
>三:随分違うようですけど。
>八:そりゃあ、お前ぇみてえな駆け出しと比べりゃ月と月見団子くらい違うけど、おいらとはどっこいどっこいだぜ。
>三:それを言うなら月と鼈ですよ、すっぽん。
>八:そんなのどっちだって良いだろう。要は、お前ぇがまだまだだってことよ。
>三:へーい。精々(せいぜい)精進(しょうじん)します。
>八:そうともよ。もうちょっとおいらたちに楽をさせて呉れるようにならなきゃな。
>三:楽するためだけなんですか?
>八:その通りだ。決まってんじゃねえか。有能な弟弟子(おとうとでし)が3人もいりゃ、ここみてえにてきぱき出来上がるだろうよ。・・・ねえ、親方?
>源:うん? ああ。まあな。
>八:どうかしたんですかい?
>源:ちょいとばかし気になることがあってな。
>八:どういうことですか?
>源:挨拶(あいさつ)がてら、棟梁に聞いてくるとする。お前ぇたちはここで待ってろ。
>八:へい・・・

気にはなったものの、八兵衛の頭には、「もしかすると今夜の飲み代(しろ)くらいは出るかな?」くらいの考えしかない。

源五郎は、仮設住居の南側に積まれた屋根瓦(やねがわら)に腰掛けて、煙草(たばこ)を吹かし始めた角蔵のところに近付いていった。

>角:よう、源五郎。2人を借りちまって済まなかったな。お陰で早く出来上がったぜ。
>源:足手纏(まと)いになりやせんでしたか?
>角:よく躾(しつけ)てるな。ちゃんと自分で考えながら働くじゃねえか。俺の指示する段取りを興味深そうな目で見ていやがった。上等なもんだ。
>源:そりゃあ誉(ほ)め過ぎってもんです。あっしには棟梁みてえな纏(まと)める力がねえから、手前ぇらで考えるようになったってことでやしょう。
>角:それでも良いのさ。あれこれに興味を持つってことは良いことだ。それが家を建てる段取りのこととなりゃ尚(なお)のことだ。・・・手先ばっかり立派になっても、次の段階を追い求める気持ちがなきゃどうにもならねえ。
>源:どうにもならねえってことはねえでしょう。
>角:どうにもならねえんだよ。・・・なあ源五郎、20年大工をやってたらどうなる?
>源:そりゃあ、弟子を何人か持って一本立ちするんじゃねえですか?
>角:それが普通だよな? ところがこいつらには、立派な腕はあるが、教え方が分からねえ。おんなじ技を教えることはできるが、それだけじゃ家は建たねえんだよ。
>源:そういうこともあるでしょうが、人ってのはそれほど馬鹿じゃありませんよ。何かは学び取ってるから弟子を持てるんじゃねえですか。ちゃんとした親方にだってなれるでしょう?
>角:そうじゃねえのだっている。・・・ほれ、あっちの現場を差配(さはい)してる野郎だよ。
>源:そりゃあ、金吾さんのことでやすか?
>角:ああ。・・・俺はどうやら育て方を間違っちまったようだ。
>源:あっしにはそうは見えませんがね。
>角:威張(いば)ってだけいりゃ弟子は着いてくると思っていやがる。とんだ「虎の威を借る狐」だ。
>源:仮令(たとえ)そうだとしても、今から治してやりゃあ良いじゃねえですか。
>角:もう間に合わんさ。遅かれ早かれ弟子たちは散り散りになって、あいつだけが残されるだろうよ。

角蔵は、煙管(きせる)の雁首(がんくび)を瓦に打ち付け、疾(と)うに燃え尽きてしまった煙草の火玉を落とした。
とても一仕事(ひとしごと)を遣り遂(と)げた男の表情ではない。

>源:ちょいと聞いときたいことがあるんですが良いですかい?
>角:良いともよ。なんだ?
>源:ちょっと見たところ、仮住まいにしちゃ良過ぎる材木を使ってるように思うんでやすが。それに、瓦も良い奴ですよね? 仮住まいに瓦なんか使わねえでしょう?
>角:ほう。良く気が付いたな。
>源:真逆(まさか)、打ち壊(こわ)すときに貰い受けて、別の家を作る方に回そうってことじゃねえですよね?
>角:その真逆よ。
>源:そりゃあ、一種の騙(かた)りなんじゃねえですか?
>角:そうかもな。・・・だがな源五郎、お前ぇ、武家の内証(ないしょう)のことなんか考えたことはあるのか?
>源:い、いえ。
>角:ここの藩はな、2棟(むね)の長屋を建ててやれるほどの銭なんか持っちゃいねえ。
>源:それじゃあ・・・
>角:そうだ。きっと金吾のところは、なんのかんのと難癖(なんくせ)を付けられて半分の手間賃くらいしか貰えねえだろう。するってえと、材木問屋にも瓦職にも半分しか払ってやれねえ。そして、一番肝心の長屋のみんなには、この仮住まいしか残らねえ。
>源:そんなのってねえじゃねえですか・・・
>角:だが、多分そういうことになる。

>源:それが分かっててこの仕事を請(う)けたんですかい?
>角:誰かがやらなきゃ長屋の住人は焼け出されたまんまだろう? 誰かが損をしなきゃならねえのさ。
>源:でも・・・
>角:俺は以前、ここの仕事で名を揚(あ)げさせて貰った。材木問屋にも瓦職にも少しは儲(もう)けさせてやった。その幾らかを返すだけのことさ。差し引きすりゃ、そんなに悪い話じゃねえ。・・・だが、長屋の住人らは訳が違う。割りを食っただけってことだ。それじゃ、あんまりだからよ、梅雨(つゆ)が明けた頃にでも、ちゃんとした長屋に建て替えてやるさ。

>源:このことは、金吾さんもご存知なんで?
>角:あいつにゃ、そこまで考えられる頭はねえよ。
>源:棟梁。あんたはとっても立派なお人だ。爪の垢でも煎じて飲まして貰いてえほどですよ。
>角:止(よ)せやい。隠居した年寄りをあんまり持ち上げるもんじゃねえよ。
>源:なんだか、あっしも、色々と学ばなきゃならねえって気になりやした。
>角:八兵衛と三吉っていったか、あいつらのこと、精々労(ねぎ)ってやって呉れよ。値切られる前に、ちっと多めに包んでやる。
>源:痛み入りやす。銭よりも何よりも、あいつらがちっとはやる気を出したってことが嬉しいです。
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