70.【う】 『雲泥(うんでい)の差(さ)』 (2001/03/26)
『雲泥の差』[=相違・違い・懸隔(けんかく)]
二つのものが、天と地ほども隔(へだ)たっているということ。非常に大きな違い。
類:●雲泥万里月と鼈(すっぽん)天地霄壤(てんちしょうじょう)
出典:「晋書」・白居易の詩「傷友」
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与太郎の聞き込みによると、上方者の英二たちは、園部屋という薬種問屋を頼って江戸に下(くだ)って来たらしい。
園部屋の主(あるじ)松次郎は、風邪薬の材料として久呂万米(くろまめ)を丹波から買い付けていた。
その荷に、英二たちが「くっ付いてきた」ということらしい。

>咲:与太郎さんって意外と凄(すご)ーい。よく半日でそこまで調べたわね。
>与:勝手場の人たちって話し好きですからね。尤(もっと)も、聞きたくないことにまで付き合わされますがね。
>伝:鈍(にぶ)そうな青物売り程度にしか考えてなかったが、お前ぇ、使えるぜ。こりゃあ拾いもんだな。
>与:はあ。八兵衛さんていう人が考え出したんです。魚売りの下っ引きがいたら良いなって。
>伝:ほう。その八兵衛さんっていうお人はよっぽど切れもんなんだな。学者さんかい?
>咲:学者? とんでもない。只(ただ)の大工よ。
>伝:本当かい? でもよ、只もんじゃねえよな、きっと。
>咲:只もんよ。時々、ちょっと突飛(とっぴ)なことを言い出すだけ。
>伝:お前ぇさんたちの前じゃあ、態(わざ)と惚(とぼ)けて見せてるってだけじゃねえのか? 能ある鷹はなんとかって言うじゃねえか。
>咲:真逆(まさか)。八つぁんは鷹じゃなくて、そうね、お酒に浸した米を食べた雀(すずめ)ってとこね。
>伝:まあ良いや。そういうことにしておこう。

お咲が聞いてきたのは、2日前に町人相手に一騒動起こしたらしいという事だった。
肩がぶつかったとかどうとかで口論となり、碌に相手の言い分も聞かないで、殴り付けたという。

>咲:殴られた人の名前までは分からなかったけど、逃げ足だけは速かったって。
>伝:そうか、もう仕出かしやがったか。その、殴られたっていう町人からも話を聞いてみてえな。
>咲:別の人から、人相風体(にんそうふうてい)を聞いたんだけど、ちょっと思い当たる節があるのよね。
>伝:なんでえ、もう見当(けんとう)が付いちまってるのか?
>咲:ええ。ちょっと喧嘩っ早い左官職の人を1人知ってるのよ。
>与:二助さんのことですか?
>咲:そう。
>与:そう言えば、昨日見掛けたとき、左の目の辺りが腫(は)れていたような気がします。
>伝:そうかい。そりゃあ間違いなさそうだな。・・・じゃあそっちの方は明日に回しとこう。今日はこれ位でお開きとしようや。
>咲:英二とかいう人が来るのを待ってなくても良いんですか?
>伝:ああ。今日はもう十分成果が上がったからこんなもんで良いだろう。全く成果なしってのが当たり前の仕事だからな。それに、与太郎さんだってお咲さんだって他に仕事があるだろう。十手持ちっていう訳じゃねえんだからな、朝から晩まで拘束するってぇ訳にもいくまいよ。
>咲:そんなもんなの? もっと、張り込みとか、尋問とかするのかと思ってた。
>伝:まあ、そういうのは、桃山の旦那からそうして呉れって言われたときだけで良いのさ。
>咲:ほんとに片手間仕事なのね。
>伝:まあまあ。そう不貞腐(ふてくさ)れたもんでもないさ。桃山の旦那は結構良い給金を払ってくださる。
>咲:そういうことじゃなくて・・・
>伝:どういうことだい?
>咲:なんだかあたし、その英二って人のことに興味が湧いてきちゃったのよね。気になることはとことん気になっちゃう質(たち)なの。もうちょっと待ってみても良いでしょ?

