305.【つ】 『月(つき)と鼈(すっぽん)』 (2005.10.11)
『月と鼈』
月も鼈も丸いという点では似ているが、実際には非常な違いがある。二つのものが比較にならないほど違っていることの喩え。
類:●雪と墨提灯に釣鐘雲泥万里雲泥の差
★語源についての諸説 @「嬉遊笑覧」「スッポンを丸と異名をつけて呼ぶ。漢名にも団魚(だんぎょ)と言ふと等し。月は丸きものなれど、丸と呼ぶスッポンとはいたく異なるるな
り」 A「嗚久者評判記」似て非なるもので比較にならないものとして「下駄に焼味噌」と並んで「朱ぼんに月」を取り上げている。・・・その他、B天のものと地のもの説など。
参考の出典:嗚久者評判記(あくしゃひょうばんき?) 評判記。・・・調査中。
*********

熊五郎が、鴨居(かもい)にぶら下がりっ放しになっている洗濯物を畳(たた)もうかなどという気を起こしたところへ、八兵衛が帰ってきた。
ほろ酔い機嫌で、なんだかとても嬉しそうである。

>八:よう、熊。今戻ったぜ。
>熊:お前ぇなあ。こっちに寄る前に、自分とこへ行って、お花ちゃんがどんな具合いか見てやるもんじゃねえのか?
>八:そりゃそうだがよ、家(うち)にゃ婆(ばば)あがいるんだぜ。なんかあったって大丈夫よ。もしかすっと、おいらなんかいねえ方が良いかも知れねえ。
>熊:そんなこと言うなって。世の中物騒(ぶっそう)だからよ。いざって時には男手(おとこで)があった方が安心だろ?
>八:男手なら六さんだって松つぁんだっているだろう? 一声呼ばわりゃ、直(す)ぐにすっ飛んでくらあな。な? そこが長屋の良いとこだろ?
>熊:なんだよ。今頃んなって長屋談義か? そりゃ、長屋にも良いとこはある。だがよ、その話は引っ越すって決めたときに話したろう?
>八:そうだっけ? でもよ、長屋暮らしは良いもんだぞ。
>熊:今更そんなこと言いに来たのか? 聞く耳なんか持たねえぞ。
>八:そうか。そりゃそうだよな。まあ、物足りねえが、あの笑止千万(しょうしせんばん)で我慢してやるとするか。
>熊:だから、そういう呼び方はするなってんだ。万吉と千吉が住むようになったら、頼むからな。
>八:仕方ねえな。まあ、おむつが取れるまで面倒見てやるとするか。なんなら、一緒に寝起きしてやっても良いぞ。
>熊:止(よ)せったら。・・・そんなことはどうでも良いから家(うち)へ帰れ。
>八:なんだ? おいらを邪魔者にするのか?
>熊:そうじゃねえったら。折角(せっかく)帰ってきてるってのに、自分ちに顔を出さねえってのはどうかと思うってことだよ。
>八:そうか? そんなら、一言(ひとこと)言ってくるか。

八兵衛は、2、3歩外へ出ると、「おーい、お花。熊んとこにいるからよぉ」と叫んだ。
向こうから、聞こえるかどうかの声で「あいよー」という声が返ってきた。
まったく、妙な夫婦(めおと)である。

>八:な? ちゃんと聞こえただろ?
>熊:お前ぇなあ、近所迷惑とかそういうことってのは気にならねえのか?
>八:何を言ってやがるかねぇ、こいつは。おんなじ長屋に住んでりゃ身内(みうち)も同然。何を遠慮なんかすることがあるってんだ。
>熊:だって、もう好い加減遅い刻限だぞ。
>八:遅くなんかあるかってんだ。戌(いぬ)の刻(=20時頃)を過ぎたばっかりだろ?
>熊:程なく4つ(=22時)になろうって頃だぞ。与太郎や定吉なんか疾(と)っくの昔に寝ちまってら。
>八:へ? そんなんなっちまってるのか? こりゃ魂消(たまげ)た
>熊:だから早く帰って寝ろ。明日はおいらも休みを貰っちまってるんだぞ。仕事の方はお前ぇがやって呉れなくっちゃ困るんだからな。
>八:分かってるって。そんなもん、ちょちょいのちょいよ。・・・そんなことより、明日の晩にゃ祝言(しゅうげん)だろ? 引越しなんか早めに片付けて、湯屋にでも行ってようく洗っておけよ。
>熊:また馬鹿なことを言い出す。
>八:馬鹿な話なもんか。これまでいつも一緒だったからって言ってもよ、女房となりゃ別もんなんだからな。ちゃんと大事に扱ってやらなきゃなんねえの。
>熊:それと湯屋とがどう関わるってんだよ。
>八:そんなの分かってる癖に。蒲魚(かまとと)みてえなこと言うんじゃねえって。
>熊:なんだ手前ぇら、そんなことを酒の肴(さかな)にしてたんじゃねえだろうな?
>八:へへ。当たりだ。なんてったって、目出度(めでて)え話だからよ。酒の肴にゃ一番よ。
>熊:まったく下品な野郎どもだ。
>八:三吉にもそういう気持ちになるようにって気配りからに決まってんじゃねえか。親心(おやごころ)みてえなもんよ。
>熊:物は言いようだな。

