138.【き】 『奇貨(きか)居(お)くべし』 (2002/07/22)
『奇貨居くべし』
珍しい品物だから、今買っておけば後で利益を得る材料となるだろうという意味で、得難(えがた)い機会が巡ってきたら逃がさず利用しなければならないということ。好機を逸してはならない。
出典:「史記呂不韋伝」 「此奇貨可居」
人物:呂不韋(りょふい) 中国戦国末の商人で秦の宰相。?〜前235年。趙の人質となっていた秦の荘襄王を庇護し、その功により丞相となり、始皇帝に仲父(ちゅうほ)と尊称されたが、密通事件に連座して失脚、自殺。学者を優遇し、諸説を折衷して「呂氏春秋」を編纂した。始皇帝の実父ではないかという説がある。
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仕事を終えて戻ってきた一同の中から、先(ま)ず最初にあやに呼ばれたのは、源五郎だった。
他の面々も「みんなにも言うことがありますから、ちょっとだけ待っていてください」と、足止めされた。

>三:姐(あね)さんから呼び止められるのなんか珍しいでやすね。
>熊:大方、八がくだらねえことやってるから、もう少し気合いを入れろってことだろ?
>八:そんなことあるかよ。おいらは四郎のためを思ってやってるんだ。親身(しんみ)になってるやつを怒るなんて、聞いたこともねえ。
>熊:傍(はた)から見りゃあ、仕事に身が入ってねえだけに見えるのさ。
>八:そうか? おいらは一所懸命なんだけどな。まあ、そう言われたら、分かるように良ぅく説明してあげよう。
>熊:お前ぇが説明なんかできる立場か。
>八:おいらと姐さんの間で遠慮なんてもんは要(い)らねえのよ。
>四:・・・あの、おいらは、なんだかそのことじゃないような気がするんですけど。
>八:じゃあ、なんだってんだ?
>四:そんなこと分かりませんけど、なんだか、姐さん、にこやかだったように見受けられたんですけど。
>八:良い話なのか? ・・・もしかして、なんか駄賃(だちん)でも出るのかな?
>熊:お前ぇは直ぐにそっちへ行くんだな。しみったれてるって言われるぞ。

程なく、あやが作業場に現れて、四郎を手招きした。
何故(なぜ)四郎なのか? と、皆が顔を見合わせた。

>三:どうなってるんでやす? 八兄いでも熊兄いでもなく、なんにもやらかしていなそうな四郎が呼ばれるってのは、ちょいと解(げ)せやせんね。
>八:そうか、読めたぜ。
>三:どういうことで?
>八:一黒屋のご隠居様だよ、きっと。先(せん)だってはご苦労だったって、夕飯のご招待かなんかが来たんじゃねえのか? こりゃあ、美味(うま)いもんが鱈腹(たらふく)食えそうだぜ。
>熊:そんな都合の良いことばかりあるかよ。仮に、もしそうだとしたって、一人一人呼び付けたりなんかしてねえだろ。
>八:そうか。・・・じゃあやっぱり四郎がなんかやらかしたってことか?
>熊:そんなことはねえ。何かやらかしてるとしたら、四郎よりも五六蔵の方が怪(あや)しかろう?
>五六:そりゃあねえですぜ、熊兄い。
>熊:はは、冗談さ。・・・ま、うちのもんがなんかをやらかしたってことじゃねえだろう。実際、ここんとこ大人しくしてるもんな。
>八:なんにもなくて詰まんねえくらいだ。・・・だから、四郎の兄(あん)ちゃんが来て呉れねえかって言ってるんじゃねえか。
>熊:だから、人を騙(だま)くらかすのは止(や)めにしようっての。
>八:良いじゃねえか、たいして罪のあることじゃなし。方便だろ? お前ぇも、良く言うじゃねえか「嘘はいけねえが方便なら構わねえ」ってよ。
>熊:なんでもかんでもって訳じゃねえ。

やがて、源五郎が顔を出して、八兵衛を名指しした。
八兵衛は「そう来なくっちゃ」と言って、勇んで源五郎の後に従った。

>三:一体どういうことでやすか? 順番がてん目茶苦茶じゃねえですか。
>熊:おいらにもさっぱり掴(つか)めねえ。姐さんは一体何を考えていなさるんだ?
>五六:まるで、一番物分かりの良いのとそうでねえのと、両端(りょうはし)から基礎固めしたって感じでやすねえ。

ほどなく、「なんでやすってぇーっ」という八兵衛の素っ頓狂な声が、奥の座敷から聞こえてきた。
源五郎の宥(なだ)めるやら賺(すか)すやらの声に混じって、叱責(しっせき)するような声まで漏(も)れてきた。
四郎のときにはまったく漏れてこなかったものである。
どうやら、八兵衛こそが呼び出しの目当てであったらしい。

>三:なんだか拗(こじ)れてるみたいでやすねえ。
>熊:大方、八兵衛の野郎が一方的に駄々を捏(こ)ねてるんだろ。
>五六:やっぱり良くない話なんでやしょうか? 四郎が一黒屋さんのところに雇(やと)われるとか、そんな・・・
>熊:半人前な者は職を替わったって半人前にしかなれやしねえ。親方だって、そのくれえ知っていなさるさ。
>五六:じゃあ・・・