>伝:おやおや、そんなに熱心だとこっちも煽(あお)られちまうな。なあ、与太郎さんはどうする?
>与:あたいは残った青物を売りに回ろうかと思います。それと、頃合いを見て、野崎屋さんで働き始めた知り合いの方を覗いてこようかと・・・
>伝:野崎屋? ああ、あの絵草紙屋かい?
>与:はい。
>伝:人を雇(やと)うほど余裕があるとは思えねえがな。
>与:なんでも、瓦版売りを始めるそうなんです。その売り手にということで雇われたんです。それ以外のときは絵草紙の店番をしてます。
>伝:瓦版ねえ。こんな平穏な世の中じゃそっちの方も見通し暗いなあ。
>与:出来高払いってことらしいんで、売れないと1文も貰えないそうなんです。
>伝:成る程、そういうことかい。そりゃあ辛いなあ。・・・そうだ、なんなら、芝居好きの若旦那を紹介しようか?
>与:そんな方を知ってらっしゃるんですか?
>伝:嘗(な)めて貰っちゃあ困るね。伊達に十手を預ってる訳じゃねえんだからよ。
>与:助かります。
藁(わら)にも縋(すが)りたいところでしたから。

>伝:唯(ただ)、1つ厄介なとこがあるんだがな。
>与:厄介ごとと言いますと?
>伝:その若旦那、少々いかれちまってるかも知れねえんだ。・・・天女(てんにょ)を見たって信じ込んじまっててよ、その天女がよ、暖簾(のれん)分けして財を築いたら会いに来て呉れるって言ったとかで、人が変わったみたいに真面目(まじめ)に働いてるんだよな。
>咲:それって・・・
>伝:だからよ、遊び回ってた頃は確かに芝居好きだったんだが、今はどうなんだか分からねえぞ。
>咲:もしかして、堺屋の蛸(たこ)、い、いえ、若旦那?
>伝:なんでえ、徹右衛門さんのことも知ってるのかい。いやはや、よくよく顔が広いお人だねえ。
>咲:はは。・・・うーん、この件は伝六さんと与太郎さんに任せるわ。あたしは関わりたくない。
>伝:ははあ、さては、お前さんも言い寄られたことがあるんだな? あの人は綺麗な娘さんと見ると、決まって、俺の娘を産んで呉れって頼み回ってたもんな。
>咲:そういうのともちょっと違うのよね。
>伝:まあ、良いって良いって。その辺のところはこの伝六さんが巧くやっとくからよ。なあ与太郎さん。
>与:是非、お願いします。

その日は結局、英二たちは現れなかった。
夕刻、お咲は、お夏と、どうせ飲んでいるであろう熊五郎たちとに報告するため、「だるま」へ向かった。

>咲:伝六さんって、ちょっと独(ひと)り合点するところがあるけど、良い人みたい。
>八:与太郎の奴もやっていけそうかい?
>咲:やっていけそうかですって? それどころじゃないわよ。1時(とき)ちょっとで随分情報を集めてきたのよ。天職かもね。
>八:流石(さすが)はおいらの思い付きだな。
>咲:それとこれとは話が違うと思うわ。・・・でもね、それを思い付いた八つぁんのこと、学者かなんかか、ですって。
>熊:こいつが学者だあ? 何をとち狂ってるんだか。
>咲:会ったことがないって恐ろしいものよね。
>八:どういう意味だよ。
>咲:学者と、唯(ただ)飲んだくれてる大工とでは、天と地くらい離れてるって意味よ。
>八:唯飲んだくれてる訳じゃねえぞ。
>咲:じゃあ何?
>八:これまでの人生を振り返って、おいらは正しい生き方をしているんだって再確認してるんじゃねえか。
>咲:また口から出任せ言って。
>八:出任せじゃねえって。今が楽しければ全てが正しかったんだってことになるだろ? そういうことよ。
>熊:簡単で良いよな、お前ぇは。

>咲:・・・そうそう、伝六さんが、芝居好きの若旦那を紹介して呉れるんだって。
>熊:へえ、そいつは良かったじゃねえか。
>咲:どうかしら? その若旦那ってのがね、堺屋の蛸なんだって。
>八:こいつは魂消(たまげ)た。蛸の野郎、女じゃ飽き足らずに女形(おやま)にも手を出してたのか?
>咲:さあ。でもね、人が変わったみたいに商売に励(はげ)んでるんだって。天女に会いたいっていう下心はあるらしいんだけどね。
>八:はあ、女も女形も天女もか? 守備範囲が広いねえ。・・・ははあ、さては、蛸だけに、八つ股掛けねえと納まらねえんだな。
>熊:あーあ、これが、曲がりなりにも学者と間違えられた男の言うことかねえ。
(第7章の完・つづく)−−−≪HOME