その頃、当の三吉は「だるま」に留まっていて、最後の3人連れが帰るのを待っていた。
「明日は来られねえんだから、今夜は送ってってやれ」と、八兵衛から言い付けられたのである。

>町:三吉さんも帰って良いのよ。八兵衛さんたちには、送って貰ったって、口裏を合わせとくから。
>三:八兄いから言われたから待ってるって訳じゃねえんだ。おいらの好きでやってることだから。
>町:そうお? なんだか悪いわね。今日はちょっと遅くなってるし、親爺(おやじ)さんも早く仕舞いにして呉れれば良いのにね?
>三:良いさ。ああ見えても八兄いと五六蔵兄貴は気の利くお人でさ、飲み代(しろ)を余計に置いてってくだすったから。
>町:お目出度いことがあるからって、気が大きくなってるのね。
>三:そりゃ、おいらだって似たようなもんさ。こんなときでもねえと、お町ちゃんを送ってくなんて言えやしねえ。
>町:あら、そうなの? 送って貰えるんだったら、あたしはいつだって助かるんだけどな。
>三:ほんとかい?
>町:ほんと。
>三:そんなら、できるだけ毎晩来るようにするかな?
>町:それはあんまりお奨(すす)めできないわね。
>三:なんで?
>町:懐(ふところ)具合いもそうだけど、三吉さんの身体(からだ)の方が心配なのよ。いつまでも若くないんだから。
>三:大丈夫さ。家は代々酒にだけは強い血筋だからな。
>町:それでも心配なの。今日はもう止めときなさいよね。水を持ってきてあげるから。あと、内緒(ないしょ)でおにぎりを作ってきてあげるわね。

お町が水を汲(く)
みに奥へ入っていった。
3人連れはまだ腰を上げようとしない。
三吉は、「心配してる」か・・・と、溜め息を吐(つ)いた。なんだか、見込みのありそうな言いようではないか?

そんな頃、恋敵(こいがたき)である組み紐職人の竜(りゅう)はというと、溜まっていた店賃(たなちん)を納(おさ)めてしまって、すっからかんで長屋にいた。
酒を飲もうにも夕飯を食おうにも、先立つものがない。
明日の引越しは昼過ぎだというから、昨日今日で作った紐を朝のうちに納めれば、飯に有り付けるだろう。
散々飲み食いした上に、握り飯まで貰って帰る三吉とは、豪(えら)い違いである。

>町:はい、お水。おにぎりは帰りにね。
>三:済まねえな。
>町:あたしの方こそ。・・・近頃ね、お父つぁんったらね。
>三:午(うま)之助父つぁんがどうかしたのかい?
>町:「三吉とはどうなんだ」って聞くのよ。可笑(おか)しいわね。
>三:お、可笑しいかい?
>町:うーん、どうかな? 今度、お休みのときにでも話し相手でもしてみたら?
>三:良いのかい?
>町:お父つぁんの相手になって呉れるんだったら誰でも歓迎よ。
>三:なんだ、そういうことか。
>町:そういうこと。・・・だけでもないかもね。分かんない。
>三:そうか。幾らかは見込みが出てきたかな? こりゃ有り難えや。・・・早速(さっそく)そうさして貰うよ。四郎の話じゃ、明後日(あさって)くらいから暫(しばら)く雨が降るってことだからな。

>町:何? 四郎さんってお天気のことが分かるの?
>三:あいつは生まれ付きの百姓だからな。そういうことには鼻が利くんだろ。
>町:案外(あんがい)重宝(ちょうほう)な人なのね。いつもは黙(だま)ってるけど。
>三:大工にしとくには勿体ないくらい頭の回る奴だよ。見る人がいねえと、目立たなくって損をするような奴さ。
>町:仲良しなのね。
>三:10年以上の相棒だからな。
>町:良いわねえ、男の人って。そうやって、ずっと付き合っていられるんだもんね。
>三:それだって、五六蔵兄貴や源五郎親方がいてくだすったからさ。特に、親方には足を向けて寝られねえな。
>町:ほんと良い人よね、源五郎小父(おじ)ちゃんって。あやさんがいなかったら、狙ってたとこなんだけどな。
>三:「あの顔じゃあな」なんて言う奴がいるが、そいつはてんで違うところを見てるんだなって思うよ。そういう奴は、鯔(とど)の詰まりが、良い親方に巡り合うこともねえんだろうよ。
>町:三吉さんってさ、仲間の話になると、嬉しそうに話すのね。
>三:だってよ、大好きなんだよな。若気(わかげ)の至りで、その辺でごろを巻いてた頃とはまるっきり逆だな。人を好きだなんて思ったこともなかったもんな。親でも、五六蔵兄貴でさえも好きになんかなれなかったんだ。
>町:ふうん。

そんな頃になって、やっと3人連れが立ち上がった。お町もお礼を言いに立ち上がっていった。
三吉も何度か見た顔が1人混じっている。
その男が、帰りしなににこっと笑って、「お似合いだな」と言って手を上げた。
お町と話していたことよりも、何故(なぜ)か、そのことの方が嬉しくて、じんわりと涙が滲(にじ)みそうになった。

>町:あら、どうしたの?
>三:おいら、もしかすると泣き上戸(じょうご)の気(け)があるのかもな。
>町:(ざる)なのに?
つづく)−−−≪HOME