奥から、4人が纏(まと)まって出てきた。
源五郎とあやはにこにこしている。四郎はおどおどしている。八兵衛はがっくりしている。三様である。

>五六:お、親方、もしやとは思うんでやすが、四郎を一黒屋さんに渡しちまうなんていうことじゃねえですよね?
>源:なんだと? そんな話どっかた出てくるんだ?
>五六:だって、八兄いがあんなに食い下がるからには、きっと大事(おおごと)なんでやしょう?
>源:大事には違いねえが、そんな話じゃあねえ。俺は弟子を誰かに渡しちまったりはしねえぞ。誰が好んで金の卵を人に遣(や)るかってんだ。
>五六:金の卵でやすか?
>源:ああそうだ。お前ぇも三吉も、俺にとっちゃあ大事な弟子だ。居なくなられたら、失うものが多過ぎら。
>三:だって、おいらも四郎もまだまだ半人前で・・・
>源:まったく駄目だと分かってたら、何も後生大事に抱え込んでたりしやしねえよ。大丈夫だ。お前ぇらが弟子を取るようになるまでは面倒を見といてやる。
>三:有り難うございやす、親方。

>熊:するってえと、なんの話だったんでやすか?
>源:明日の晩、四郎の祝言(しゅうげん)を挙(あ)げる。
>熊:い、今なんて言いやした?
>源:四郎の祝言だ。精々(せいぜい)粧(めか)し込んで来い。
>熊:はあっ? ・・・し、四郎、お前ぇ、いつの間に。・・・五六蔵、お前ぇ知ってたのか?
>五六:いいえ、さっぱり。・・・ほんとかよ。
>四:ええ。どうやら、そういうことらしいです。
>三:なんだよ、お前ぇが一番信じられなそうな顔してるじゃねえか。鳩が豆鉄砲食らったようだぜ。
>熊:親方、どういう経緯(いきさつ)なんで?

>あや:今日のお昼過ぎにお兄様がお出でになったんです。
>五六:え? もう来ちまったんですかい? じゃあ、八兄いの苦労は水の泡でやすかい?
>源:そういうことだな。これで少しは気が楽になったぜ。
>あや:お兄様は、四郎さんが親方じゃないってことを端(はな)からご承知だったそうですよ。
>五六:とんだ一人相撲でやしたね、八兄い。
>八:五月蝿(うるせ)えや。こちとら、弟弟子に先を越されちまって、とんでもなく嘆(なげ)いてんだ。少し放っといて呉れ。
>熊:お前ぇ、そんなことで駄々を捏ねてやがったのか? まったく肝っ玉の小せえ野郎だな。
>八:お前ぇは良いよな。お咲坊っていう先を契(ちぎ)った相手が居るんだからよ。
>熊:誰がそんなことするか。おいらだって、お前ぇとおんなじよ。弟弟子に先を越された間抜けな兄弟子よ。・・・だがな、そのどこがいけねえ? 祝言なんてものは先だから偉いとか、後だからいけねえとかってもんじゃねえだろ。
>あや:そうですよ、八兵衛さん。四郎さんには偶々(たまたま)良い縁が在ったんです。八兵衛さんだって遅かれ早かれですよ。だって、こんな良い男、世間がいつまでも放っておく訳がないですもの。
>八:そ、そうでやすよね、姐さん。・・・やい、四郎。おいらだって追っ付け良い女房を見付けて祝言を挙げてやるからな。そんときは精々たんまりと御祝儀(しゅうぎ)を包みやがれ。
>熊:またそれかよ・・・

>源:人にはな、八。良い巡り合わせなんてものはそう何回も来るもんじゃねえ。今がそれだって気が付いたら、少しくらいの犠牲なんか気にしねえで、食らい付いていかなきゃいけねえぞ。
>八:へい。分かりやした。
>熊:親方の口から言われても、あんまり説き伏せられたって気がしねえんですけど。
>源:なんだと?
>熊:機会を物にしたのは親方じゃなくって姐さんの方だってことです。
>五六:違(ちげ)えねえ。
>源:こら五六蔵。手前(てめえ)まで俺を小馬鹿にしやがるのか?
>五六:と、とんでもねえです。「終わり良ければすべて良し」でやすよね、はは。

>熊:ときに姐さん、四郎の嫁さんってのはどこの誰なんでやすか?
>あや:許婚(いいなずけ)ですって。
>熊:へ? お前ぇ、そんなの居たのか?
>四:実はおいらも知らなかったんです。
>熊:なんだと?
>四:
兄(あん)ちゃんと吾作さんの間で、ずっと前から決まってたことらしいんです。
>あや:およねさんっていうんですけどね、なんでも、およねさんの望みもあってのことだそうですよ。
>熊:惚(ほ)れられたってのか? 男としちゃあ冥利(みょうり)に尽きるってもんだな。
>四:そんなんじゃねえんです。偶々家が隣同士だったって、唯(ただ)そんなことですよ。
>八:でも手前は、
満更(まんざら)でもねえんだろ?
>四:そりゃあ、おいらみたいな甲斐性無しのために、田舎(いなか)を捨てても構わないって言って呉れるんでしたら・・・
>五六:良い話じゃねえか。おい三吉、お前ぇにもそんなのは居ねえのか?
>熊:ま、待て五六蔵。この上三吉もじゃあ、八の野郎が気が変になっちまうじゃねえか。
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